おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.08.20column

8月11日開催「映像を通して、平和を考える」の振り返りと感想文

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8月11日猛暑の中、発表してくださった滋賀県長浜市の高月観音の里歴史民俗資料館学芸員・西原雄大さんと参加して下さった皆様方に先ずは心からの御礼を申し上げます。冷房が不十分で申し訳なかったのですが、そんな中でも、皆様最後まで熱心に耳を傾けて下さったことを嬉しく思っています。

これまで、当館が所蔵する実写版やアニメーションを活用して研究発表や上映会をしたり、マスコミで資料として用いられたり、研究発表の場での活用や、この日上映した『あこがれ』のように作品に活かしてもらうことは幾度もありました。けれども、おもちゃ映画として残った記録映像をまとめて解説付きでご覧いただくのは初めての企画です。

一度だけ、第10回映画の復元と保存に関するワークショップで、「大正天皇御大喪儀」(1927年)~「潜水艦進水式と日華同盟締結」(1943年)までの25作品をまとめて「おもちゃ映画で見る昭和初頭史」として、サイレント映画演奏者・柳下美恵さんの生演奏でご覧いただいたことがありますが、解説まではできませんでした。その意味でも、今回は良い試みができたと思います。快く引き受けて下さった西原さんに心より御礼を申し上げます。

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発表タイトルは「近代記録映像から災害・文化・戦争を考える」。埋蔵物など考古学的な仕事からスタートされた西原さんでしたが、赴任された滋賀県内には、多くの戦争遺跡があり、それは防空壕だけではなく、監的壕もたくさんあります。監的壕は射撃訓練するためのもので、戦争を進めるため育成としてのものです。戦闘機を格納する壕も残っていて、滋賀県あげて平和資料館を作り、毎年平和学習の企画をされています。西原さんもそうした取り組みを続けておられるうちの一人。

長浜では、昭和20年カネボウの工場がグラマンの奇襲攻撃を受けて、非戦闘員のパラシュートを作っていた人が亡くなっています。同じ年、田んぼで遊んでいた幼稚園児と小学1~2年生の子どもたち6人が、グラマンの襲撃に遭い死にかけたこともあったそうです。最近になって田んぼを掘り返したら玉が出て来て、80歳代になっているその命拾いした人が腰を抜かし、「あの時の記憶が甦った。パイロットが笑う顔を見た」と仰られたそうです。

西原さんは1964年長崎県の原爆病院で生まれました。当時の長崎県で一番医療施設として進んでいたのがこの病院だということで、お母様はここで出産されましたが、同時期に生まれた赤ちゃんのほとんどが被爆二世でした。病院は、治療を受けるという名目でしたが、実際はアメリカ指導の実験台でした。原爆病は吐き気、頭痛、高熱が続き大変に苦しいもので、それは二世、三世と続いていく恐ろしいものであることを、後に出合った三世の若者から知ったそうです。原爆投下から74年経っても、原爆病と戦っている人々がおられることを忘れてはなりません。

つい先日、原爆投下から8年後に作られた映画『ひろしま』がテレビ放送され、今も映画館で上映されています。そして、長崎原爆投下直後の様子をアメリカ人カメラマンが撮影したNHKスペシャル(2017年放送)をYouTubeで見ることができます。また、被爆19時間後に日本人カメラマン山川庸介さんが撮影した「長崎 映像の証言~よみがえる115枚のネガ~」を見ることもできます。8月11日の催しで最後に上映したNOddIN『戦争のつくりかた』は、如何にして平和な世の中を作っていくかを考えるアニメーションです。平成の時代は自然災害が多い時代ではありましたが、幸いにして戦争に巻き込まれることはありませんでした。けれども、戦争を知らない為政者たちの言動から、どんどん戦争のできる国にしようとしている危うさを感じます。

前後しますが、発表のまとめに、西原さんは次のように話されました。

「負の遺産ともいうべき戦争記録は、特定の立場により都合よく解釈されるべきではない。また、拡大解釈され利用すべきでない。生き証人としての映像記録から、何を感じ取り、何を考えるかが重要である。災害記録映像は、現在の我々に警鐘を促すものである。地球は生き物であり、太古より造山活動や大陸移動を繰り返してきた。その生き物の上で、あらゆる生物が営みを行っている(人間だけの地球ではない)。人間の人智を超えた、地球の動き(災害)を察知し対策が必要である(予知と避難、アフターケア)。アニメも作り手の意図、そして何を観客として感じたかを考えねばならない」。人間は決して愚かではないから、未来に希望を託すとして、発表を終えられましたが、今の世の中の動きを見ていると、日本だけでなく、どこもここも危なっかしくて、本当に心配になります。

西原さんによれば、政治家が世の人のことを第一に考えるようになったのは、国が統一され、政治が安定した江戸時代に入ってからのことだそうで、M8.9以上と考えられる天正大地震(1586年)が起こった時、近江坂本城にいた秀吉はすぐさま大坂城まで逃げていきました。人々を救うことより、我が事大事! 今の為政者を見ていると、秀吉の時代に遡ったのかしら、と思わぬわけでもなく。

ともあれ、江戸から明治になって高まった学究熱は、自然災害についても真実をできるだけ正確に伝えようと記録を残し、それを教訓として後世に伝えようと努力します。類例から学ばないと、先が見えて来ないということにもなります。記録としての動画が撮られるようになったのは、関東大震災(1923年、M8.1)から、ということで、所蔵する関東大震災の映像を見てもらいました。死者10万5千人、被災者150万人以上と大きな災害でした。家屋の倒壊で亡くなった人より、広場に集まった人々が熱風で煙を吸って二次災害で亡くなった方が多かったそうです。記録映像は、あの瞬間を捉えた生き証人でもあり、災害に強い都市設計の貴重な資料になります。関東大震災時の亀戸事件からも学ばなければなりません。

DSC00888 (2)続いて戦争記録映像から。今回の催しは、2月11日に来館された西原さんが、戦争記録映像をご覧になって「動いている上海陸戦隊!」と驚きの声を挙げられたのが始まり。とても詳しいので、聞けば、長浜市におられる上海陸戦隊員だった野村さんの遺族が貴重な写真資料を資料館に寄贈されたのだそうです。もう一人、1930年代毎日新聞記者だった人の遺族からも写真資料を預かられ、それらを現在調べて纏めようとされているからでした。

その中に上海事変が起こる1年前の1936年上海陸戦隊の官舎を写したものがありました。大きな装甲車が中央に写り、その装甲車は回転砲を持ち、上に重機関銃が付いています。横にサイドカーが付き、陸戦隊特有の十文字の襷を巻いた人たちが何人か立っています。上海は日本にとって喉から手が出るほど欲しい土地、重要な貿易港でした。上海租界地の説明、上海事変の時系列説明に続いて、当館の「上海事変第一報」「第二報」「第六報」を上映しました。

西原さんは第一報について「ドキュメント的ではあるが、場面の切り変わりが早い。各種のフィルムの継ぎはぎである。中国軍の抵抗が無い。それはなぜか?結局、戦争のプロ・陸戦隊の登場で敢えてそこで終わらせて、戦威高揚に繋げようとしている」。第二報について「三八式歩兵銃や軽機関銃を構えている。しかし映像は戦闘が済み崩壊した上海の街並みを映している。警戒態勢が見えない。装甲車が映るが相手側からの反撃が無い。銃から硝煙が上がっていない、演出の空撃ちなのか。上海陸戦隊に焦点を当て、戦闘を恰好良く見せて観客を引き込もうとしている」。第六報については、「出征汽車、軍馬徴用、上海陸揚、複葉機の整列、九八式中戦車(チハ)や九五式軽戦車、などが映り、最後に上海陥落の万歳場面で終わる。主力戦車の活躍は観客たちを熱狂させただろう。戦争で多くの日本在来種の馬が徴用されて命を奪われた、このことも悲しい。万歳は後で演出されたものではないか」。と解説された上で「3本の映像は上海事変の実態を捉えた記録映像とは言い難い。あくまで、近衛内閣の進める『支那事変(日中戦争)』の拡大と勝利のため、国民扇動のニュース映像に他ならない」と纏められました。

続いて、所蔵する「不詳」ニュース映像から。5-24と分類した映像について「九八式中戦車、指揮官のクローズアップ、重機関銃、砲兵、砲撃、進軍、そして万歳の場面。映像は小刻みに入れているが、相手方や占領された市民の姿が映っていない。日本軍の侵略を正当化し、観客を熱狂させる意図で作られている。どこの映画館もこのような映像を上映していた」と解説。因みに、支那という言葉は支えることが出来ない国という意味で使ってはいけない言葉。英語で自分たちのことをSHINOと最初に書いたのは孫文なのだそうです。

同じく満州事変直後1932年の「関東軍ハルピン入城 1932 7-1」に分類した映像については「装甲車は黒色から迷彩仕様に変わっている。かつてハルピンは東アジア一美しい街と言われていたが、そのハルピンの街を進軍する日本軍。主力兵器の一つ、九五式中戦車が走っている。陸軍独立第二十八旅順連帯を強調している(存在を明らかとして、紹介)。ロシア正教風の建物が見え、ロシア系、満州系(中国東北部)市民の姿から満州国の目指す五族共存がみえる。日本の馬と大陸の馬が混じっているのは珍しい。三本の足を使って走るのは大陸の馬で、チンギスハンの時代に、3本足で走るように統一したから。一方日本の馬は4本使って走る」と解説。馬の走り方など細かいところまで見ておられたことにびっくり。

トーキーのニュース映像「東日大毎国際ニュース 汕頭(すわとう)市占領35-58」については、「軍歌と歯切れ良いナレーションで観客を引き込み、全編プロパガンダ。占領下の人々が描かれず、映っている人物も、ひょっとしたら日本人に占領下の人の服を着せて撮ったのかもしれない。万歳のシーンも含め、脚色(やらせ)ではないか。映像(空間表現)+音楽(時間表現)+効果音(臨場感を高める)+脚色(嘘を真実にする)で、映像はトリミングにより、都合のよいところしか出さない。日本のプロパガンダ映画の手本はドイツのニュース映像だったが、プロパガンダ(宣伝)は三国同盟で成立した政権だけのものではなく、アメリカでは、対ファシズムのプロパガンダ映画が作られた。フランク・キャプラやジョン・フォードなどが政府から依頼されて作っている。冷戦中においては、ソ連やアメリカで作られ、現代では宗教まで含んだ各種のものが作られている」。いつの時代も、真実か編集されたものか見分ける力が必要ですね。

次に軍事教練映像『落下傘部隊』とアニメーションのマー坊『敵城攻撃』と『オリンピック』。『落下傘部隊』はドイツの落下傘部隊の苛酷な訓練の様子を記録したもので、エリート部隊の存在は若い人に憧れを生み出し、アーリアン人としての民族意識も高めました。パラシュート降下訓練は費用がかかるし、事故を伴うことができないので質の高いものでした。「単なる教練映像ではなく、ドキュメント性があり、戦争準備のにおいがする」と西原さん。戦意高揚を目的に、各国でも映像を用いて扇動する動きがあったことを示します。

マー坊『敵城攻撃』『オリンピック』が作られた1930年代、一番対立していたのは中華民国だったこともあり、軍隊の服装や戦闘機、司令官は当時の中華民国の要人を描いたのではないか。具体的に誰かというのは西原さんに教わって初めてわかりましたが、『敵城攻撃』は以前から気になっていましたので、積極的にお見せすることは控えています。しかしながら、こうしたアニメーションフィルムが見つかったことで、戦時下、子どもたちに向けてプロパガンダ目的に販売され、家庭でご覧になっていたことがわかる資料的意味もあることを書き添えておきます。

西原さんと発表後に上映した3作品の監督さんのプロフィール、上映に際して送って下さったメッセージは、こちらで紹介していますので、ご覧いただければ幸いに存じます。

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ボランティアとしてお手伝いいただいている藤岡さん(一番奥でマイクを持ってお話になっている女性)は、三重県津市香良洲歴史資料館を訪問され、その時のことをお話くださいました。実は、3月28日、小林まことさんから完成したDVD『あこがれ』が届いたとき、偶然藤岡さんが居合わせていて、一緒に作品を観ました。彼女は三重県津市の生まれ、親戚が香良洲にあります。小林さんの作品は、その香良洲にあった三重海軍航空隊(予科練)に、青年時代、飛行機乗りに憧れて入隊した人々にインタビューしたものでした。今その施設は津市香良洲歴史資料館となっています。小林さんの映像を見るまで、三重海軍航空隊(予科練)があったことを知らなかったそうです。

他にも、沖縄で遺骨収集のボランティアをされている方や、立命館大学国際平和ミュージアムの学芸員さんもお二人来て下さいました。小林さんは立命館大学在学中、平和ミュージアムで活動もされていたそうです。今春から映像制作の仕事についておられますので、学んだことを糧にして、良い作品を作ってくださることを期待しています。人形劇の活動をしている友人は「戦時下では、人形劇もプロパガンダの作品を作っていた」と教えてくれました。あの手、この手を使って、国民を戦争へと煽っていたのです。

長くなりましたが、ようやく3人から寄せていただいた感想文を紹介させていただきます。

 ◎高月観音の里歴史民俗資料館  学芸員  西原雄大様

 つたない講演で、誠に申し訳ありませんでした。少しでも多くの方々に、近代の災害や戦争のことを知っていただき、私たち日本人はどのような歴史の道を歩んだかを、考えていただきたかったところです。

地方・地域には隠れた歴史(忘れ去られた歴史)が数多くあります。これらに、光をあてるだけでなく、常に世の中の動きにも関心をもたなければなりません。また、新しい歴史へのアプローチ方法を検討すべきだと思いました。

映像記録は、物言わぬ生き証人です。これに(映像記録)問いかけることにより、歴史との対話が生まれるはずです。そして、生まれてくる答えが明るい未来となることを願うものです。暑い最中お集まりいただき、本当に有難うございました。発表の機会を与えて下さった、「おもちゃ映画ミュージアム」のスタッフの皆様に感謝致します。

 ◎高田宣明様(京都市西京区)

貴重な映像の数々と西原さんの解説は興味深く聞けました。後半に紹介された3本の作品も良くできており、若い才能に期待十分な思いがしました。

ミュージアムのあり方、人と人のつながり方の一端をご教示いただき、今後のイベントも参加したいと思っております。

◎入川哲夫様(名古屋市)

貴重な機会を提供していただきありがとうございました。

人の記憶は薄れ、あいまいになっていきますが、記録映像は生き証人として真実をありのままに残してくれます。

戦果を伝えるニュース映像が、全編プロパガンダの、嘘を真実に脚色された有り様は見るに堪えられないものでした。

戦争は最大の人権侵害で、平和な日本を戦争できる国にしようとする動きは許せません。

表現の自由展の中止が禍根を残した一方で、このように学芸員の解説により記録映像から何を感じ、後世に伝えるべきかを学ぶことができたのは、貴重な体験でした。

 

皆様、どうもありがとうございました!!!

 今日は留守録しておいた8月15日放送NHKスペシャル「全貌 ニ・二六事件~最高機密文書で迫る~」を見ました。番組内の映像に度々海軍陸戦隊が出て来ました。2月に西原さんとお会いするまで全く知らなかった名称ですが、「あぁ、あの陸戦隊」とすぐに理解できます。1936(昭和11)年2月、雪がまだ残る東京での緊迫する4日間を文章で記録した機密文書が今年発見されたのを受けての番組でしたが、戦争のプロ集団・陸戦隊は、上海へ侵攻していった時と同じ十文字の襷をかけていました。「知る」ということは「わかる」ということなんですね。この最高機密文書(6冊)がなぜ今まで公にされて来なかったのか?終戦時、海軍軍令部の部長だった富岡定俊海軍少将が、秘かに保管していて、これまで公にされることはなかったそうです。

番組最後のナレーションを書き留めました。「事件の一週間も前に(襲撃目標の岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、鈴木侍従長らの名前や)、犯人の実名までも海軍は把握していたのです。海軍は二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られていました。その後起きてしまった事件を記録した極秘文書。そこに残されていたのは不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿でした」。極秘文書を発見した軍事史研究の田中宏巳・防衛大学校名誉教授は「本当のことを明らかにするのは、もの凄く難しいこと。如何に事実を知ることが難しいか。たまたま何十年かぶりに現れた資料によって、今まで知らなかったことがわかる。こんなことは類まれなことで、わからないまま生きている」。「事実とは何か。私たちは事実を知らないまま再び誤った道へと歩んではいないか。83年の時を超えて甦った最高機密文書は、向き合うべき事実から目を背け、戦争への道を歩んでいった日本の姿を、今私達に伝えています」で結んでいます。

この事件をきっかけに、日本は軍部の力が拡大し、太平洋戦争へと突き進み、上映したような映像も作られたのです。過ちは決して繰り返してはならない、と改めて強く思います。

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