おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.12.21column

「『シベリア抑留』って、知っていますか?」Part2も、残り4日

資料展「『シベリア抑留』って、知っていますか?」Part2も残り4日になりました。関連して18日に開催した講演会「『記憶』としてのシベリア抑留ー女性の抑留体験者のオーラルヒストリーが持つ意味ー」とドキュメンタリー映像『女性たちのシベリア抑留』は、師走の晴れ渡った空の下、同志社大学良心館RY107教室で無事開催出来ました。

同志社大学のホームページでも掲載していただき、司会の小黒純・同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センター長のおかげで大きな掲示板も立てて告知に尽力して頂きました。お陰様で把握しているだけで72名もの方にご参加いただきました。16日付け京都新聞で案内記事を掲載して下さった効果も大きかったと思います。その充実した、そして感動した様子については、後日改めてご紹介しますので、暫しお待ちくださいませ。

残りわずかとあって、休館日明けの今日は、朝からお客様が続けて来て下さいました。18日の催しに参加いただいた方も多かったです。映画『ラーゲリより愛を込めて』をご覧になって、あるいは、この映画を見に行く前に、という方が多くおられて、この映画への関心の高さが伺えます。人気俳優さんたちによる映画で「シベリア抑留」という事実があったことを知って頂く良い機会になります。

今日の印象深いお客様から幾人か。長時間メモを取りながら話を聞いて下さったのは、自由民主党参議院議員有村治子さんの女性秘書の方。18日の講演会にも参加下さいました。きっと16日付け京都新聞を読まれてのことだろうと思います。有村さんはシベリア抑留問題に関心を寄せておられるそうで、ご本人がぜひ見たいと希望されていたそうですが、25日までに来館が難しいことから秘書の方が見に来られたのだそう。いろいろ思うことがある政党ですが、要望は要望として、積み残しになっているシベリア抑留問題、中国やフィリピンにおける残留邦人の問題(認定特定非営利活動法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター[PNLSC]のNews Vol.76とリーフレット、映画『日本人の忘れ物―フィリピンと中国の残留邦人ー』のリーフレットをお渡ししました)。

それから折あるごとに主張している国立映画アーカイブの関西館設立を望んでいることも伝えました。折しも来年春には文化庁が京都にやってきますので、日本のハリウッドと呼ばれた京都に、あるいは京都、大阪、奈良の2府県にまたがる京阪奈丘陵に立地する関西文化学術研都市の国会図書館関西館の近くに設立してもらえたらと要望しました。

話はやや逸れますが、1993年私は関西学研都市街びらきの時から、その中核施設「けいはんなプラザ」の13階にあった総局に6年間勤めていました。専業主婦から久々に仕事に就き、学研都市で働き始めた国内外の研究者の皆さんと交流を深めながら、刺激に満ちて興味津々の毎日でした。来年4月で「けいはんなプラザ」は30周年を迎えます。まったくもって「光陰矢の如し」です。13階から次々大きな研究施設が建設されていくのを毎日毎日眺めていました。ここにまだ使われずにある施設を転用して、映画、マンガ、アニメーションなどに関連した資料を一堂に保存活用できる施設があれば良いなぁとずっと思ってきました。その思いを9月28日文化庁補助金事業「映画観光都市・京都」の下見に来られた女性職員さんに話したのに続き、今日は国会議員秘書さんにお話しすることができました。願いが叶う可能性はわかりませんが、自然災害が多い日本で、文化遺産を関東と関西で分散して保管するほうが安全だと思うのです。

閑話休題。チラシ一番上に載せた石川俱恵(ともしげ)さんのご息女もお友達と一緒に資料展に来て下さいました。お父様の作品をお借りして展示していることをとても喜んでくださいました。そのことがとても嬉しかったです。9日に来館いただいた北原恵・大阪大学名誉教授が石川俱恵さんの絵画『軍慰安所』の絵を紹介しながら書かれた論考(インパクション169号、2009年6月)をお渡しすることもできました。アトリエで拝見した石川さんの絵は晩年になるまで封印していた記憶を呼び起こし、「事実を伝えねば」という思いが勝って描き始めた油彩画です。出町柳にあった輸入食品店でコーヒー豆が入った大きなドンゴロス麻袋をもらい受けて、自分でキャンバスを作って描いておられたようです。大変大きな作品が多い中から、展示場に合わせて小ぶりの5点を展示しています(アイキャッチ画像)。

82歳の男性は、シベリア抑留を体験し、76歳で亡くなったおじさまから聞いた話を聞かせて下さいました。二つの中隊があり、一方の中隊長はソ連兵におべんちゃらを言って食べ物を多く貰って部下7名もおこぼれにあやかっていたそうですが、自分たちが風呂に入った後で湯を抜いておいて、続いてやってきた裸の下級兵士だった人々に向けて水を撒いたのだそうです。冷たくて寒くておろたえる様子がソ連兵には踊っているように思えて面白く、そのご褒美に中隊長らには食料が多めにもらえたそうです。一方おじさまが所属されていた部隊は、まじめだった中隊長の考えで、ノルマを果たした以上のソ連兵からの命令には従わず、それ以上の体力消耗をしないようにしたため、中隊長は随分暴力を振るわれたそうです。

おじさまは有名な「暁に祈る」も目の当たりにされたそうです。今回の展示で四國五郎さん著『わが青春の記録』にも、このことについて触れた画文があり、ご子息の光さんが次のようにキャプションを添えて下さいました。

……シベリア抑留史の中で、日本人上級兵士による収容所内のリンチや殺人事件として、最も著名なものは「暁(あかつき)に祈る」事件であり、当時から収容所を越えて知られていた。憲兵隊上がりの上級兵士が、強制労働のノルマを果たせなかった人間などを、罰として厳寒の中、屋外で後ろ手に縛り付けそのまま放置し、多くの下級兵士を死に追いやった。明け方、冷たくなってうなだれている姿が、「祈っている」ように見えたため、「暁に祈る」と呼ばれた。……

おじさんによれば、舞鶴へ引き上げる船でその中隊の一人は頭を打って死亡し、残りの7人は帰港1時間前頃から船中で逃げ回り、ついには捕まって海に放り込まれたそうですが、周りの人は見ないふりをしていたそうです。極寒、食糧難、重労働の三重苦と言われますが、戦争が終わった後も引きずる軍隊時代の階級制度が下級兵士たちをずいぶん苦しめた四重苦だったのです。ソ連側も日本人を管理するのに丁度良いと、この下士官いじめを黙認していました。

もう一つ歩哨に立っているときの怖さについても、おじさまは話しておられたそうです。吹雪の中では音がしないので、オオカミなどの獣が襲ってくるのに気が付かず、それで倒れた人がたくさんおられたそうです。敵より獣の方が怖く、食事のあとは口を清潔にしておかないと獣に襲われる心配がありました。そういった話を、まだ子どもだったこの男性に泣きながら話して下さったそうです。

もうお一方、奈良県からお越しくださった男性は、イルクーツク州第7収容所・第22支部で亡くなったおじさま「福田勝郎」さんについて、2008(平成20)年8月に厚生労働省・援護課からの通達に基づき、ロシア政府が提供した個人資料の写しを申請して入手された書類を見せて下さいました。その書類に書かれている主な項目は、氏名、出生年、出生地、召集時の住所(軍隊召集前の最終居住地)、所属部隊、階級、家族の氏名等、抑留された時期、場所、死亡場所、死因、埋葬場所、医療施設の名称、入院理由、診断、抑留者の漢字氏名。当然ながらロシア語なので、読めませんが、「福田勝郎」さんの資料は7ページに及んで記載されています。全員が厚労省に照会したのではなく、遺族で希望した場合のみ入手できた書類です。1946年1月6日赤痢で病死。多くの方が最初の冬を越さずに亡くなったと聞きますが、この方もそのお一人だと判明しました。故郷を思い、家族を思い、どんなにか無念だったことでしょう。男性の許可を得て、この資料も展示に加えました。

今朝の京都新聞記事から。命懸けで日本に持ち帰った貴重な資料です。四國五郎さんもクレジットカードぐらいの大きさの紙に書き綴った「豆日記」を靴の中に隠して持ち帰りましたが、金井貞直さんが書き込んだ資料も命懸け。いずれも奇跡的な資料です。舞鶴引揚記念館へは、公開中の映画の影響もあって見学者が増えていると語り部活動をされている方からお聞きしました。多くの方に、このようなことがあったと知っていただける良い機会です。当館の展示もぜひ足をお運びいただいて、ご覧ください‼

 

 

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