おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.08.21column

映画『祇園祭』研究者と製作上映協力会メンバーとのトークイベント(3)

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京都府文化博物館に保存されている映画『祇園祭』のフィルムは、毎年祇園祭の時に上映されます。今年はコロナ禍で、山鉾巡行はなくなりましたが、映画の上映は前祭の7月16日、17日、後祭の23日、24日の13時と17時から上映されました。お客様の中には、この催しの前にご覧になった人や、この催しが終わった後に急いで文博に向かわれた人もおられました。この時しか観ること叶わず、なのです。

この作品は様々な問題が続き、伊藤大輔監督が降板された後に、B班の監督だった山内鉄也監督が引き受けられて完成しました。以前、山内監督と美術を担当された井川徳道さんと一緒に、連れ合いが文博で観たそうです。その映像は真っ赤に退色していました。それで、大阪芸大から研究費を二年分頂戴し、2007年に修復したときのことを話しました。今、文博でご覧頂いているのは、その成果物のプリントです。

京都は映画発祥の地と言われ、かつて「日本のハリウッド」とまで呼ばれた時期があり、撮影所も15以上あったといわれていますが、その作品数を勘定していったら、およそ2万本近い作品数になると思います。最低でも1万本以上は間違いなく製作しています。それだけ京都のまちは映画を作って来ました。それが、映画の原版として残っているのは『祇園祭』1本だけなのです。今でも東映と松竹がありますが、二つの京都の撮影所にはフィルムの保存はゼロです。原版としては一つもありません。京都に映画の博物館がなかったことが一番大きい。そういう場所があれば、そこに集まったはずなのです。文博はそれに見合うところとして作られていますが、千年以上の歴史がある京都では、100年の歴史しかない近代の映画は、さほどの価値が置かれていないように思います。

撮影されたフィルムが原版で、この原版(ネガ)があれば、いくらでもプリントが出来ます。プリントは消耗品です。研究費でオリジナルの状態、原版の状態を調べることが目的で、復元版を作ってみようと言うことでやりましたが、画ネガ原版は全く劣化しておらず、音ネガだけが少し経年劣化を始めていました。そこで、文博の担当者には、マスターポジを作るよう助言しました。マスターポジはネガを作るためのフィルムですが、彼は、結局2本のプリントを作り、上映用と保存用にしたのでした。説明が不充分だったのか、マスター・ポジを保存用ポジと錯覚されたのです。それが今以て、惜しいです。

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 その復元版を山内監督に観て貰ったところ、色彩面より「あやめとの部分が甘いな」というのが第一の印象だったようです。原作の西口克己さんからお墨付きを得た脚本ができた時に、「一字一句変えるな。変えたら裁判も辞さない」とプロデューサーから強く言われたそうです。監督と脚本家たちの対立で、伊藤監督が降板し、山内監督としては、訴訟をも避けられない状況下で、それでも変えているのは師である伊藤監督との繋がりとか、監督の意図が分かっていたからではないかと思います。ただ、スター映画ですから、恋愛の部分を重要視されていたために「あやめ」の部分は切れなかったのではないかと思います。いずれ機会を見て、山内監督や伊藤監督の意向に沿ったバージョンができれば、研究発表として披露したいと思っています。

スクリーンで、フィルム修復前と修復後の対比を観て貰い、京樂先生が指摘された、新吉の決め台詞「祇園会ではなく、祇園祭でいいじゃないか」が出てくる場面などもご覧頂きました。

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小休憩の間に、新しくお借りして追加した資料類(下掲写真ケース内展示)を見て貰いました。今回初めて公開される貴重な資料が多く、研究者の人にとっては、またとない展示となったと自負しています。

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続けて、映画「祇園祭」製作上映協力会メンバーとのトークイベントに。

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皆さん、とても熱心に耳を傾けて下さいました。司会進行は、任せて安心の京樂真帆子先生にお願いしました。マイクでお話になっている堀 昭三さんは、映画『祇園祭』の中心的人物として活躍されました。元は労働省の職員として、京都府庁の古い建物の最上階にあった労働省の事務所にお勤めでした。京都映画サークルの委員長を長く務め、映画『日本の憲法』(1965年)も作っておられたことから、「映画のことをよく知っている」と言うことで当時の松尾賢一郎副知事自ら声を掛けられ、「京都府文化事業室の職員として、映画『祇園祭』のことをやれ」と命じられたそうです。1967年11月15日付けで、映画「祇園祭」製作上映協力会に赴任。事務局長として大活躍されました。後で紹介する田中弘さんの場合もですが、「製作上映協力会事務局を京都府がお膳立てをしていた」と堀さん。展示していた「協力会ニュース」のとりまとめも堀さんがされていたようです。こうしたアイデアも堀さんなればこそ、ですね。

祇園祭展ポスター

1968年5月10~19日まで開催した「祇園祭展」も、堀さんの発案。府立総合資料館のカワハラ氏と一緒に、祇園祭の町内を一生懸命歩いて勉強をされました。「この展覧会をしたとき、鉾町の人々が『自分とこの鉾のことは一生懸命やっていて知っているが、隣の鉾町のことは全く分からなかった。これで、分かるようになった』と言って貰えたのが嬉しかったし、喜びだった」と堀さん。珍しい写真もありました。

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「町衆の家は中二階が中心ですが、松原通では、その大屋根の上に祇園祭を見るためだけの櫓がずっと続いているのにびっくりしました」と堀さん。

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「もう1枚は、京都御所の丸太町通りの石垣を壊して鉾を入れている写真。大津事件の1~2年前にドイツの大使が来て、その時鉾を見せるためにしたことだと分かりました。京都は日本を代表する観光の街だが、鉾を見せることが重要だったのだなぁと分かりました」(※残念ながら、上の2枚の写真は展示に間に合いませんでした)

これも堀さん提案で、林屋辰三郎さんに援助して貰う為に、勤労会館の大会議室でシンポジウムをやりました。祇園祭の担ぎ手が少なくなってきているというので、先ずは学生さんたちに祇園祭への興味を持って貰えるよう勉強して貰い、担ぎ手の募集を呼びかけようと考えました。この提案は林屋さんから「素晴らしい」と褒めて貰い、学生さんたち100人ほどが集まったそうです。やはり堀さんは、アイデアマンです。

今、鉾の辻回しに竹を割ったものを使って水をかけていますが、ずっと昔からではないらしいことが、祇園祭展をやったことで分かったそうです。若桐の枝を切って入れると、若桐の枝は皮が柔らかくて、ずるずると剥けてしまうので、水を掛けなくても済みます。水の負担より、若桐の枝の方がずっと良かったと思われます(とすると、上掲ポスターで辻回しに用いられているのは、節が描かれていないところをみると、割竹ではなく、若桐の枝を用いている絵のように思えます。いつから割竹を用いるように変化したのかが気になったので、今日、山鉾連合会事務局に聞いてみました。「いつからかという具体的なことは分からないが、道路がアスファルトに変わった時に、それに伴って変わったのではないか」とのことでした(なお、2021年4月15日菊水鉾の川塚錦造さんにお聞きしたところ、樫の木の枝を用いていたとのことでした)。

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1998年10月30日付け京都新聞夕刊は「日本映画100年」の銀幕の旅連載73で、右京区の「新丸太町通」を取り上げています。この記事によると長刀鉾と山6基を新調し、菊水、放下の2基は本物の鉾を動員して、労組などの群衆役エキストラ延べ1万500人に加え、山鉾町からの指導エキストラ延べ400人を出しての巨大ロケでした。9月30日付け京都新聞朝刊に、「あれ祇園祭どすか 映画セットに「本物」出動」の見出しで、その様子が載っています。29日正午に山鉾連合会長らが出席して曳初め式を済ませてから、午後に撮影されました。

トークイベントで、堀さんが「映画『祇園祭』撮影の為に、長刀鉾を別に作って、これを東京に持って行って銀座で曳いたことがある。わりあい知らない人が多い話だが、確かソニービルの前だったと思う」とおっしゃられたので、これにもびっくりポン。お借りした資料の中にある活動記録を見ると、1968年11月22日、『祇園祭』東京前夜祭と書いて有りました。きっとその時のことだろうと思ってネットで検索しましたら、その時の写真がヒットしました。こちらをご覧下さい。この時は堀さんも東京へ行かれたそうです。52年前のことですが、しっかり覚えておられるのに驚きます。残念なことに11月23日京都新聞夕刊に、その模様は見当たりませんが、映画『祇園祭』の広告が載っていました。

映画『祇園祭』の広告

ところで、この撮影の為に作った長刀鉾のことをTwitterで書きましたら「その鉾はどうなりましたか?」と書いて下さった人がおられました。早速7月27日山鉾連合会に電話しましたら、山口事務局長さんが対応して下さり、「一時、京都駅南のアバンティで展示していたが、解体され、車輪だけは烏丸御池で一時飾っていた。しかし、これも解体した。全て木製で、何年もおいておく目的では作られていないから」ということでした。有形文化財のイミテーションですから、ややこしい存在でもありますしね。

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「京都ニュース」№186に、京都市南区に1984年春、複合商業施設「京都アバンティ」が開業し、セントラルホールに長刀鉾のレプリカが展示されている様子が記録されています。調査の結果、1984年に制作された京都市政100周年記念『市民のまち京都』に№186を転用してたことが分かりました(写真は、その一コマです)。

手書きで作成された①京都府内②全国の映画上映会場の日ごと観覧者状況(人数)一覧は、大変貴重な資料です。ロードショーだけで、全国で754,865人。幾種類か金額が設定されていたようですが、一人350円として掛け算すると264,202,750円と大変な金額になります。うち、京都が153,596人なので、単純に計算しても53,758,600。京都府から借りた5千万円など簡単に返せる金額です。なのに…?会場に展示していた京都府市民新聞1969年4月5日号には「今年末には鑑賞者の数は200万人に達するものと思われます。このような上映運動の成果にささえられ、製作費の回収も順調に進み、今日までに全製作費の80%を回収していますが、あと半年前後で十分回収できる見通しとのことです」とあり、1969年7月5日号は「5月31日現在、全国での延べ入場者数は160万人に達しています」と書いています。実に大勢の人がご覧になったものです。

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マイクを持ってお話になるのは、田中弘さん。もともと京都府市民団体協議会というところの事務局員さんでした。上述した機関誌「京都府市民新聞」を作っておられました。1968年8月に京都府文化事業室の嘱託になられましたが、実際の仕事はその年の4月ごろから、翌年4月までのほぼ1年、協力会事務局に勤務されました。メンバーは、事務局長の堀さんと嘱託の田中さん、他に映画好きの学生さんのアルバイトさんが3名おられました。製作上映協力会事務所は祇園石段下の「京都市東山区祇園南側宮本町」にありました。蜷川知事のファンだった人が協力しようということで、無料で貸してくださったそうです。

田中さんは、「協力会の団体を増やすために、京都府市民団体協議会にいたことが役立った。団体をリストアップして、製作協力券ができるとあちらこちらに出かけてお願いをして引き受けて貰うのが仕事でした」その成果は、医療分野だけでも19団体、中小企業団体62団体、婦人団体、芸術・芸能団体、学者・文化人の団体、宗教団体、社会福祉団体、住民組織、山鉾連合会等々。京都市の協力を得たことで、新丸太町通に四条通を再現するようなセットも組めました。

上映会場の交渉などの手配は、堀さんか府文化事業室がされましたが、上映時期は寒い時期になっていて、堀さんの車にフィルムを積んで、堀さん自ら運転し、田中さんも乗り込んで府下へ順番に出かけて行ったそうです。

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岡田(旧姓高橋)佳美さんは、今回の催しをする契機になった方です。2018年10月28日京都大学人文科学研究所で開催された公開シンポジウム「映画『祇園祭』と京都」に連れ合いにも声が掛けられたので、広く知って貰おうと一斉送信でご案内したところ、直ぐに岡田さんから返信メールが届いて「この作品には、京都府職員の新人としての仕事の余暇に製作事務所に入り浸り、いろいろお手伝いをした懐かしい作品です。京都府政100年記念として、行政が応援して作った初期の映画なので『行政と映画』という視点で見るのも面白いのではないでしょうか」と書いてありました。

それで、岡田さんに連絡をして、昨年2回おもちゃ映画ミュージアムにこの協力会メンバー3名にお越し頂き、京大人文研教授の高木博志先生、京樂先生、田中聡先生、私どもで、お話をうかがう場を設けました。岡田さんからは、映画『祇園祭』に関する貴重な資料の寄贈も頂き、昨年7月に披露を兼ねて展示しました。

映画公開当時、岡田さんは祇園会館でご覧になったそうです。その時の感想を聞かれ、「本当はあの頃のフランス映画『アルジェの戦い』のような民衆のエネルギーに満ちあふれた映画になって欲しかったが、スターの顔見せのような作品になってしまったのは、ちょっと残念だった。でも群衆シーンはエネルギッシュで凄かった。ただ、ヒロインのアイラインや凄く綺麗な着物が気になったし、京都弁が出てこないのも気になった。何で京都の話で、京都で作るのに標準語でしたのかなと思った。でも、自分が携わった映画が形になってるっていうのは、凄く嬉しかった」とお話されました。

田中さんも映画の感想を尋ねられて「率直に感動した。ただ、ラストのシーンは、現代の長刀鉾が行って、その先が青空に映えたシーンならもっと良かったと、京樂先生の話を聞いて思った。全体としては、京都の各種団体に券を買って貰って、そういう人たちが観られたわけですが、私が事務局にいて面白かったのは、婦人団体が次々来て、『錦之助さんに統一戦線について講演をして貰いたい』という申し入れがきたこと。それは出来ないと断ったが、映画を観て、聴衆が力を合わせて自治を作っていかないかんというメッセージは伝わっていた。伝わりすぎて勘違いされて、錦之助さんが、そのリーダーであるかのような錯覚をされたことを覚えている」と話されました。

堀さんも完成した映画を観ての感想を尋ねられ、「自分で参加していて、ようできたなと思った。特に『神事なくても、山鉾渡したし』の中心テーマが通せた。(西山を東山に見立てたセットだったため、朝日が当たらなければならないシーンで)朝焼けが夕焼けに負けないようになったのが嬉しかった」と話されました。

会場から、「つるめそ衆」「河原者」の言葉が気になった。という問いかけに、京樂先生は、「中世は職業が差別、近世になってくると生まれが差別に変わってくる。それが被差別部落問題に関わってきます。その前の時代をこの映画の対象としているので、被差別の問題としては、転換期にある時代の話を1968年当時オーソリティだった林屋辰三郎さんの考えを元にして、差別の問題もそこに盛り込もうとされていたようだ。以前差別のことについて部落解放同盟から質問されたことはなかったかと堀さんにお尋ねしたら、『なかった』ということでした」と答えられました。

田中先生は「中世の馬借、河原者などと呼ばれるような職業に就いていた人は、結構財力があった。。ヒロインのあやめが綺麗な着物を着ていたのは、そういうことを表していたのだと思う。印象的なのは新吉が妹に「もし、わしが河原者の娘と恋に落ちたら」と言ったときに「絶対許せない」というシーンをわざわざ入れているのは、そういうことへの配慮じゃないかと思う。この台詞は小説にはなかったので」と興味深い話を聞かせてくださいました。

それを受けて京樂先生が「北大路欣也が演じたつるめその若者は、脚本では「虎一」という名前だった。それを山内監督がご自身の台本に手書きで『於莵一』に書きかえている。蜷川虎三知事の名前に近いからまずい、と現場で考えたのかも」と紹介。

最後に、馬借頭役の三船敏郎さんが田んぼの中を走るシーンのロケ地についてお話ししてくださった女性もおられました。「桂のあの土地は、1960年代初期、子どもの私が棒きれを持って走り回っていた場所です。一番隅っこの土地がうちの土地で、1970年代に売れたとき、一番評価が悪かったのですが、今こうしてこの映画で未来永劫、うちの土地は光輝いていると思うと、もの凄く嬉しい。映画製作では大変なことがあったようですが、映画を観て、ここが私が遊んだところだと直ぐに分かりました。今は樫原中学になっています。樫原中学の生徒さんたち、全国の人に、いや世界の人に観て貰いたい素敵な映画だと思っています。そういう思い出を持つ人もいるということを知って欲しい」と話され、その嬉しさが伝わってきました。でも現実として、今の段階では京都文化博物館以外で観ることができないのです。これを何とか工夫できないものかと、このトークイベントを企画した次第です。

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7月27日が堀さん93歳の誕生日ですので、3日早いですが、花束をプレゼントしました。おめでとうございます。いつまでもお元気で‼

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もうひとつ花束を用意しました。

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この日7月24日71歳になった連れ合いです。サプライズで花束をプレゼントし、皆さんに拍手でお祝いをして貰いました。おめでとう‼

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いつもの集合写真。マスク姿が、コロナ禍の2020年を表しています。コロナを気にしつつ遠方から参加してくださった方もおられ「来て良かった。面白かったし、凄く良かった」と言って下さいました。何よりの褒め言葉です。皆様、このような状況下でしたが、ご参加頂き本当にありがとうございました。

映画『祇園祭』資料展につきましては、次の展開も考えています。皆様の中で、この映画に関する各地でのポスターやチラシなど資料がございましたら、ぜひともご連絡下さい。よろしくお願いいたします。

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お陰様で、とても良い催しになりました。皆様、本当にお世話になりました。心より御礼を申し上げます。

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自粛続きで、それぞれの人が「何ヵ月ぶりかしら?」という集い。写真用にマスクを外しましたが、普通に「お疲れ様‼」と祝杯を挙げられる日が一日も早く来て欲しいです。

 

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