2025.10.30column
11月6日「非常時の少年たち」~映画『僕らの弟』(1933年)をめぐる2作品を一挙無料上映‼

もう上映日が近づいてきて、慌ててお知らせを書いています。どうか、多くの人の目に届きますように、お知り合いにもご紹介いただけると幸いです。
11月6日(木)同志社大学寒梅館(市営地下鉄烏丸今出川駅直ぐ)で、 “wot”プログラムの一環として、私どもが企画した1933年につくられた映画2作品を初めて同時上映します。無料です。
戦後80年という節目を迎えた今年は、いろんな切り口で「あの戦争のことを忘れてはいけない」と催しが企画され、報道され、各地で取り組まれました。10月、日本で最初の女性首相が誕生しましたが、早速所信表明で防衛費を国内総生産(GDP)比2%増額へ2年前倒しして本年度に達成すると述べ、28日アメリカのトランプ大統領との会談でも、防衛費増額に取り組む決意を伝えました。さらに安全保障関連3文書の改訂も検討すると述べています。先の戦争で私たちはいったい何を学んできたのでしょうか?トランプ大統領の顔色をうかがいながら、好かれようと突き進む政権に危うさを感じずにはおれません。
今回上映する2作品は1933(昭和8)年7月11日付け大阪毎日新聞が報道した記事をもとにしています。

上映企画のキーワードは「非常時」の3文字です。今日みられるような「金だけ、今だけ、自分だけ」ではなく、貧しくても社会全体で支え合う人の情けが感じられる作品をご覧いただきながら、80年続いてきた平和な世の中をこれからも維持していけるように一緒に考えましょう。
上掲記事をもとに、先につくられたのが『僕らの弟』(日活京都太秦作品)です。私どもが公私ともにお世話になった恩師・依田義賢の原作・脚本(唯一残存する無声映画)で、春原政久監督にとってはデビュー作です。今回は井上陽一さん生前の活弁と氏が用意された音源付き録音版でご覧いただきます。関西活弁会の重鎮だった在りし日の井上さんの名調子をぜひお楽しみください。
撮影は内田耕平、配役は紀先生=南部彰三、高瀬茂平=佐藤圓治(女優三条美紀の実父、紀比呂子の祖父)、妻あさ子=須藤恒子、おばさん=阪東三江紫、だんご屋のおかみ=花野園子、小学6年の高瀬房一=中村英雄、弟信一=西村五男、妹房子=村山行代。
昭和初頭の不況時代、大阪の此花区四貫島小学校を舞台に、健気に生きる子どもたちを主人公に描く傾向映画の流れをくむ社会派映画です。当時依田は、師・村田実監督の下でのシナリオ修行から一本立ちした頃で、数々の名作でコンビを組んだ溝口健二監督と出会う前の作品。
この映画フィルムが発見されたのは、京都府向日市にある西山高等学校の倉庫。創立記念の新館建設のために旧館整理中のことでした。1987(昭和62)年9月16日NHK京都放送局夕方の番組で、古いフィルム4巻が完全な形で見つかったと報道されました。今から38年前のことです。映画評論家の荻昌弘は「春原政久監督の処女作は、封切当時1か月も続映され大変好評だった。生活の貧しさというものを大変に正直に描いているところに心を打たれた」と発見当時語っています。この作品は日活作品リストに載っておりません。宗教や教育の機関が映画会社に製作を依頼したうちの一作品と判断されていたようです。

発見されたフィルムの冒頭に、後につけられたと思われる上掲の「浄土宗西山光明寺派本山 光明寺所蔵 非常時涙の少年 僕等の弟 光明寺婦人会寄贈」とあったことから、依田は取材に対し次第に不快感を露わにし、最後には「これは私の作品ではない」とまで言い出したそうです。左翼的な主義と主張を持っていた依田は、決して軍国少年の孝行譚を美化して描こうとしたわけではなく、不本意に感じたようです。
この映画がつくられた1933年は、 “満洲国”建国の承認をめぐって日本は孤立し、国際連盟を脱退します。折からの経済恐慌から軍事政権下への過渡期にあたり、まさに戦争前夜でした。依田が入った日活の現代劇部は関東大震災を機に京都に拠点を移して活動していましたが、1932年に東京へ戻す計画が進められ、人員整理から労使の対立が激しくなり日活争議に発展。師の村田実を始め、内田吐夢、田坂具隆、伊藤大輔など実力ある監督の脱退が相次ぐ中、京都に残った依田は不運にも結核に。失意のどん底にあった依田は『僕らの弟』の完成を見ていません。過ぎ去った年月の長さだけでなく、こうした状況も依田の記憶から『僕らの弟』が抜け落ちた要因かもしれません。一方の春原監督にはこの映画を復元した太田が取材しましたが、同様にこの映画の記憶を蘇らせることはできませんでした。
今年7月に寄贈いただいたおもちゃ映画『落花剣光録』(清瀬英次郎監督、1929年)に、『僕らの弟』主人公房一少年を演じた中村英雄が出ていたことが分かりました。彼は名子役として数々の作品に出演しましたが、戦争に応召され、1943(昭和18)年、南方の陸軍病院で戦病死しています。享年24歳。彼も戦争の犠牲者でした。戦後80年節目の年に、彼が出演していた作品の断片が見つかったことも不思議な巡り合わせです。戦争さえなければ、どのような作品で私どもを楽しませてくれたことでしょうか。残念です。
内務省警保局発行検閲時報を順に調べていくと、1938(昭和13)年9月28日「愛国婦人会」を申請者として『僕らの弟』が記録されています。社会主義的な思想の持ち主たちによって作られた作品が、こうして軍国時代の小国民の英雄美談として解釈されていったと思われます。この年4月1日国家総動員法が公布されています。今は紙フィルムが注目されていますが、これの製造禁止令がでたのもこの年のことです。昭和10年代玩具のキーワードは「愛国」の文言です。依田が不快感を露わにした「非常時」の3文字はおそらくこのときに付されたものでしょう。
さて、太田が『僕らの弟』について、新聞記事に載った大阪市此花区四貫島小学校の同窓会や郷土史研究会の人々に会って調査している中で、「この映画『僕らの弟』ではなく、別の映画『母なき家の母』というのを見た」という遥か昔の記憶を手繰り寄せた人が現れました。しかもその作品には新聞記事で紹介された本人たち、高瀬房一、房子、信一の三兄弟はもとより、担任の紀 積(きのつもり)先生も出演した記録映画であるという。しかし、映画検閲時報を調べても『母なき家の母』は見つかりませんでした。しかしながら、1933年9月11日に検閲番号H.9883 号で申請された『非常時涙の少年』がありました。今度の上映会で最初にご覧いただく作品です。製作は新聞記事を書いた大阪毎日新聞社で、記事を書いた橋本仲治記者自身が構成を行っています。そして、紀先生と職場結婚した雪子夫人の記憶によれば、『非常時涙の少年』は学校や地域での上映会だけでなく、松竹系でも上映されたそうです。
幸いにして、フィルム探しを依頼して1年後、紀先生宅倉庫から『非常時涙の少年』の16㎜フィルム4巻が出てきました。60数年ぶりに出てきた缶は赤茶けていましたが、検閲台本と一緒に梱包されていたことで、この映画に関する情報が分かってきました。「内務省認可證。台帳番号第51号。非常時涙の少年。全4巻。大阪毎日新聞社」。検閲台本の『梗概』冒頭には「この映画は実際にあったことを実際の人々をもって劇的に編輯したものです」とあります。
梗概の続きは「…大阪市四貫島小学校六年生高瀬房一少年が、貧しい中に妹ふさ子さん(同校三年生)、今年六ツの信一君を、母なき家の母となって、一切の世話をして、お父さんが恵まれない、その日稼ぎのために家庭にあって仕事ができぬ処から、常に留守勝で房一君も学校を休まねばならぬ事情にあった。受持訓導の紀積先生は、生徒の身の上を案じて、その家庭を訪ね、房一君からその事情を訴えられ、共に泣いたが、紀先生と校長先生の計らいで、弟信一君を連れ登校するようになった。」
この出来事が昭和8年7月11日の大阪毎日新聞紙上に発表されたことを示し、
「…各方面から、この感心な少年へ同情があつまりました。房一少年をめぐる人々は、この夥しい同情に対する『人の情けに報ゆる会』を催して、世の同情者に感謝の意を表すと共に房一君親子も励まし合って、今では朗らかに勤め励んでいる」と結んでいます。
7月21日付け大阪毎日新聞紙面で、日活は記事に感動し、7月24日ごろ四貫島小学校でのロケを開始し、8月10日ごろに完成、8月に封切の予定だと報じ、7月25日付けで、自らも日活と同じ24日に「何処までも写実本位で、24日同校で高瀬君兄弟を主役として、同校職員、全生徒が、これに参加し、ロケーションを行った、実写を劇構成として映画化するのは、これが最初の試みであること」と報じています。記事を端緒に社会の反応の大きさがうかがわれ、急いで映画撮影に着手し、同じ7月24日に日活撮影部と大阪毎日新聞活映部が四貫島小学校で撮影していたことが分かります。

これは西宮にあった「太平レコード会社」がレコード・ドラマに吹き込んで、日活の映画上映に合わせて販売したものです。社会の反響の大きさに周囲の人たちは「人の情に報いる会」を催します。写実版映画は「母なき家の『母』」から「非常時涙の少年」に改題されたことが、月刊誌『活映』10月号(第68号、大阪毎日新聞社活映部発行)に載っています。そして、9月14日四貫島小学校に於いて、この作品の上映会が催され、13時から1年~4年生まで、15時から5年~高2年まで、19時半から校庭で父兄会に映写し、観衆は約6千人と非常な盛況で、父の高瀬茂平も3人の子どもたちと一緒に鑑賞したことが第68号に掲載されています。
今回上映する『僕らの弟』は、1999年8月14日太田が勤務していた大阪芸術大学塚本学院の助成を受けて復刻した映像を京都文化博物館映像ホール「時代を映す子供の瞳」特集の中の一作品としてお披露目した折のものか、あるいはその後に一度井上さん活弁で上映したことがありますので、その折のものかもしれません。京都文化博物館お披露目の折には「60年ぶりの復元上映」「非常時の世相色濃く」「戦争前夜の不況時代の子供たち」「ほんろうされた世代の困惑」などと新聞やテレビで取り上げて頂きました。こうして、大阪毎日新聞記事がもとになって製作された二つの映画『僕らの弟』と『非常時涙の少年』を同時に上映するのは初めての試みです。『非常時涙の少年』はサイレントピアニスト天宮遥さんの生演奏付きでご覧いただきます。
2作品上映後に、この映画2作品を復元した太田が当時のことを思い出して少しばかりお話しさせてもらう時間を設けますが、話し出すと長くなるので適切に捌いていただこうと、私どもと親交がある毎日放送元プロデューサーでジャーナリストの大牟田聡(おおむたさとる)さんに聞き手をお願いしました。大牟田さんは原爆や大災害の報道に長くかかわり、2014年にドキュメンタリー「映像’14 被爆を語るということ」で「坂田記念ジャーナリズム賞」を受賞されています。
末筆になりましたが、同志社大学今出川校地学生支援課寒梅館ホール担当藤林昌奈様、同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センター様のご協力を得て、この企画が実現できますことに心より御礼を申し上げます。
一人でも多くの皆様のご来場を賜りたいです。何卒宜しくお願いいたします。


