おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.09.26column

講演「歴史から考えるシベリア抑留」と映画『私はシベリヤの捕虜だった』

9月10日に開催した講演のタイトルは少し変化して「歴史から考えるシベリア抑留」で、講師の原田敬一・佛教大学名誉教授は日本近現代史の研究をされています。お忙しい中講演を引き受けてくださいました。意外にもシベリア抑留について講演されるのは初めてなのだそうです。

この夏も京都新聞は京滋版とも「戦後77年」のワッペンで様々な戦争にまつわる話題を届けてくれ、8月10日付け滋賀版連載「戦後77年湖国の記憶」②の“赤紙(中)”、8月20日付け「戦後77年京滋」の“兵籍簿の交付過去最高に”の記事には、原田先生の識者コメントが載っていました。良く知られた先生なので、参加希望者がたくさんおられたのですが、会場が狭くてお断りせざるを得なかったのが申し訳なかったです。

さて、先生によれば近年「シベリア抑留」についての研究が進み、資料が沢山出ているのだそうです。戦争の後始末をするのは、どこの国でも大変で、日本遺族会の強い要望で東京の九段に昭和館ができ、どういう風な展示にするのかが議論になり、戦争そのものではなく戦争と戦後の苦労を展示するということに落ち着いたのだそうです。今年8月に見学に行かれ、近くの九段会館では写真展を見学。傷痍軍人団体の要望でできたしょうけい館、新宿の三井住友ビルの上の方に総務省委託の平和祈念展示資料館もあり、そこでは冊子『戦後強制抑留 シベリアからの手紙』が空襲の物語と一緒に無料で配られていたそうです。どんな内容かと検索しましたら、こちらで読むことができました。

今回の展示を機会に、次に東京へ行く時に訪問してみようと思います。先生のお話でいくつかの文献が紹介されましたが、とりわけ富田武さんの『シベリア抑留―スターリン独裁下、「収容所群島」の実像―』(中公新書、2016年12月)と大木毅さん『独ソ戦-絶滅戦争の惨禍-』(岩波書店、2019年7月)をお勧めでした。ヒトラーが断言したという「絶滅戦争」という言葉は、なかなか衝撃的です。

富田さんは、世に言う「シベリア抑留」から「ソ連・モンゴル抑留」という用語の広い使い方を提案されているそうです。そういえば以前2団体から見せて頂いた映像の中に、モンゴルでの強制抑留に関するものがありました。最近の歴史研究では「モンゴル」が入ってきているのです。シベリアからモンゴルに送られ、またシベリアに戻された話も以前聞いたように思います。

ドイツは日本の真珠湾攻撃半年前の6月22日にソ連へ侵攻し、1945年5月8日に無条件降伏しますが、ドイツ軍の捕虜180万5300人、動員民間人・逮捕者を含め209万661人をソ連は戦後復興のための労働力「人的賠償」と位置付けて石炭・建設・冶金作業へ割り当てました。収容所や食料などをどうするかなど、戦争中からソ連がとった捕虜対策を、1945年8月からの旧満州からの日本人捕虜取り扱いに応用していったのです。ただ、ソ連がドイツの東半分を占領区域にして社会主義の国として作っていくことになったので、1946年7月から送還が始まり、1948年までに送還を終わらせたのに対し、日本は長い方で11年間も抑留されていて、ドイツのようにはなりませんでした。

西ドイツでは1950年帰還者同盟が結成され(会員50万人)、捕虜期間中の労働への補償要求運動が展開されます。捕虜になっていた間の賃金を支払えと要求するのはジュネーブ条約で認められていたことですが、ソ連は支払わなかったので、1954年「所属国補償」に基づき西ドイツ政府から給付を獲得しています。この点も日本とはだいぶ異なっています。

最近の研究では、特別な技術がある医者、看護師などの民間人が戦後帰ってこれず、止め置かれたことも重要な問題だと言われているそうです。もう少し、「抑留」の問題を広げて考える必要があると原田先生。

ドイツ捕虜の扱いと同様に、戦後復興のために不足している労働力として捕虜を使うのは、ヤルタ協定の枠の中で認められているはずだというのは、ソ連やスターリンの考え方ですが、このことについて抑留者協会や抑留協会などの調査で出てきたスターリンが1945年8月23日に署名した「国家防衛委員会決議№989800」があります。全14か条からなる「日本人捕虜50万名の受入、収容、労働利用に関する決議」です。管轄をソ連内務省人民委員部捕虜抑留者対策総局に置いています。ジュネーブ条約で戦争捕虜に関する国際法が様々に規定されていますが、捕虜という言葉を使っているにもかかわらず、内務省という国民全体の管理下に置いたのも大きな問題です。

3条に森林伐採が多い沿海地方、ハバロフスク地方、チタ州、イルクーツク州、モンゴル自治共和国、クラスノヤルスク地方、次いで工場建設や石炭採掘などの作業に50万名を割り当てると書いてあります。これが寒さ、飢え、強制労働の三重苦の問題に。

最近では「日ソ戦争」という呼び方もされていて、1945年8月9日のソ連軍侵攻から9月5日までの歯舞諸島占領までを言います。先駆けて1945年2月11日米英ソによってヤルタ協定が締結されますが、公表されたのは1年後の1946年2月11日のこと。協定の第2条は日露戦争の結果のロシア旧権利の回復として、南樺太と隣接諸島の回復など、第3条は千島列島がソ連に引き渡されることで、「旧権利」の回復とは別であり、大西洋憲章の無賠償・無併合方針に違反しています。

1945年4月5日にソ連は日ソ中立条約の不延長を通告しますが、以降1年間は有効なので、8月9日に攻め込むことは国際法違反行為です。

満洲・樺太等の日本軍捕虜は59万4000人で、その中には日本名を名乗っていた朝鮮人・台湾人の軍人・軍属も含まれています。ソ連は満州国官吏・満鉄職員・(五属)協和会役員なども捕虜に含むという考えですが、後述のジュネーブ条約の通り、文民は捕虜ではなく抑留者になるにも関わらず、シベリアへ連行しています。また日本政府に対しても苦言を呈しておられます。日本名を名乗っていた朝鮮人・台湾人の軍人・軍属の人々に対し、戦後日本国籍じゃないから補償する必要はないと国は無視していますが、戦争の後始末はこれらの人々を含めて考える視点が重要だと原田先生。

1945年7月26日のポツダム宣言には「九、日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的生産的生活を営むの機会を得しめらるべし」とあります。これは1927年7月27日のジュネーブ条約の捕虜に関する事項「第75条 捕虜送還は講和締結後ごく短期間で実施されねばならない」を踏まえたものであり、さらにこのもとになったのは日清戦争後の1899年7月29日調印、翌年9月4日発効のハーグ陸戦法規「第20条 平和克復の後は、なるべく速やかに捕虜をその本国に帰還させる」です。ソ連はポツダム宣言に参加しているので、条約を守らなければならないにもかかわらず、捕虜を長期にわたってとどめるのは様々な国際法に違反しています。なお、当時の新聞では、この第9項を「日本国軍隊は完全に武装を解除」で止めていて、その後を載せていません。兵隊が戦争を嫌がるのではないかと大本営が危惧して隠したのだそうです。

日本政府の棄民・棄兵方針について。ソ連が攻めてくる可能性を考えていた近衛文麿をソ連に特使として派遣しようと、海外の軍隊は現地で解散し内地に帰還させるが、やむを得ない場合は当分若干を現地に残留させて賠償として労力を提供するという和平要綱案を1945年7月に出しますが、ソ連は日本の提案を拒否します。8月14日東郷茂徳外務大臣は在支、樺太、ハノイ、サイゴン、タイの在外公館に対し、「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」と打電します。国を何とか守ろうとしても、そこにいる一人一人の国民の命を顧みる視点は全く欠けています。

そして幸いにも帰還できた人々でしたが、1956年10月の日ソ共同宣言で、相互に請求権を放棄することを誓い、抑留国補償方式は不可能になりました。そこで1979年全国抑留者補償協議会(斎藤六郎会長、18万人)が結成され、西ドイツの「所属国補償方式」に倣って運動を展開し、2003年には韓国シベリア朔風会が日本政府に補償要求裁判を起こしたのを支援します。この裁判は地裁・高裁とも敗訴しますが、2010年6月16日菅直人政権下で、議員立法により「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア措置法)」が成立することに。7万人対象ですが、その額は僅か25万~150万円の給付金でしかありません。ドイツは1990年代にすでにやっていることですが、墓地調査や遺骨収集も厚生省はなかなか腰が重くて遅れています。これは南方に関しても同じです。

参加者の中には、お父様が抑留生活11年を経て帰って来られた方もおられました。国によって棄民・棄兵された挙句、人生の大切な期間を過酷なシベリアで抑留されていたことを思うと、そんな僅かな給付金では済まないと思います。今後二度と戦争をしない「戦争の放棄」の憲法は多大な犠牲の上に成り立った宝物なので、今後も大切に守っていかなければならないと改めて思います。

最後にお残り頂いた方と写真を1枚。この日出会った中に、長年シベリア抑留体験者の証言を記録映像として残しておられる方と知り合いました。まだ案ですが、12月映画『ラーゲリより愛を込めて』上映の頃に、その作品を上映するのはどうかしら?と思っています。

この日もご覧いただいた絵本『シベリア抑留って?』を書かれた亀井励さんが、生前紙芝居状にしてロシアで若者に読み聞かせをされたそうです。「その紙芝居が見つかった」と先日来館いただいた奥様からお聞きしましたので、それもお借りして展示できたらと思っています。

最後に上映した『私はシベリヤの捕虜だった』(監督:阿部豊・志村敏夫)は㈱ケーシーワークスさんのご協力でした。このDVDに付いている特典映像はこの日上映できませんでしたが、本編の映像も用いながら、とても分かりやすく作られていました。なお、このDVDは当館でも販売していますので、ご希望の方はご連絡ください。

展覧会期間中に、偶然にも、この映画の台本が鈴木重吉監督(1900-1976年)の遺品を整理していた中から見つかったそうで、ご息女の志村章子さんから寄贈頂き、展示に加えています。原稿用紙の文字は鈴木監督のものだそうですが、なぜこの台本と原稿があったのかがよくわかりません。原稿用紙の結末は「門と鉄条網の影を踏んで出る靴。出た!捕虜は終わったのだ。唯一すじ、日本への道が開かれたのだ。前方を見詰めて、靴で大地を蹴ればよい。」で、この先へ希望が感じられる終わり方ですが、映画はフゥーとため息をつきたくなる終わり方。そして、写真の台本は映画や手書き原稿とも異なっています。決定稿ではなく、まだ早い段階の台本ではないかと想像しています。

映画『私はシベリヤの捕虜だった』は、1952年東宝の配給で作られました。収容所では共産主義教育が熱心にされたこともあり、無事に帰国された方たちによる共産主義が広がることを恐れたアメリカ情報局CIAがシュウ・タグチ・プロダクションズに資金提供し、製作された反共プロパガンダ映画です。東宝はアメリカを真似て、新東宝を作り、そこに製作をさせ、東宝は配給専門と考えましたが、それが引き金になって、1946~48年東宝争議に発展します。これがレッドバージ化して山本薩夫や今井正などが解雇されました。東宝争議は映画会社の一つの争議であるというより、戦後の混沌とした政治思想や政治闘争にも深く関わり、各分野の労働組合が応援に駆け付けて、大争議にもなりました。その直後の製作です。鈴木監督の原稿と映画の結末が異なっていたのは、こうした背景も関係しているのではないかと思います。

勝手な推測を述べれば、ひょっとしたら鈴木監督が当初『私はシベリヤの捕虜だった』を企画されていたのかもしれませんし、また鈴木監督ご自身が引揚者のひとりでもあったことで、その経験からアドバイスを求められたのかもしれません。鈴木監督は、戦中満映の甘粕理事長に高く評価され、北京で華北電影の設立に尽力されました。また、川喜多長政の中華電影で映画『東洋平和の道』(1938年)も監督しています。ただ、彼は、戦後大映に所属していて、東宝とのつながりはありません。戦中、東宝設立の動きの中で旧大映(旧日活)に所属していた伊丹万作や山中貞雄などの監督、大河内傅次郎などの俳優やスタッフたちも東宝に移籍していましたし、日本映画監督協会設立では中心人物でしたから、彼らとの交流はありました。

このフィルムは国内ではなく、アメリカの国立公文書館で半世紀ほど前に発見されたものですが、タイ公開版です。それをデジタル化したもので、経年劣化で画質音声共に劣化しているほか、冒頭の音声が収録されていない部分もありますが、十分視聴に耐えうるものです。厳寒の北海道で撮影されたようですが、映画美術が成瀬巳喜男監督で多くの作品を手掛けた中古智(さとる)であることも見ものです。機会がございましたら、ぜひご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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