2024.09.17column
今日、9月17日は山中貞雄監督の命日
今年も、大雄寺境内(京都市上京区)にある「山中貞雄監督之碑」の碑文を拓本した軸を展示しています。特別なことは何もしていませんが、9月の声を聞いたらこの軸のことを思い出すサイクルです。昨日のFacebookを見ていたら、三品ゆきひろさんが山中貞雄について興味深いことを書いておられましたので、許可を得て、そのままコピペして紹介させていただきます。
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★山中貞雄忌
86年前の山中追悼特集から
9月17日は山中貞雄忌。1日早いが今年没後86年。戦病死の発表があったのは17日後の昭和13 (1938)年10月4日。11月15日に九段軍人会館で慰霊会が盛大に開催、参会者2千人以上だったという。
当時は各映画雑誌、山中貞雄の死を惜しんだ追悼特集を組み、交流があった著名人らが追悼文を寄せている。同年の「映画之友」では稲垣浩や岩田専太郎、中村翫右衛門ら著名人の追悼文がある中で、有名監督の島津保次郎が、山中と意外な付き合いがあったと驚きの話を披露。山中と小津安二郎の交遊はよく知られた話だが、大監督でもう一人の「ヤスジロウ」とも意外な共通の趣味から交流があったとは、秘話中の秘話。
島津監督は「山中貞雄君と競馬」と変わった方面から山中を追悼していた。島津は12歳も年長で大先輩、所属会社も違う二人だが、京都や東京などの競馬場では3、4度顔を合わせ、一度も言葉は交わさず、目と目で「どう、儲かった?損した?」だったが、銀座の鋪道で会ったときは「どう、競馬は?」「あかん…これや」と、『人情紙風船』の企画前のこと。酒宴の席で「競馬の儲かるまじないに、君の自画像を描いてくれ」と長い顎をからかうと、ただ「へッへッへッ」と顔をうずめて笑うだけ。誰にも好かれ誰にも憎まれず。若いのに作品に老巧さを持っていた。競馬を思う時、山中貞雄君の姿を思い浮べる、と書いていた。長い顎の山中は、競馬が好きだった…。
また、従軍していた京都の新聞記者は、南京攻略戦の迫撃砲が炸裂する戦地で旧知の山中と偶然会い言葉を交わした。「戦争は僕を生まれ変らせてくれるらしいよ」と煙草を貪るように喫いながら語り、「もしも無事に内地に帰って(映画を)作る上にどういう風に響いてくるのか、そんなことは全然判らないのだ。果たして生き残り、メガホンがとれるかどうか、それすらも判らない」と、余りにも有名な顎が何ものかを訴えるかのように僕の方へ突きかかってくる感じだった、と書いている。山中貞雄が生還していたら、どんな映画を撮ったのだろうか。
東宝東京撮影所監督室内の山中の遺影の前でロウソクに点火するのは、大河内傳次郎!『人情紙風船』撮影中のオフショットなど初めて目にした写真を掲載。
以上です。三品さん、ありがとうございました。いつもいろんなことを教えて下さり感謝しています。
スナップ写真上から2枚目の侍姿は、河原崎長十郎で、遺作となった『人情紙風船』のものと思われます。東京の東宝スタジオで撮影されたのでしょう。下から2枚目の写真の右の男性は、滝沢英輔でしょう。脚本家としてスタートし、後に監督にもなりました。山中貞雄の従軍記には、滝沢に宛てた文章も記されています。
今日は休館日ですが、大雄寺で営まれる第38回「山中貞雄を偲ぶ会」に参加される方々の中の幾人かが、法要前に立ち寄ってくださるそうです。その内のお一人は、昨年北海道立文学館で開催された「生誕120年・没後60年 小津安二郎 世界が愛した映像詩人」を見学に行かれ、協力させていただいた碑文の軸をご覧になったそうです。特別扱いと言ってもいいような立派な展示ケースに入れられて名誉なことでした。この軸を、まだ暫くは飾っていますので、良ければ見にいらして下さいね。