2024.09.17column
関東大震災ニュース映画の一部を新たに公開
昨年5月に豊中の方から、大切にしておられた映像関係の機材をたくさん寄贈して頂きました。機材関係はご主人の、フィルム関係はご主人のお父様が大切になさっていたものだそうです。そのフィルムの中にあったうちの1本『日本之大地震』を今回YouTubeで公開しました。もとの映像がどのようなものであったかわかりませんが、パテ・ベビーフィルム(9.5㎜)に再編集して販売されていたものです。
6分弱の映像には、地震数日前の平穏な東京と横浜の様子も映っていて、それが1923年9月1日午前11時58分に起こった巨大地震によって荒野と化してしまったことをより一層際立たせています。
火災は数日間続き、その火は港内にあった船舶にも燃え移っています。河は屍や雑多なもので埋もれていて、目をそむけたくなる場面もあります。甚大な自然災害を前にして、泣き叫ぶ人の姿は見られず、宿命を受け入れ諦観したような表情です。そんな中、復興に向けて立ち上がり、努力する人々の姿も。
地割れを修復し、後片づけを早めるために焼け残った建物をダイナマイトで爆破、伝染病を避けるために、河に浮かんでいた屍を火葬し、赤十字の人は手を尽くして傷ついた人々を救護します。
救援物資が方々から届き、
食べ物にありついた人々には安堵の表情もみられます。
この夏も各地で負の歴史に向き合おうとする動きがありました。それは、101年前の関東大震災による混乱時に「朝鮮人が暴動を計画している」とか「家屋に火をつけた」、「井戸に毒をまいた」とか言ったデマが飛び交い、多くの朝鮮人が虐殺されたことです。映画『福田村事件』(2023年9月1日公開)で知った人も多いでしょう。今年9月6日「福田村事件追悼慰霊碑保存会」が寄付を募って、福田村(現千葉県野田市)にある慰霊碑横に事件の背景や誓いの言葉「生命の尊さを世に訴えることを誓います」を書いた石碑を建碑しました。
今回公開したニュース映像『日本之大地震』は、「誰れもの顔にも『未来への希望』が新しく輝きあふれている」の字幕で終わっていますが、背景には、こうした朝鮮人差別や映画で描かれたように地方から行商に来ている人々が話す方言を朝鮮人の会話と勘違いされた結果、殺された日本人もいました。『日本之大地震』には、そのようなことはかけらも表現されていません。今のようにインターネットで瞬時に情報が広がる時代とは異なり、こうしたニュース映像を見た人は、自然災害への恐怖と共に、そこから立ち上がる人々の懸命な姿に共感を覚えたことでしょう。ニュースは切り取り方によって、如何様にもなるのだと改めて思いました。
【9月19日追記】
ブログを読んで下さった方から、被災した人々の屍の映像が映っていたことについて問い合わせを受けましたので、俄か勉強では追い付かないと、今回も国立映画アーカイブのサイト「関東大震災映像デジタルアーカイブ」を担当されたとちぎあきらさんに助言を仰ぎました。内務省による映画検閲が始まったのは1925年7月1日。関東大震災が起こったのは1923年9月1日のことでしたから、まだ法律的に検閲が始まる前のことです。けれども当時の新聞報道を見ると、被災地を撮影した映画の上映は、戒厳令が施行された東京市内と周辺の郡部では、少なくとも9月いっぱいは許可されていなかったようです。発生直後の被災地を撮影した映画は、被災地以外では9月3日から上映が行われていて、各地でセンセーショナルな見世物として、大人気を博す興行になったとも言われているそうです。したがって、この間に流通していたフィルムに被災した人々の屍が映っていたとしても何等不思議ではないとのことでした。
映画検閲が始まって以降は、全てのプリントに対して事前検閲が行われました。文部省が1923年に製作した『關東大震大火實況』がニュープリント版として公開されるのに際して1925年12月19日に受けた検閲では、公安目的により場面3か所の切除と、字幕1か所「あゝいたましい白骨乃山」切除と説明台本からの同字句抹消が命じられているそうです。なお、国立映画アーカイブで公開されている『關東大震大火實況』は、それ以前にプリントされたフィルムらしく、「あゝ!いたましい白骨乃山」の字幕も、小山のように連なる白骨の山も映っていました。
今回パテ・ベビー版として1923年フランスのパテ社が製作し、伴野商店が配給した上掲の『日本之大地震』は、劇場で公開を目的にしたものではなく、家庭視聴用に作られたものなので、もとから検閲対象外。河に浮いている屍が映り込んでいても不思議ではないそうです。なお、1920年代末から30年代初めにかけて、9.5㎜や16㎜の小型映画が積極的に社会運動に利用され、公開されたことから、この頃から小型映画も検閲の対象になっていきます。
5巻からなる『關東大震大火實況』を見ましたら、第3巻に関東戒厳司令部や自警団の様子も記録されていましたが、勿論デマによって虐殺された人々については触れていません。そして、今回公開した映像が「関東大震災映像デジタルアーカイブ」の中に『日本之大地震』、もう1本『震災後之日本』として公開されていました。
これは、当館が所蔵している中で最も古い『パテ―シネ』ですが、これよりもさらに古い1931年発行の『パテ―シネ』第四巻第六號掲載の「パテ―九ミリ半 映画總目録(三)」によれば、今度公開した『日本之大地震』は、前半が番号655「日本の地震」(あるいは「地震に見舞はれた日本」。原題はLe tremblement de terre au japon)で、後半が先の映画總目録番号682「日本の地震(後編)」で、原題はAu Japoapres le cataclysmeではないかということです。こうしたフィルムは、どれぐらい出回ったものでしょう?
撮影者についても、とちぎさんは、横浜シネマ商会(現ヨコシネディーアイエー)の社史を参考にして、創業者の佐伯永輔は神戸港からの船便でパテ社にフィルムを送ったとあることから、横浜の場面が多く登場する本素材は、横浜シネマのカメラマンによる撮影の可能性が高いのではないか、と考えておられます。