おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.03.05column

大森一樹監督を偲ぶ会

3月3日「上巳の節句」の日、夕刻から都シティ大阪天王寺で「大森一樹監督を偲ぶ会」が催されました。可愛らしい「雛祭り」の日は、本当なら大森さんの71回目の誕生日でした。

連れ合いもお誘いを受けて出かけましたが、いつもながらのことで予想通りでしたが、写真を1枚も撮らずに帰ってきました。どのようだったかと原田徹監督が翌日Facebookで書かれたのを読んで、当日の様子を知りました。映画のポスターや台本なども並び、これまでの業績を振り返りながら、70歳の若さで旅立たれた監督の死を偲びに大勢の人々が集いました。原田さんの写真をお借りして私も偲ぶことに。

記念に扇子が配られ、そこには似顔絵、サインと一緒に口癖だった「まぁ ええやん」と書いてありました。連れ合いが知る学科長としての大森さんは、いつもしっかり職務を果たされ、異なる意見を持つときも、話し合った後には引きずらず、「まぁ ええやん」とさっぱりしていて好人物だったと申します。多くの人が「永遠の映画少年」と表現する通り、とても若い感性を持った方でした。

連れ合いは、2005~6年頃、北京と韓国で開催された「アジア国際青少年映画祭」に大森監督と同行しました。当然ながら話す機会も多くありました。「映画界への登竜門となる城戸賞ができ、アマチュアの映画少年がその賞を受賞して、プロの監督になった」「いつも先端を切開いた人」という印象を抱いたようです。映画祭で受賞して映画監督になった人は、後にも多く輩出されますが、その先陣を切ったのが大森一樹監督でした。

大阪芸大の学生たちにとっては、「大森一樹に負けるな!」が合言葉になっていた時期もあったそうです。プロの世界に入り、東宝、東映、松竹の大手会社で若者映画の監督から、大作『ゴジラ』シリーズまで手掛けて活躍。さらに後進の指導にも早い時期から当たられます。2000年から大阪電通大で教授、そして2005年から大阪芸大に招かれ、2006年に映像学科長にもなられました。

連れ合いは「確かに豊かな才能があったが、それだけでなく、とても幸運な人だった。それはやはり人柄が大きい。上の人からも可愛がられ、いろんな人に慕われ、後進からも尊敬され憧れられていた。大森さんはとても幸運な人、一つの天才でもあった。大森さん自身もそれを自覚されていたように思う。日本映画界が衰退し、プロの世界で苦労し、叩き上げの現場で、飛ぶことも鳴くこともできない人が多い中にあって、新たな道を切り開いてきた人でもあった」と振り返って申します。

とても良い表情の遺影ですね。余談ですが、私が二十歳ぐらいの頃、母が私の写真を見て「写真は正直ですね」と申しましたが、この遺影を見ていると、母が言ったように大森さんの生き方を表しているように思えます。

遺影の前で、右からシネ・ヌーヴォー(大阪・九条)とシネ・ピピア(宝塚・売布神社駅前)の影山 理さん、連れ合い、左が原田徹監督。

会の終わりに、映像学科関係者が集まった折の写真。ご子息はじめ多くの人が「阪神タイガースファンとしての大森一樹監督」の思い出を話されたそうです。

恐らく影山さんが書かれた「大森一樹略歴」が載ったチラシの右半分下にトークショーの案内が載っています。そのうちの3月25日は原田徹監督(V5)と春岡勇二さん(V8)の対談。どんな話をされるのか聞きに行きたいところですが、その日は別用があり残念ながら行けません。どうぞ賑やかな話で天国の大森監督を喜ばせてあげてください。

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