2026.08.23column
8月16日「戦後81年、遠ざかる記憶/近づく足音」を終えて
8月16日、京都は五山の送り火の日でした。お盆に戻ってこられたお精霊さんをお送りする行事。夜のニュースを見ていたら、ミュージアム近くの西陣織会館屋上から、大文字、妙法、船形、左大文字の4つの送り火を見ている人たちの様子を放送していました。「そうか、その手があったか!」と思い、ネットで検索したところ、西陣織会館では、毎年この日に屋上が開放され、五山の送り火特別鑑賞会(18時~20時40分)が行われているそうです。人気の観賞会なので、参加を希望する場合は受付開始時期を早めに確認しておくのが良いみたい。
今頃知りましたが、五山の送り火は、鳥居形(西陣織会館の真西に位置しますが、山のかげになってここからは見えない)以外は、京都御所が正面になるそうで、20時最初に点火される大文字や20時15分に点火される左大文字は、京都御所と西陣織会館がほぼ同じ方向にあるため、正面から見ることができるそうです。とりわけ、左大文字との距離は2.4kmと近いだけに大きい。今年は雨が降らなくて良かったですね。
京都新聞の過去記事によると、戦時下の1943(昭和18)年には送り火が中止され、代わりに早朝に白いシャツを着た地元小学校児童ら市民が山に登って人文字で「大」を描き、英霊にラジオ体操を奉納。翌年も錦林小学校、第二 - 第四錦林小学校児童がやはり人文字を描き、1945年も送り火は行なわれず、終戦の翌年の1946年に再開されたそうです。伝統行事も戦争のとばっちりを受けた事例の一つですね。
戦争で亡くなった人たちを偲び、これから先同じような目に遭う人がでないようにと祈りと願いを込めて8月16日に設定した「戦後81年、遠ざかる記憶/近づく足音」です。

終戦記念日の15日、現首相は平和祈念式典で、歴代首相が述べていたアジア太平洋戦争への「反省」という言葉を口にせず、どなたかが用意していた原稿の「二度と繰り返さない」という文言を自分流に「繰り返させない」と「せ」の字を加えました。それで、「一致させねばまずい」と言うことなのでしょう、首相官邸Xの文言も「繰り返させない」に修正。

朝日新聞は記事で、「中央大の中北浩爾教授(日本政治史)は、『繰り返さない』は、自ら戦争を起こした日本が不戦の決意を述べていると読めるのに対し、『繰り返させない』は、相手国が戦争を引き起こしたように読める可能性があると指摘。第二次世界大戦が『日本が主体的に戦禍を起こした“侵略戦争”ではなく、やむなく戦争に向かった“自衛戦争”だったというニュアンスが出かねない」と話す。中北教授は、首相の『繰り返させない』との発言には、諸外国を『抑え込む』ようなニュアンスも読み取られるおそれがあるとも指摘。『抑止のためとはいえ、防衛力を積極的に高めていくというメッセージになる可能性がある』」との見方を紹介しています。
8月14日に放送されたBS-TBS報道1930は、大変見応えがありました。キャスターの松原耕二さんがXで書いています。
…先日、皇室典範改正をめぐって、歴史家の保阪正康さんのここまでの怒りは初めて見たと書いたけれど、今回(14日)の「報道1930」でもあの戦争に対する、かつて高市総理が語った「反省なんかしない」という発言に対して強く苛立っているのを感じた。保阪さんほど当時者たちに取材して、あの戦争の本質を実証的に見つめてきた人はいないだろう。だからこそ高市さんの発言に対して、先達への思いやりや、名も知らぬ戦地に送られて戦死した青年に思いを致すこともないのだろうかと驚き、苛立ち、そして悲しんでさえいたのだと思う。さらに明治政府は、神武天皇という神話上の人物を前面に立てて天皇中心の国を作ろうとしたが、戦後、神武天皇が即位したとされる2月11日を建国の日に定めたときも、当時の自民党は「神話を史実とするような歴史教育をするつもりはない」と語っていた。しかし先の国会での皇室典範改正をめぐって、与党内から「皇紀2600年以上男系男子が続いてきた」など、これを史実とするような発言が相次ぐ。これについても保阪さんは、戦後、皇国史観を否定してきたのに、なぜこうした発言が軽々しく出てくるのか、時計の針が逆に回っているようだとこれを嘆き、諫めている。それにしても、森総理の「神の国」発言のときはあれほど大騒ぎになったことを考えると、これがまさに時代の「空気」なのかもしれない。福田康夫元総理へのインタビューも番組内で紹介しているが、福田さんはまさに今の自民党が「ひとつの空気に流されているのでは」と憂慮されていた。…
どうも現首相は歴史を謙虚に学ぼうとせず、自分勝手な解釈のもとに戦争ができる国へと前のめりになっているのではないかと危ぶみます。日本だけではなく、海外から勉強に来ている人たちにも「原爆の恐ろしさ」を知って貰いたいと無料で参加を呼び掛けたりもしましたが、夏休みということもあり、さらには私どもの力不足で少人数での開催となりました。けれども平和が大事と思う人ばかりが集まって下さったので、とても充実した良い会になりました。

最初に『がれきのにほんれっとう-ヒロシマ・ナガサキ編』を16㎜映写機で上映しました。初めて館内催しに参加して下さった93歳の家主さんは長崎県佐世保市の生まれで、実際にきのこ雲を見たそうです。その時の記憶が蘇り、食い入るようにスクリーンを御覧になっておられました。参加者のお一人が「一人では見られなかっただろう」と仰いましたが、余りのむごい様子に「全くその通りだ」と皆さんが頷いておられました。もうお一人の方は「この映像を学校で見せるべきだ」と仰いました。小さい子にはトラウマになるかもしれませんが、核を有している国のトップが核を脅しにちらつかせる現在、「どんなに核が恐ろしいものか」を知って貰うことは大切なことだと思います。
当日は、A32枚にこの映画に関連して調べたことを書いて配布しました。内容は、7月29日催し案内で書いた記事と15日付けブログで書いた追加記事をまとめたものです。翌日参加者のお一人から、「いただいた資料を読んでビックリしました。日本の映画人が撮っていた⁈ 10フィートで買い戻す以前に、自分で撮り秘匿していたフィルムを編集して、映画として公開していた?まったく知りませんでした。10フィートのフィルムはアメリカ軍が撮影していて、公文書館に保管されていたもの、と思っていました」と感想を送って下さり、紹介した本も読んでみると書いてありました。興味を持って、さらに勉強して頂ける契機になったことが嬉しいです。アメリカ軍は日本人研究者による原爆投下後の実態調査結果と映画人による記録映像を自国のデータに利用するため持ち帰り長く秘匿していたのです。

16㎜フィルム上映後に、家庭文庫「わたぼうし文庫」を運営する後藤由美子さんによる“ブックトーク”をしました。 “ブックトーク”とは、一冊の本『ヒロシマ 消えたかぞく』(2019年)を中心に、関連するいろんな本を紹介をするということのようです。最初に紹介して下さったのは『絵で読む広島の原爆』(1995年)。日清戦争から広島には大本営が置かれ、広島は一大軍都として発展してきました。絵本は、その広島市播磨屋町で床屋をしていた鈴木六郎さんが家族を撮った写真と指田 和さんの文章でできています。軍都だった広島は男性の比率が高く、散髪屋さんも多かったようです。六郎さんは好きな写真を撮るだけではなく、自分で現像もして、きちんとアルバムに整理し、ところどころにメモ書きを残していました。一家は夫婦と兄弟姉妹4人の6人家族。慎ましくも幸せに暮らしていましたが、8月6日8時15分、投下された原爆で一家全員が亡くなりました。
広島平和記念館には毎年多くの寄贈品があり、2017年の新着資料展で指田さんは、六郎さんが遺したアルバムに出会い、その写真を用いた絵本を書かれました。六郎さんのアルバムは市の中心部から少し離れたところに住む六郎さんのお兄さんの家に預けられていたことで助かったのだそうです。疎開は人だけでなく、大切なモノもだったのですね。この写真絵本は大きな反響を呼び、指田さんは『ヒロシマ消えたかぞくのあしあと』(2022年)を出版され、その本も紹介して下さいました。後藤さんは「夢は兵隊になって死ぬことだ」と書かれた本もあり、それが当然だとされた時代があったことも紹介しながら、時代によって変わる「当たり前」や教育のことについても話は及びました。
後藤さんが京都家庭文庫地域文庫連絡会の連絡網で参加を呼び掛けて下さったおかげで、久しぶりに顔を見せて下さった人が幾人かおられました。その中に正置友子さんのお姿も。来月からドイツの大学院へ留学されるお孫さんと一緒でした。お二人には初めてお会いしましたが、後藤さんから「文庫の草分けのような方で、50代でイギリスに留学され、英文の論文を書いておられます。日本に帰ってからも博論をかいておられ、現在も研究中のすごい方。今は、戦時中の絵本について、どんなに子どもに影響したか、などを研究されています」と教えて貰っていましたので、お会いするのをとても楽しみにしておりました。

それで、後藤さんのブックトークの終わりに「何かお話を」と急なことでしたがマイクを向けましたら、遠慮がちではありましたが、とても興味深いお話をしてくださいました。最初に、後藤さんたち7人の世話人が発行されている『平和のテーブル・京都 通信』を手にとり「送って下さるこの通信を読んで、たくさんの人が頑張っておられる、と勇気が出ます」と話されました。ちなみに『平和のテーブル・京都 通信』は年1000円で、購読することができます。
現在86歳の正置さんのお話から。
……戦争が終わった翌年に小学校へ入学。墨塗り教育の体験もし、学校や大人に対する不信感があったかもしれませんが、幼児期が戦争中で、どういうわけか戦争中の記憶がありません。妹が生まれた頃のことで、新潟に一人で疎開をしました。実家の名古屋も相当な空襲があったことは知識としては知っていますが、戦争の記憶がないというのは、両親は遠ざけていたのだろうと思います。一人になってとても寂しかったのは覚えていて「名古屋から迎えに来て欲しいなぁ」という記憶が凄くあります。
絵本の研究をしていて、長く向かい合っているテーマは「戦争に向かう時の絵本」「戦争中の絵本」です。「どのようにして日本が戦争へ向かっていったのか」を絵本を素材にして調べています。1910年代、1930年代とどんどん日の丸が増えてくるんです。今度国旗損壊罪ができましたが、

最初は日の丸と子どもがこんな感じだったのが、

それが日の丸がどんどんどんどん、いわゆる「仰ぎ見る」ようになって、こんな小さな子に対して国旗が空を覆っています。……
この言葉を聞いて、今度イタリアのポルデノーネ無声映画祭でご覧いただく『おもちゃ映画で見た日中戦争』のことを思いました。昭和天皇が即位したあたりから、どんどん日の丸が出てきます。この日は正置さんにお見せできなかったのですが、おもちゃ映画の中にもいくつか日の丸が描かれているプロパガンダアニメーションがありますので、またお会いする機会にご覧頂き参考にしてもらえたらと思います。
……もう一つは「人形がどのように描かれているか」。1927年に青い目の人形がアメリカから12793体やってきました。日本人排斥運動がアメリカで行われた時に、「日本人は怖い人たちじゃないですよ。人形をとても大切にする優しい人たちですよ」ということで、アメリカと日本の橋渡しをどうしようということになって人形が贈られてきました。今恐らく300~400体ぐらい残っていると思います。京都の小学校にも残っています。日本からは日本人形をアメリカに贈りました。それが戦争が激しくなって「人形は敵のスパイである」ということになって、子どもたちが海に捨てたり、火に燃やしたらいいといって、現実に火あぶりにされた人形もあります。人形に気合を入れて鑓で刺したり、床に置いて踏みつけました。1943年ほとんどの人形は殺されました。それぞれの状況で、私たちはどこまで信じられるのか、どんな行動をするかわからない。その十何年か前は大正文化で自由な時代だったのに、徐々にこのような時代になっていく怖さ。殺せとなったら殺さなきゃならない恐ろしい時代が、再びやってこないようにして欲しいと思います。……
絵本に描かれる国旗への着眼が興味深く、「ぜひ本を書き上げられた暁には当館でお話をして欲しい」と依頼しました。正置さんからその日のうちにメールが届き、
……本日は、得がたい経験をさせていただき、ありがとうございました。会場のおもちゃ映画ミュージアムに、まず感銘を受けました。貴重な映写機やその他のメカ的な機器を丁寧にご紹介いただき、こういう世界があるのだと、びっくりと興味を持って、お聞きしました。フィルム『がれきのにほんれっとう』に非常に驚きました。再構成されていましたが、原爆投下直後の悲惨な状況が生々しく撮影されていて、こういうフィルムがあったのだと本当にびっくりしました。その古いフィルムが、時を経て、まるで波が打ち寄せて、大事な人のところに貴重な貝殻がとどくように、太田さんご夫妻の手元に届いたという奇跡にも、驚きもし、当然でもあると納得もしました。
戦争中の絵本についての話をする機会を与えてくださって、ありがとうございました。多分、来年中には風間書房(主だった本はここから出しています)から出版していただけると思いますが、まずは書き上げる必要があります。出版されて、機会がありましたら、あの不思議な空間に呼んでください。孫娘にとっても、忘れられない貴重な体験になっただろうと思います。今日はありがとうございました。……
頑張って筆を進めて貰い、発表して頂けるときが来るのを今から楽しみにしています💗
続いて、当館に寄贈して頂いた9.5mmフィルムで戦前の長崎市内を撮影した菅 重義さんのホームムービーを御覧に入れました。1945年8月9日に落とされた原爆で浦上天主堂も長崎大学付属病院も崩壊しました。教会に通う子どもたち、病院の屋上でカメラを向けられて恥ずかしそうにしている看護師さんたち、穏やかな日常を捉えた風景が、その前に上映した瓦礫の街と化した長崎の光景と重なって「何とむごいことを」と余計思わせました。「上映順を逆にした方が良かったでしょうか?」と思わず問いかけましたが、皆さん「この順番で良かった」と仰って下さいました。
皆様ご多忙な中、ご参加いただきまして誠にありがとうございました。次の用事のため途中で帰られた方もありましたが、最後に記念写真を一枚📸




