おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.07.30column

内容豊かに開催!~「祇園祭」の映像を見て、1150年記念「祇園祭」還幸祭神輿渡御見物~Part1

7月1日から一か月にわたって営まれてきた祇園祭も、明日の31日疫神社夏越祭で滞りなく終了します。24日は山鉾巡行後祭に続き、御旅所でお休みなっていた神様が祇園祭発祥の地とされている八坂神社御供社へお参りされてから、八坂神社にお戻りになる還幸祭が営まれました。今年は祇園祭が始まって1150年の節目だというので、特別にミュージアム近くに位置する八坂神社御供社に中御座(祭神:スサノヲノミコト)、東御座(祭神:クシイナダヒメノミコト)、西御座(祭神:ヤハシラミコガミ)の3基の神輿が集結するというので、それを皆で見学しましょうと企画しました。宮本組の方から、およそ夜8時頃だろうと教えて貰いましたので、せっかくの機会なので祇園祭りに関する映像もご覧いただこうと16時からイベントをスタートしました。

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少人数での開催になりましたので、最初に自己紹介から。左から谷川建司・早稲田大学政治経済学術院客員教授、京樂真帆子・滋賀県立大学人間文化学部教授、樋口摩彌・同志社大学非常勤講師、市内の柳原さん、愛知県からお越しいただいたサポーターの牧村さん、正会員の河田さん、映画『祇園祭』製作時をご存知の岡田(旧姓高橋)佳美さん、府南部から遅れて到着の舘さん、そして私共二人。こういう膝をつき合わせる感じの近い距離でお話をし合うのもなかなか良いものでした。

大正山鉾

①最初に、『祇園の山鉾』と缶に書かれていたフィルムの映像から。調査の結果1913(大正2)年に17.5㎜(35㎜フィルムを真ん中で半分に切ったサイズで、パーフォレーションが真ん中にある)という特殊なフィルムで撮影された映像です。骨董店で12年ほど前に購入した4巻の一つ。後の3巻はA=『明治天皇御大葬餘影』。B=『噫乃木将軍』(1912年9月18日葬儀と葬列)。C=タイトル不詳ですが飛行機4機が映っています。専門家の話によれば、そのうちの1機が1915(大正4)年宇治で墜落し、操縦士が亡くなっています。AとBは「東京家庭活動写真会謹写」のクレジットがあり、素人の撮影ではありますが、許可を得てのものと思われます。

さて、この祇園祭山鉾巡行の記録映像は、オリジナルのネガ・フィルムで、映像には工事中の三井銀行が映っています。そのことと、山鉾巡行の順番から1913年の前祭と特定できましたが、毎年行っている祭りを記録するには、撮影するなりの特別な理由があるはず。それが、明治天皇崩御で自粛していた祇園祭山鉾巡行が再興された最初だったことがわかりました。現存する山鉾巡行の映像で今のところ最古のものだと思われます。今と違って、巡行する山鉾の前を人々が自由に行き来していますし、舁山(かさやま)は人々が担いで巡行しています。また、放下鉾には、舞を披露する生き稚児さんの様子も記録されています。放下鉾に生き稚児が乗っていたのは1928年までだそうです。このフィルム発見は、2007年8月12日付け京都新聞朝刊1面トップで大きく報道されました。

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②次は、パテ・ベビー・フィルム(9.5㎜)で撮った映像で、1933(昭和8)年頃のもの。撮影者は寄贈者のおじいさまで、麩屋町四条のところで商いをされていましたので、当時の街の様子もわかります。映像には、屋根が六角形をした中御座の神輿と共に、八坂神社の紋入り幟を差した武者行列が映っています。行列への参加は1974年が最後となりましたが、祇園祭に合わせて、弓矢町で甲冑が店先などに展示されています。山鉾巡行は、戦前まで、四条通から寺町を下がって松原通を巡行していました。この映像も、2016年7月15日付け京都新聞夕刊で大きく報道していただき、その夜の祇園天幕映画祭で大勢の人にご覧いただきました。

③続けて、同じ方から寄贈してもらった1928~30年頃に撮影された映像。パテ・ベビー・フィルムに映っていたのは、四条通を行く奴さんや稚児たちの行列。四条通の北側を進む山鉾の様子と八坂神社へお参りする久世駒形稚児と生き稚児たちの可愛い様子。今は山鉾巡行の先頭を進む長刀鉾だけが生き稚児です。

④1956(昭和31)年から制作され、映画館で上映されていた「京都ニュース」に記録された祇園祭集。大阪では毎日新聞が作ったニュース映像が「国際ニュース」として映画館で上映されたようですが、京都市の場合は、市が制定した市民憲章を広めるために、当時全盛期だった映画館に着目し、映画が斜陽を迎える1994年まで作り続けられました。全244作品のうち、祇園祭のニュースは、1956年№1から1975年(昭和50)年№135まで、9作品のみ。初期にかたまって「祇園祭」のニュースが作られています。観光にむけて取り組んだからかも知れず、「京都ニュース」が観光促進へ貢献した面もあるかもしれません。

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「京都ニュース」No.1(1956年)…観光客が著しく増えたこともあり、狭い松原通から京都の新しいメインストリート御池通にコースが変更。それまでの四条通南下、松原通西進が、四条寺町北上(上掲)、御池通西進に大きく変わりました。御池通には観光客用の席が設けられました。なお、後祭は例年通りのコースで巡行しています。

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№2(1956年)のナレーション「ここで山鉾の列は今年からの新コース、寺町通を北上、御池通へ出ました。近代的に整備された御池通を山鉾は新旧のコントラストと美しく調和して、緑の東山に映える、祇園祭始まって以来の壮観でした」。劣化していて不鮮明な画像ですが、悪しからずご了承ください。

№15(1957年)…「祇園祭音頭」ができたニュース。今年7月10 日、本能寺境内へ「お迎提灯」を見に行きましたら、揃いの着物姿の子どもたちが「祇園祭音頭」に合わせて踊りを披露していました。良いものを継承する姿勢は素敵です。

№16(1957年)…「7月14日午後4時過ぎ、享保20年頃から起こったといわれるねりもの…」というナレーションと共に芸妓さんが舞を披露している様子や、島倉千代子さんが「祇園祭音頭」を歌っている様子が記録されています。

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これも2017年7月12日付け京都新聞1面で報道されました。部分引用すれば「江戸中期に始まり、神輿洗の日、祇園甲部と祇園東の芸妓が歴史上の人物や歌舞伎役者に扮して練り歩いたとされる。沿道で『所望』と声がかかると、芸妓が舞を一差し披露したという」。「ねりもの」は、現在行われていませんので、貴重な映像です。

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フェイスブックで中西印刷㈱様がupされているのを見て、許可を得てミニ資料展でも掲示していますが、同社草創期の木版彩色印刷物「八阪神社神輿洗祢り物姿絵」。明治13(1880)年印刷で、同社が活版を始める直前で、木版として最末期のものだそうです。「ねりもの」は途切れましたが、1966年から始まった「花傘巡行」には、花街の屋台が練って夏の巡行列に華やぎを添えています。今年は4花街が加わり一層華やかだったようです。

№30(1958年)…祇園祭が近づき、祇園囃子の練習する人々の様子。

№43(1959年)…子供武者行列、お迎え提灯の映像。「京都の人たちは宵山のお囃子を聞かなければ、お盆が迎えられないとさえ言われています」のナレーション。

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「軒並み迫る寺町通り北上する山鉾」のナレーションがありますが、この2年後から、巡行コースが寺町北上を河原町北上に改めます。しかしながら、1961年新巡行コースに変わったにも関わらず、京都ニュースで取り上げられていません。ちょっと不思議。今も四条河原町交差点で10トンもの山鉾が方向転換する辻回しは祭最大の見せ場‼

№65(1963年)…阪急地下鉄工事のため中止されていた巡行が再興。

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№82(1966年)…後祭の山鉾が前祭(17日)に合同して巡行することになり、「史上最大の山鉾巡行」に。7月16日は75万人の人出。下掲も№82の映像。

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 №135(1975年)を最後に、京都ニュースで祇園祭が取り上げられることはありませんでした。この3年後、祇園祭の山鉾行事が文化財保護法による重要無形民俗文化財に指定され、ご存知の通り、2016年「京都祇園祭の山鉾行事」を含む「山・鉾・屋台行事」33件がグループとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

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京都ニュースに続いて、1968年に作られた『祇園祭』について写真左端に写る岡田佳美さんから、当時の様子をお話して貰いました。1965 (昭和40)年京都府に採用された岡田さんは会計課でしたが、「京都府が映画を作るみたい」「好きな人は皆で作れる」という噂を聞いて、勤務が終わったら祇園祭製作上映協力会事務所に行っていたそうです。京都府に文化事業室(今で言えば京都府文化政策室文化芸術課)ができました。それまで行政が文化のことをするというと、京都会館、京都府立総合資料館のように、せいぜい文化の建物を建てるくらいでしたが、建物だけでなく中身に突っ込んでいくようになった背景には、群馬県が群馬交響楽団のことをストーリーにした映画を作った影響があったのかもしれません。これが初めてではないかもしれませんが、京都府と中村錦之助さんがタイアップした映画ができるのは、凄いことだなぁと思ったそうです。

祇園祭製作上映協力会事務所は、府市民誰でも参加できるオープンなところでした。蜷川府知事と労働組合は一緒にいろんなことをやろうとしたので、多人数が必要なエキストラも、皆で協力して参加しました。

この文化事業室ができたのは、映画に合わせてで、それまでこうしたことができる公務員はおられなかったので、労演で活動されていて映画にも造詣が深い堀昭三さんが京都府に引き抜かれました。府庁の中に、演劇や歌声のサークル活動をしていた団体がたくさんあって、その活動の中心になっていた人々を文化事業室に異動させましたが、残念ながら岡田さんは行けなかったそうです。でも取材した内容を「協力会ニュース」に執筆したり、エキストラとして出演したりと、最後まで関わったそうです。その「協力会ニュース」は、府市民団体協議会や労働組合を通じて広く配布されました。

この岡田さんのお話を聞いて、谷川先生が「京都ニュースに、製作途中ニュースがなぜないのか?」と疑問を一投。

太田は「京都ニュースの市民映画祭に錦之助は良く出てくる。3年連続で受賞して大変な人気があった。ところが、京都ニュースに映画『祇園祭』は、かけらも出てこない。市と府の行政のあり方で府が応援しているのに、市が意外と冷たい。なぜ、府市民が一生懸命応援している映画なのに、京都ニュースを使わなかったのか引っかかった。脚本家と監督がもめたが、代理戦争みたいなもので、原作を何にしたかが一番大きかったのだと思う。脚本は八尋不二、加藤泰、鈴木尚之・清水邦夫とめまぐるしく変わり、監督も伊藤大輔から助監督についていた山内鉄也監督に交代した。戦後、紙芝居(1952年)をもとにして、西口克己の小説『祇園祭』(1961年)ができた。京都市会議員だった西口はそれ以前に『武器なき斗い』の原作となった『山宣』(1959年)を書いている。途中降板した竹中労が書いているものを読むと、監督に同じ山本薩夫監督を考えていたようだ。最初、市に声を掛けたがお金が出ず、府に声を掛けて援助を受けたのではないか。1967年「京都府制百年記念映画」ということで、蜷川知事、伊藤大輔監督、錦之助、竹中労が揃って知事室で製作発表の記者会見をしている。こういった経緯があって、京都ニュースに登場しないのではないか」。

後を受けて谷川先生が、「府議会議事録を読むと、蜷川知事は承知したが、府議会でやり玉に挙げられて、出資の代わりに1桁多い5000万円の融資をすることになった。五社協定(制作スタッフや俳優の映画会社への専属性、互いの貸し借りの原則禁止などを東宝・松竹・大映・東映・日活の大手五社が結んだ協定)のあおりをうけて錦之助さんが代表を務める日本映画復興協会では、自前の興行網がないことから足元を見られ、東京では大ヒットしたが、売り上げを館主が自分の懐に入れてしまったのか、製作したお金が戻って来ない事態になった。京都府が出資したお金を回収することができないので、借金のカタに映画の権利そのものを京都府に渡したのだろうと推測する」。

太田は「概算しても明治の頃から京都で1万本近い映画を作っていただろう。しかし、京都には『祇園祭』1本だけが辛うじてフィルム原版として残っただけである。京都で映像芸術としての財産を作って来たのに。大映は権利関係がいろいろ移り、今は角川にある。撮影所が京都に15くらいあったが、それが今は東映と松竹しか残っていない。京都にあった映画会社が、一切映画を残して来なかったことを考えないといけない。『祇園祭』以外が、京都に残っていないことを皆知らないといけない」。

岡田さんは「京都の文化博物館に残っているが、閉じ込めてしまって一切販売されていない。祇園祭の時は上映されるが、もっと公開すればいい」と述べると、

谷川さんは、文化博物館の担当者に映画公開50周年を記念してCSテレビで放映して、それをマスターテープにしてDVDを作って売れば、祇園祭のPRとして活かせるし、観光促進にも役立つと力説されたことがあったそうです。

太田は「文博は京都府京都文化博物館が正式名称で、運営を府ではなく、公益財団法人京都文化財団がやっているので、権利がどこにあるのか曖昧。当時のことを知る人もおられないから、触らないという姿勢なのだろう」と推測しました。

岡田さんは「当時のことを知る堀さんも、祇園祭製作上映協力会事務所で中心になって活躍された田中弘さんも80歳代でお元気。五社協定のために東映を辞めた途端、どこにも出られなくなった錦之助さんが、映画がダウンしてじり貧になっているにも関わらず、この映画を作ろうとした心意気に感動して錦之助さんをみんなが応援しようとした」と紹介。

この作品は、五社協定が潰れていくきっかけにもなった作品です。映画会社は、石原プロ、勝プロなど看板スターに自分で映画を作らせることによってリスクを分散し、配給だけをやる経営の合理化を図るようになります。石原裕次郎さんと三船敏郎さんが協力して『黒部の太陽』を作ったりしましたが、その先鞭をつけたのが、この『祇園祭』でした。錦之助さんにとっては一番辛い時でしたが、他の俳優プロはうまくいくようになりました。

映画に府市民が協力できる方法の一つに、前売券を買うというのがありました。

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これは、その一枚。岡田さんによれば「ノルマはなかったけれど、皆さん積極的に楽しんで売った。山鉾の巡行のシーンは、大勢のエキストラが必要で、皆さん有給休暇をとってウキウキしながらやったという楽しい思い出しかない」と青春時代を懐かしがっておられました。

ここで、太田が『祇園祭』のフィルム修復前と修復後の映像を紹介。

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そのうちの1コマです。毎年祇園祭に合わせて文博で上映されていましたが、上の写真のように、退色して真っ赤な状態でした。京都ニュースの場合もですが、行政は過去の事業に対して予算をつけない傾向があります。修復費用は最低500万円はかかります。プリントだけでも50万はかかります。それで、2006~7年、勤務する大阪芸大に2年間の研究費を申請して、フィルム調査と復元に取り組みました。上映用のフィルムは退色していましたが、画ネガの原版はほとんど劣化していませんでした。けれども音ネガは、ベース素材が縮み出して劣化の兆候が出ていました。それで、文化博物館の担当者に「マスター・ポジを取って、残すべきだ」と強く進言したのですが、残念ながらプリントをつくるだけで終わってしまいました。それを毎年ご覧いただいているわけです。

原版が劣化すれば、オリジナルの映像が永遠に失われてしまいます。そのため、オリジナル・ネガが劣化しないうちにマスター・ポジとデュープ・ネガでの保存を提案しました。「ニユープリント復元から10年以上経っているので、もうそろそろ限界かもしれない。ネガの原版が心配だ」と太田は憂いています。今なら、クラウドファンディングで必要資金を集めることができるのかもしれませんが、余りにもスターが大勢出演されているので、当時ギャラがきちんと支払われていたのかわからず、テレビで放送すると「貰っていない」という人が出てくるかもしれずということで、決定できる立場の人が尻込みしているのが現状のようです。

太田が、この作品の美術監督をされた井川徳道先生や山内監督に以前お聞きしたところ、この仕事に行くと、一切東映では仕事ができない背景があったそうです。山内鉄也監督は、市民向けに映画を作ろうと考えておられました。太田自身、テレビの仕事で山内監督の『新・木枯らし紋次郎』の撮影助手をしたことがあります。京都映画祭でもお世話になり、「とても丁寧な監督さんで、自分でごり押しをするような人ではなく、人の意見を聞きながらやっていくタイプ。人間的にとても尊敬できる人でした」。太秦映像の仕事として、テレビ「水戸黄門」のメインの監督として活躍され、1200本以上作られた中で300本近い本数を監督されました。しかし、キネ旬でみると、7本の劇映画しか監督しなかったとされています。監督協会の理事もされましたが、この映画を作ったことで、本当に映画の仕事が出来なかったのです。映画の人がテレビの仕事をすることはできましたが、テレビの人が映画の仕事をすることはできませんでした。それがとても無念なところです。

その1本が、あんなに真っ赤なのを、何とか良い状態で見せて上げたいと取り組んだ復元事業ですが、ニュープリントをご覧になった山内監督は、意外にも色彩面での感想よりも、「もっと切れるね」「あやめ(岩下志麻)との関係が甘いね」と内容についての感想を述べられたそうです。その時初めて「シナリオを一字一句変えるな」「訴訟も辞さない」という条件が付き付けられた中での仕事だったことを語られたそうです。

いずれは、谷川建司先生、映画産業史の木村智哉先生、京樂真帆子先生、神戸大学の板倉史明先生、近代史の高木博志先生、それに太田の文章が纏められて、「映画『祇園祭』と京都」として本になるようです。本の出版が追い風になって、『祇園祭』のマスター・ポジとデュープ・ネガでの保存ができるようになることを願っています。

他には、「小学校から映画館へみんなで観に行った。途中で映像が途切れる場面があったけど、それはキスシーンだった」という静岡県内での経験談や、長刀鉾の囃子方さんが「向かって右で太鼓を叩いている自分が映画に映っている」と記憶も鮮明に覚えておられる話も出ました。「染物屋の役なので、いつも指の爪のところを青くしていた」と細やかな気配りができる錦之助さんの仕事に取り組む姿勢などの話が出ました、いろんな人の記憶に今も残る『祇園祭』が、もっと開かれたものになることを私も願っています。

谷川先生が今の「錦之助映画ファンの会」代表の方にお聞きになった話では、錦之助さんはハリウッド・スターのカーク・ダグラスを尊敬しておられたようです。彼の代表作で製作総指揮を務めた『スパルタカス』(1960年)は、トラブル続きの中で、プロデューサー兼主演として作品を完成させた経緯も似ていますし、古代ローマ時代に奴隷の立場からリーダーとして民衆を扇動して、為政者たちに立ち向かい、最後は捕えられて処刑されるㇲパスタカスと『祇園祭』で錦之助さん演ずる新吉の姿も重なります。「『祇園祭』は錦之助さんにとっての『スパルタカス』なんだ」ということで、第一部を終了しました。

 

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