2019.11.13infomation
12月8日映像を通して平和を考えるPart2「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」開催
前回の新着情報で書きましたが、太平洋戦争開戦記念日の12月8日に、研究者二人をお招きして、映像を通して平和を考えるPart2「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」と題した催しをします。なお、Part1「近代記録映像から災害・文化・戦争を考える」についてはこちらをご覧下さい。
最初にお話をして頂くのは、近畿大学工業高等専門学校総合システム工学科都市環境コース(建築系)で、教育・研究をされている田中和幸准教授です。一級建築士で、近代RC造建築の保存・修復に関する研究をされています。専門は歴史的建造物の保存・修復と近代建築史。
日本人がブラジルへ移住を始めてから111年。インターネットが普及した今なら、瞬時にブラジルの情報を入手することが出来ますが、当時はブラジルと関わりがあった外交官や要人らが著したものや講演会に参加するなどの方法でしか知ることができませんでした。ただ、これらの方法でも、彼の地の現状や、移民に対するメリットが正しく伝わらなかったことは想像に難くありません。そこで、ブラジルへの移住に期待が抱けるよう、学校の講堂などで幻灯機を用いて、ブラジル移民を宣伝する方法もとられました。
今年3月21日に田中先生が来館され「池田都楽の幻灯機を見せて貰えませんか?」と尋ねられました。
これが、当館所蔵の池田都楽の幻灯機。種板(スライド)もあります。聞けば、この幻灯機で投影していたガラスの種板を100枚ぐらい入手されたのだそうです。「建築が専門なので、幻灯機について分からず見に来ました」とのこと。生憎その日は連れ合いが不在で実際に写してみることができませんでしたが、5月5日「覗いて写して、楽しむものたち展」で再訪の折りに、展示していたこの幻灯機を用いて、その種板の一部を一緒に見ました。ブラジルの風景や建物などが写し出されました。
二度に亘る田中先生来館の間、4月11日に、長野県の小田嶋正勝さんという方から問い合わせメールが届きました。「岸本與(1873-1954)という幻灯師・社会教育家のことを調べている最中に、明治32年以降に購入したと思えるガラス種板100枚ぐらいと一緒に『池田都楽』と彫り込まれた金属板のある映写機を入手しました。ご意見やご感想をお聞きしたい」という内容でした。
「池田都楽の幻灯機」「種板100枚ぐらい」と言う共通の言葉だけでなく、「岸本與(あたえ)」という幻灯師の具体的な名前が分かったのですから、大変驚きました。草原真知子・早稲田大学名誉教授に尋ねると「幻灯師で名前が残っている人はほとんどいない」そうです。その後、4月18日付け小田嶋さんのFacebookに「伊那谷雑話127 岸本與と幻灯機をめぐって(上)」にご自身で調査された内容と幻灯機の写真などが載っていました。当館の幻灯機と形が違いますが、上掲(下)写真と全く同じ金属プレートが付いていました。
その幻灯機について草原先生は「明治期の都楽製幻灯機には蛇腹のものはないようなので、かなり後年のものかもしれない」と仰っていましたので、長野県のものも当館のものも明治期の幻灯機ではなく、大正時代のものかも知れません。続く4月25日付け小田嶋さんの「伊那谷雑話128 岸本與と幻灯機をめぐって(中)」に、長野県飯田市歴史研究所の本島和人さんが「岸本與は信濃教育会の嘱託として移植民(ブラジル移民)の宣伝にもかかわっていたようですね」と書き込み、『下伊那のなかの満州』第9集、2011年、24~25頁を引いて書いておられるのを見つけ、興味深く思いました。この幻灯機と種板は、平成になって遺族から長野県の宮田村に寄贈されたそうです。
今回の催しは、小田嶋さんからの問い合わせとFacebook記事、田中先生の来館の3つが揃って、思い立ちました。なお、漫画家の近藤日出造は、文芸春秋第32巻19号『臨時増刊漫画読本』(1954年12月付録)で、子どもの頃の思い出として「県内に名の轟いていたのが、移民事業にその四尺六寸の短軀を捧げた岸本與だった。(略)岸本老人は、ブラジル移民奨励のため、一個の幻灯機を携え、よく徹るのどと断乎たる熱情を武器とし、不トウ不屈の敢闘をつづけていた。恐らく、長野県内の小学校で、この人の幻灯機を講堂に据えなかった所は一つもないにちがいない」と綴っていますが、「キキメの点を考えると甚だ懐疑的ならざるを得ない」とも。宣伝方式が全くつまらなかっただけでなく、「南米ブラジルのコーヒー栽培だのコーヒー園」と言われても、コーヒーというものを当時の殆どの人が知らなかったから、一向にピンとこなかったからのようです。
田中先生のその後の調査では、ブラジル移民の種板は長野県宮田村だけでなく、日本カ行会の会長であった永田稠が1920(大正9)年にカメラマンを同行して現地で撮影した画像を種板にしたものが同会に保存されているそうです。けれども、田中先生が入手された種板は、それらとは別物でした。今回の発表では新たに見つかった種板113枚の内容を分析しながら、幻灯機を用いたブラジルへの移民政策の進め方について紹介して貰います。
もう一つ、今年に入って当館が入手した映像に満州移民を促進するために作られたと思われる16㎜記録映像の活用も頭にありました。満州三江省樺川県千振へ移住した人々が、武装した人々に守られながら豊かな農業、酪農をしている表情を捉えています。
ブラジル移民があって、次に満州移民が進められました。せっかくなら、国によって推し進められた2つの移民政策についての催しにしたいと、欲が深まり、「どなたか満州移民についてお話し下さる人がおられないか」と探しました。相談した高木博志・京都大学人文科学研究所教授に推薦して頂き、快く引き受けて下さったのが、2人目の発表者、大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻日本学研究室の安岡健一准教授です。飯田市歴史研究所を経て現職。チラシに発表の要旨を載せましたが、せっかくなので、京都の事例も紹介しながらお話ししていただきます。
8月26日毎日新聞朝刊に情報公開法成立20年「公文書を生かす」⑤で、「公的記録少ない満蒙開拓団」の見出しで興味深い記事が載っていました。満蒙開拓団の説明として「関東軍が1931年に満州事変を起こして作った中国東北部の傀儡国家『満州国』の支配を確立するため日本の国策で32~45年に送った農業移民団。敗戦後の逃避行で集団自決などがあったほか、残留孤児・婦人約11000人(推計)を出した。敗戦間際に軍に召集された人の多くは旧ソ連により抑留された」とあります。送り出された人数は推計約27万人、敗戦後の逃避行で約72000人の死者を出したとされます。先に「京都の事例」と書きましたが、毎日新聞の記事は東京の事例を公文書を探して調べようとしたもの。
意外な気がしましたが、東京発の満蒙開拓団は全国9位の約11000人もおられたそうです。しかし、どんな人たちが東京から渡ったのか、長らく実態は分からなかったそうです。その理由を「(開拓業務を所管した)拓務省がなくなると、戦後は外務省、農林水産省、厚生労働省などにばらばらに引き継がれ、文書が廃棄または所在不明になっていった。地方も同じような事情だったのだろう」と加藤聖文・国文学研究資料館准教授が解説しておられます。
記事は続きます。東京都大田区でミニコミ誌「おおたジャーナル」を発行している今井英夫さんたちが資料を収集し、生還者の証言を集めて、2012年『東京満蒙開拓団』(ゆまに書房)を出版されました。「東京府拓務訓練所(移民のための訓練施設)」は、ブラジルへの移民が頓挫して満州への大量移民が始まる1939(昭和14)年に、初の府直営施設として誕生したそうです。送出されたのは、世界恐慌による生活困窮者から始まり、職を失った中小の商工業者、空襲で家を失った人など。さて、京都での事例は、どのようだったのでしょう。お話しを聞いて共に学びましょう。
当日は、それぞれの発表に続き、休憩を挟んで対談形式でお話をしていただきます。参考に12月8日に因み、当館所蔵のアメリカで撮影されたニュース映像の中の真珠湾攻撃から神風特攻までの映像を集めたものもご覧頂きます。12月4日から開始する「戦争プロパガンダ展」も休憩時間にご覧頂ければ幸いに存じます。
先着30名で、予約優先です。お知り合いにもご紹介頂ければ嬉しいです。皆様からのお申し込みを心よりお待ちしております。