2020.02.21column
大勢のお客様と一緒に、アニメーション作家岡本忠成さんの没後30年を偲ぶ会をしました
1月15日から始めた「没後30年アニメーション作家岡本忠成 ミニ資料展」も半ばを過ぎました。2月16日は岡本さんと親交があったアン・へリング法政大学名誉教授にお越しいただいて、若かりし頃の思い出を語って貰いました。
日々患者数が増える新型コロナ問題もあり、どれだけの人が参加してくださるだろうかと心配しておりましたが、遠方からもお越しいただき、満員盛況のうちに始まりました。何よりも嬉しかったのは、岡本さんの奥様のさと子さんとご子息の洋平さん、それにさと子さんの弟の森田善之さんとご子息の徹さんが駆けつけてくださったことです。ご家族と一緒に、そして、岡本作品を愛する人々と一緒に節目の日を迎えることができて、天国の岡本さんも喜んでおられたことでしょう。
最初にへリング先生のお話から。演題は「芸術アニメーションの巨人、岡本忠成」。先生のプロフィールは、ワシントン大学在学中にスタンフォード大学日本研究センターに留学。木版出版を中心に日本・英語圏、ドイツ語圏の児童図書史の研究を続けられ、1973年モービル児童文学賞を受賞。著書『千代紙の世界』や幾多の翻訳本の仕事もされています。
若い頃、映画のサブタイトルを付ける仕事を依頼されましたが、「義太夫節や人形浄瑠璃の作品を大阪じゃない人、日本人じゃないアメリカ人にわかるはずはない」とその作者は渋っていると聞かれます。でも、へリング先生は学生時代、大阪の文楽座が初めて海外公演に行ったとき見に行ったことがあり、その魅力を理解されていました。そして愈々へリング先生と岡本さんが会うことになった時、ヘリング先生の表現によれば「3分30秒後に岡本さんの不安は消え、『じゃ、是非に』ということになった」そうです。この人なら大丈夫と確信されたのですね。
「映画と人形劇をやったのを機に岡本さんと川本さんの二人と親しくさせて貰った。岡本さんが『佐渡の人形を僕の分まで見て来てくれ』とお金を出してくれて、佐渡まで見に行ったこともあった。岡本さん、川本喜八郎さんの二人に包んで貰いながら、日本のアニメのサブタイトルと評価・評論の世界で参加させて貰った」とへリング先生は往時を懐かしく振り返ってお話しくださいました。
カナダのトロントで開催されたアニメーション映画祭授賞式に岡本さんと川本さんが招かれた折りには、若くてお金がなく、なかなか里帰りできないへリング先生のことを思って、二人は航空券をプレゼント。へリング先生は二人の代わりに映画祭受賞式に参加し、日本に於ける大正から、その時点までのアニメーションについてお話をされました。「決して日本の映画は三船敏郎ばかりじゃないよ」と川本さんと岡本さんという偉大なアニメーション作家についてお話をされたそうです。
「岡本さんは、不思議な人」と展示している岡本さんの写真に向かって話かけ、「早すぎて天国の映画館に行ってしまった。今日は目に見えない形で居てくださると思う」と感極まって涙声になるへリング先生。(ヘリング先生の後ろに、高槻真樹さんがこの日持参されたレーザーディスクを置きました。表紙に代表作『おこんじょうるり』の写真が載っています。今ではレーザーディスクをご存じじゃない人も多いでしょう)。
途中何度も、「税金を芸術に、芸術を作る人に使って欲しい。皆さんで、図書館に素晴らしい作品を買って欲しいとお願いしましょう。夢が現実となるために、国や行政に皆でお願いしましょう」と話されました。予定された講演概要よりも熱を帯びて話されたのには、あとで振り返ると、思い当たるフシが。。。
荷物を置きに2階へ上がられたとき、目に飛び込んだ所蔵品に目が輝きました。これは2月2日にガラクタ市で入手したステレオスコープを嬉々として覗き込むへリング先生。
そこここにあるものを目にして、「国は、京都府は、京都市はこれらの保存に援助しているのですか?大切な活動に税金を使わなくては駄目‼」とこの時点で何度もお話されていたそうです。その印象があまりに強かったので、こうした話に比重を置く形になったのでしょう。
10分程度の休憩を挟んで、岡本作品をご覧いただくことにし、その間に展示品を見ていただきました。
作品上映会の最初は、代表作の一つ、数々の賞に輝いた『モチモチの木』(1972年)の16ミリ退色バージョンを5分程度。
今回の展覧会は、このフィルムをはじめ『小さな五つのお話』(1974年)と『あれはだれ?』(1976年)の16㎜フィルムが、昨年6月にへリング先生宅から見つかったことから始まりました。英語のサブタイトルや翻訳の手伝いをされて、そのままになっていたのでしょう。製作から半世紀近く経ち、劣化して酸っぱい臭いを放っていましたが、実際の映像もこのように赤くなっていました。今の技術ではこれは元に直すことができます。作られた当時の映像は、一番最初に掲載したチラシに見える通りです。
この後2009年に発売されたDVD-BOX「岡本忠成作品集」所収の『モチモチの木』をご覧いただき、フィルムが生ものであり、救出を急がないと劣化して見られなくなることを紹介しました。
続いては、人形と絵コンテを展示している『メトロポリタン美術館』(1984年)。13日に放送されたKBS京都テレビ「Nami乗りジョニーの京街Diary」で取材して貰ったとき、女性漫才コンビ「チキチキジョニー」の石原さんが、「この歌好きやった」とハミングしてくださり、しっかり人形たちも映っていたので大変嬉しかったです。
NHK「みんなのうた」で愛されたこの曲の人形が想像以上に小さいので、皆さん驚いておられます。この日お越しだった舘明子さんから、この曲はアメリカの児童文学作家カニグズバーグ著『クローディアの秘密』が元になっていると教えて貰っていたので、その本も展示しています。「この本好きです」という女性のお客様が結構おられます。この作品画像も上掲チラシに載っています。Youtubeで映像を見ることはできますが、人形と一緒に見られるのは今だけ、ここだけ、です‼
次に代表作『おこんじょうるり』(1982年)を上映。この画像もチラシに掲載しています。2017年11月展覧会の時は、このおこんと婆様の2体の人形をお借りして展示しました。上映後に「初めてご覧になった方は?」と問いかけましたら、たくさんの手が挙がりました。普段見る機会が少ないので仕方がないのかもしれません。「良い作品でしょう?」と問いかけましたら、皆さん首を縦に振って頷いておられました。
最後に『かがみ』(1960年)をご覧いただきました。開催前にさと子さんに「何を上映しましょうか?」と相談した時に提案された作品。岡本さんは、1960年大阪大学法学部を卒業後、しばらくサラリーマンを経験されますが、トルンカのアニメーションを見て興味を持たれ、日本大学芸術学部映画学科に再入学されました。『かがみ』は、日大で卒業論文の代わりに仲間と一緒に初めて製作された作品です。卒論の代わりにアニメ作品を作ることが許可されたのは、この作品が最初だったそうです。
人形衣裳は旧姓の森田さと子さん。この日のお話では「大人の親指の先くらいの小さな人形を、持永只仁さんのMOMプロから借りて、それに衣裳を作ったのだそうです。洋裁は習っておられましたが、小さな人形の服を作ることになるとは思ってもいなくて、大変だったそう。作曲・演奏は乾民子さんとクレジットがあるのですが、残念ながらサイレントでの上映となりました。
さと子さんにお聞きしたところ、DVD‐BOXを作るとき、岡本家には『かがみ』のフィルムが無くなっていて、日大に協力を要請して貸して頂いたのだそうですが、音ネガは日大になかったかもしれないそうです。『かがみ』について岡本さんのメモが残っていて、そこには「フィルムで作るには、思った以上にお金がかかった」というようなことが書いてあるそうです。製作には時間もかかり、学生だったこともあり、随分と大変だったのでしょう。 さと子さんの推測では、「卒論の提出期日に間に合わせるために、作曲・演奏して貰ったけれど音が入ったフィルムにはなっていなかったのではないかしら。上映の際は、音だけテープで出したのかな、と思っています」ということでした。 お金に余裕があり、卒論提出までに時間的余裕もあれば、きっとトーキー版『かがみ』が作れたことでしょう。
この作品には、足を怪我した主人公の男性の隣室から火が出ているのを見て、女性が部屋に駆けつけておんぶして救出する場面があります。小柄なさと子さんが、体格が良い岡本さんをおんぶするとは思えませんが、ひょっとしたらと思い「作品の中に何かお二人のエピソードが含まれていますか? 」と尋ねてみました。これには「それはないです」と返ってきました。
ネットでカーブミラーを検索すると「道路反射鏡が日本で初めて設置されたのは1960年代、静岡県の十石峠(当時は伊豆箱根鉄道が管理)に飯嶋正信氏、現・信正工業株式会社が設置したのが初めだと言われている。また冬期の曇り止め機能が付いた道路反射鏡も信正工業株式会社が日本で初めて商品化した」とあります。道路ではなく線路から広がっていったようですが、想像をたくましくすると、岡本さんらの作品がヒントになってカーブミラーが生まれたのかもしれませんね。交差点での出会い頭事故が相次ぐのを見て「カーブミラーがあったら事故を減らせるのに」と思い付き、事故のない世の中にしたいという願いを込めて製作されたのかも。「交通戦争」という言葉は1961年の流行語でした。
以上で、トークイベントと作品上映会を終了し、恒例の記念写真。
たくさんの方に参加していただきました。ご多忙の中お越しくださったこと、本当に感謝の気持ちで一杯です。
引き続いて繰り広げた懇親会にも、ほとんどの方が参加して下さり、とても中身の濃い時間となりました。
良い眺め。こうして没後30年を偲ぶことができて、本当に良かったです。
この日参加してくださった高槻真樹さんが、お持ちのレーザーディスクから、岡本さんのメイキング・インタビュー映像(静止画像のものもあり)をブルーレイディスクに纏めたものを持ってきてくださいましたので、乾杯に引き続いて、早速それを上映しました。『あれはだれ?』では、毛糸とヒューズを用いてアニメートする苦心をお話になっていましたが、その中に、セルアニメの手法を用いマルチプレーン方式で撮影されている映像もありました。2017年に岡本さんのアトリエに伺った折り、今は使われることがないこの大きな線画台を見ました。場所も高さも必要なだけに、その行く末を勝手に心配していましたが、後でお話をうかがったところ、国立映画アーカイブにカメラと共に保存されることになったそうです。収まるべきところに収まって、めでたし、めでたし。
『おこんじょうるり』製作風景を記録した映像は貴重で、とても興味深かったです。プライベートアルバムには、子ども時代の写真をはじめ、『かがみ』のセットで協力スタッフと撮った写真もあり、岡本さんの傍で微笑むさと子さんが写っていました。仕事で関わった多くの方々の写真、これまでの作品の紹介映像を見ていますと、様々な素材や手法で工夫を続けながら良い作品を生み出してこられたことがわかり、なおさら58歳という若さで亡くなられたことが惜しまれます。
さと子さんは「アン・へリング先生が来られるのだから、行かなければ」と遠くからお越しいただきましたが、お二人がこうしてお話をされるのは数年ぶりのことだそうです。良い場になったと思います。
全国から依頼されて甲冑作りをされている櫻澤正幸さんは、昭和レトロ文化のコレクターでもあります。そのコレクションの中から『少女クラブ』の本をへリング先生にプレゼント。代わりにへリング先生が昨年出版された『おもちゃ絵づくし』(玉川大学出版部)をプレゼント交換。緑色のセーターを召しておられるのがへリング先生のお世話をされている山田さん。この時は絵本作家でイラストレーターの吉田稔美さんも先生の付き添いでお見えでした。
幅広い人脈を持っておられる吉田さんには、いつも助けて貰っていますが、この時も編集会社㈱ワークルーム代表の塚村真美さんをご紹介くださいました。塚村さんは、早速webサイト「花形文化通信」で16日のことを掲載してくださり、このことについても感謝で一杯です。黄色のセーターに青いベレー帽を被っておられる方で、光栄にも吉田さんから、私と塚村さんの「キャラがかぶっている」と言って貰いました。ご縁をありがとうございました。
この後、岡本さんの遺作となった『注文の多い料理店』(1990年)を皆さんと観ました。
参加者から「どこまでが岡本さんで、どこからが川本さんが手掛けたのか?」という質問が出ましたが、さと子さんと洋平さんの話では、殆ど出来上がっていたのだそうです。東京藝大に入学されたばかりの洋平さんも手伝われたそうですし、最後のダンスシーンも参考になる絵画をお父様にお見せになったとか。実は次回作『ほたるもみ』を既に構想されていて、『注文の多い料理店』はその習作として作られたものでした。自らの手で完成できなかったことは、随分と心残りだったことでしょう。洋平さんは「川本さんが完成させてくださったことを本当に感謝しています」と話しておられました。その次回作は松谷みよ子さんの『おときときつねと栗の花』を原作にした長編で、DVD-BOX特典にイメージイラスト3枚が紹介されています。「幻の遺作」となってしまったことも残念です。
昨年放送されたNHK朝ドラ『なつぞら』主人公のモデルとなった奥山玲子さんは、高畑勲監督の『火垂るの墓』をお手伝いされた後、アニメーションから引退しようと思われて、1988年から銅版画を始めておられました。始めて間もない頃、岡本さんから初めて「銅版画のような画調の作品なので原画を手伝ってくれないか」と依頼されます。奥山さんは「効率重視の現代社会で、非効率を楽しんでいる。今でもこういう手作りの現場があるのかと驚いて、この作品ならと思ってお受けしたんです。やってみたら、小劇場の劇団員になったようで、とても楽しかった。岡本さんは打合せの度に目をキラキラさせて『こういう感じの絵が欲しかったんですよ』と褒めて下さいました。私は初めて『あぁ、アニメーションをやって来て良かった。私のキャリアは無駄ではなかったんだ』とプラス思考で考えられるようになりました」と回想し、「専ら主人公のハンター二人の作画を担当しました。冒頭から『山猫軒』に入って歩き回るシーンの途中まで、ラストの逃げ回るシーンなどですね」と手掛けた部分を話しておられます。
奥山さんにとっての最も重要な作品として『注文の多い料理店』を挙げられ、「岡本さんとはもっと仕事をしてみたかった」と話しておられます。以上は、映像研究家の叶 精二さん著『日本のアニメーションを築いた人々』(2019年、復刊ドットコム)からの引用ですが、叶さんにお聞きしたところ、2004年の初版に際し、奥山さんに直接取材して纏めた原稿を、奥山さん自ら加筆修正された内容だそうです。さと子さんにお聞きしましたら、この頃奥山さんは多忙を極めておられたようですが、チーム岡本を心から楽しまれた様子が伝わってきますね。
上掲チラシに佐藤忠男さんが「一作々々、方法が違い、材料や画質の工夫を変えているので」と書いておられますが、「川本さんの人形がどんどん精緻を極めていくのとは対照的で、それはどうしてですか?」と洋平さんに尋ねたところ、「父は飽き性だったのでしょう」と意外な返事が。それを聞いた連れ合いは、世界的に知られるキャメラマンの宮川一夫さんが同じ構図、同じショットなど、同じ画は絶対撮らない主義だったことを話しました。飽き性というより、岡本さんの主義、拘りだったのでしょうね。だからこそ、多くの人が「こんどはどんな絵を見せてくれるか、そのたびごとに期待にわくわく」したのでしょう。
『注文の多い料理店』を見終わった頃にさと子さんが「今頃の時間に亡くなったのよ」とポツリと仰られて。片山雅博さんがお書きになった追悼文を読むと「2月16日午後7時50分に入院先の東京女子医大病院で、肝臓ガンのため亡くなった」そうです。
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