おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2023.05.18column

韓国映像資料院発行『ARCHIVE PRISM』#11で紹介して頂きました‼

前回ブログ最後の方で、Korean Film Archive韓国映像資料院の鄭 樺(チョン・ジョンファ)さんにも触れて書きましたが、おそらく彼の尽力もあって、同資料院が発行している『ARCHIVE PRISM』#11で、当館の活動についても紹介して頂きました。全168ページに及ぶカラー印刷の立派な冊子です。

チョンさんご夫妻は2019年ご家族で来館いただいたこともありますし、その時一緒にご来館いただいた慶熙大学校教授で前韓国映像資料院院長のイ・ヒョイン先生から、これまで復元された映像(DVD)の寄贈も頂いています。また、奥様のキム・スヒョンさんには、京都国際映画祭でご覧頂いた幻燈スライド『春香伝』(大森くみこさんの語りと天宮遥さんの演奏付きで上映)にハングルと英語への翻訳を手伝っていただいたこともあります。

2019年10月28日にソウルで開催されたアジア国際青少年映画祭に招かれた折りに、念願だった韓国映像資料院へも訪問し、当館所蔵『京城だより』の複製35mmフィルムを院長様に直接寄贈させていただきました。そうした場を繋いで下さったのもチョンさんのおかげです。

取材を受けたのは昨年の11月7日でした。その後、専門のカメラマンが来られて丁寧に展示の風景などを撮って下さいました。そのうちの1枚が表紙をめくった2頁全紙の大きさで、当館が所蔵する石版印刷のTOYFILMの数々が載っています。5頁目にはイギリスのBFI National Archiveの68㎜ヴィクトリア朝フィルムと35㎜フィルムの比較写真、6頁目には昨年の春に、ハンガリー国立映画アーカイブで発見された115年前のパテ社のカラー映画フィルムの写真が載っています。

本編に入って、①BFI National Archive  ②Olimpic Foundation for Culture and Heritage  ③Academy Film Archive  ④Cinémathèque suisse  ⑤National Film Institute Hungary-Film Archive  ⑥Cinemateca Brasileira  ⑦Cineteca of the University of Chile  ⑧川喜多記念映画文化財団  ⑨おもちゃ映画ミュージアムが(157~168頁に)順に載っています。さらに、裏表紙の裏面にも当館の外観写真が掲載と、世界中の立派な映画アーカイブ施設の末席に加えて頂き恐縮しつつ、素直に嬉しく思います。

こちらで、今回の冊子の内容をダウンロードできます。https://www.kmdb.or.kr/story/webzine/1115

そして、こちらでこれまでの冊子の内容もご覧頂けます。https://www.koreafilm.or.kr/kofa/publication/magazine

本文がハングルと英語なので、いつも翻訳を手伝って頂いている吉川恵子さんに手伝って貰いました。それを以下に紹介します(掲載されたインタビュー内容をチェックしたところ、一部コミュニケーション齟齬が生じていましたので、その部分を適宜修正しています)。

……………

【おもちゃ映画について歴史と背景を教えて下さい】

これまでの過去30年についてお話ししましょう。1993年に『何が彼女をさうさせたか』(1930年)のフィルム復元に関わるようになったのですが、これはロシアで発見されました。このフィルムを見つけて持ち帰った人は大阪にあった帝国キネマの社長(注:創始者)の親戚(注:孫の山川輝雄)でした。それで、この方に会ったんですが、彼はロシアで見つかったフィルムを日本人に見てもらいたいと提案されたんです(注:実際は太田と水口薫さんが暉雄さんを訪ねて提案し、同じ思いだったことから許諾を得ました)。それが1997年京都映画祭で私が関わった最初の仕事になりました(注:原文では京都国際映画祭と書いていますが、その前身の京都映画祭が正しいです)。

このフィルムを私が復元した後、1997年京都映画祭のオープニングセレモニー(注:オープニングを飾るプレイベント)で披露上映しました。そして、映画祭には企画委員会のメンバーとして参加し、ダメージを受けた名作映画の(発掘と)修復をするようになりました。京都は日本映画発祥の地ですが、昔の映画はほとんど残っていません。時々骨董品店で見つかることもありますけどね。そういったフィルムを探し出し、映画祭で上映するにはどうしたらいいか、話に出ることがあります。実際には、映画祭のような規模のサポートがないと、個人でフィルムを探すというのは難しいです。

そんな折、私はあるフィルムの断片が、ある骨董品店に残っていることをたまたま知りました。それがこのフィルムです(注:157頁掲載写真)。チャンバラと呼ばれているんですが、劇映画から動きのある戦いのシーンだけを短く切り取ったものです。映画館で上映された後に、無声映画から戦いのシーンのフィルムだけをカットして、美しいフィルム缶に入れて売っていたんです。これがおもちゃ映画が始まった経緯です。当時の人達はそのフィルムを買って、映写機で映していたんですが、今のDVDのようなものですね。皆で一緒に見て楽しんでいたんです。一言で言うと、おもちゃ映画は富裕層向けの娯楽でした。実は映画館の入場料はとても安かったんです。今の日本映画の基準から見ても、希少価値の高い無声映画であったため、後世の無声映画ファンが集め始め百貨店のおもちゃ売り場で売られていたことから、ファンの間で「おもちゃ映画」と呼ばれるようになりました。実はこの種の映画の流行はアメリカで先行していました。映写機はとても高かったので、お金持ちしか所有できませんでしたが、教会のバザーなどでチャップリンのフィルムの断片を皆で見ていたりしたんです。

こういったことは1930年代(注:聞き誤りで1920年代が正しい)からの文化です。テレビがまだ無かった頃です。おもちゃ映画は普通、たった30秒から1分(注:聞き誤りで正しくは3分)でした。ほとんどが20~30秒程度でした。フィルムの値段は長さにより違いました。長さはフィートが使われました。サイレント映画は1秒が16コマ、1フィート(注:約1尺。英文は1分16フィートと書いていますが誤りです)。明らかにアメリカで売っているフィルムは長めでした。売る方としては、日本はアメリカよりも経済が悪かったので、人々が購入しやすいようにフィルムを短くして値段を調整しました。フィルムのジャンルは様々で、戦争、歴史、娯楽、記録ものなどがあります。基本的には最もエキサイティングな場面をカットして売っていました。

おもちゃ映画は缶に入れて百貨店の文房具売り場(注:正しくは玩具売り場)で売られてたわけです。戦いの場面は動きが派手で目を惹きますよね。逆に会話のシーンは静かなので採用されず、残らなかったのです。おもちゃ映画として売られたシーンは激しいアクションシーン(注:特に剣劇スターが映っている場面)、アニメーション、ニュース映像など画面上で激しい動きを伴うものがほとんどでした。当時の人々は、映画館で上映されたフィルムを保存する必要があるとは考えていなくて、劇場上映が終われば、ネガも保存しませんでした。必要がなくなったフィルムは玩具会社に売ってしまったんです。それをコレクターやファンが収集し始めたのです。特に無声映画時代の有名な俳優と言えば(注:剣劇スターの阪東妻三郎や)、大河内伝次郎、林長二郎ですが、それぞれが特徴あるキャラクターを持っていました。なので、こういった人気俳優に関するモノなら何でも収集しているファンが今でもいます。

【なぜ、こういうミュージアムを作ろうと思ったのですか?】

1920年から1930年代と1950年から1960年代が日本映画の全盛期ですが、京都には約20近くもの映画スタジオがあったのです。正に映画のメッカでした。しかし、実にたくさんの映画がつくられ、上映されたにもかかわらず、ほとんどのフィルムが残ってないんです。国からも自治体からもこういった映画に関する資料を集めて保存しようとする動きがなかったんです。

私が大阪芸術大学で働いていた時、(注:大学に博物館構想があることを聞いて)おもちゃ映画を収集するプロジェクトを提案しました。次の世代に手渡すためです。2003年に、玩具映画復元プロジェクトを始めました。復元とデジタル化を映画祭で知り合ったコレクター、骨董店、現像所と一緒に行うようになったのです。大阪芸術大学博物館でも展示しました。

このプロジェクトをやっているうちに、情報をシェアするルートがないことや古い映画の調査ができてないことから、どれだけの古い映画が既に捨てられて来たのだろうと気がついたのです。家に両親や祖父母が残したフィルムのコレクションがあったとしても、映写する手段もないし、フィルムを現像するのも難しかったのです。なので、古い映画を次世代に手渡す手段として役に立てばいいなと、私達はここ(注:日本映画発祥の地である京都)にミュージアムを作りました。ミュージアムの内装工事をたくさんの人たち(注:撮影所の技術スタッフなど)に手伝って貰いました。設立から8年、800本以上のおもちゃ映画の復元や上映をして来ました(注:今では小型映画も含め約1500本程度を収集・復元・保存しています。ただ、大学では研究費を得て、35㎜複製原版を作りましたが、退職した今ではデジタル化のみです)。そして、京都国際映画祭、東京国際映画祭だけでなく、ドイツ、イギリス、イタリア(注:このうちイギリスは該当せず、代わりに台湾から)の映画祭から招待を受け、海外の演奏家に映画の伴奏をお願いしました。

こんなフィルムの断片でも歴史の証人になります。誰もが古典的作品の重要性を認識し、遺産として引き継ごうとしていますが、映画に関してはそれがないんです。古くなってあまりにも劣化するともう見られなくなり、1930年代からの極めて重要な文化的ドキュメントが捨てられてしまっているんです。その時代のフィルムを保存する重要性を喚起することが必要だと私は思っています。韓国、日本とアメリカのような所では保存のためのフィルムアーカイブの施設が必要です。映画製作した人々にまつわる遺品なども重要な歴史資料であり、そういった歴史情報を集積できる場所が必要なんです(注:劇映画は国立のアーカイブがありますが、アマチュアが撮影したホームムービーも、時代を記録した貴重な映像です)。

【おもちゃ映画ミュージアムはどのような体制で運営されているのでしょうか?】

私は大阪芸術大学で教授を20年近くしていましたが、正確に言うと、このミュージアムは一般社団法人京都映画芸術文化研究所の付属施設として設立しました。設立した当時はまだ大学に在職していましたので、研究費を使って日本中からおもちゃ映画を収集し、復元・保存することができました。しかし、退職した今は以前のように活発に活動するのは難しいです。

日本では、私設のミュージアムに政府が資金を援助しません。地方自治体もです。京都には30程の大小の様々な私設ミュージアムがあり、協議会もあるのですが(注:今現在の京都市内博物館施設連絡協議会加盟館は211館で、その内当館のような私設博物館加盟館は約160館ありますので、「30程」は本人の認識誤りです)、補助金は微々たるものです(注:各申請が通れば、ですが)。なので、私達の主な収入源は、入場料と放送会社や広告会社(注:広告会社の事例はなく、映画祭や各種上映会などへの)フィルムを貸し出す料金(注他に会員年会費)からなっています。私達はまだおもちゃ映画発掘作業を現在も続けていますが、発掘されたフィルムが長い場合は修復費用が膨大になるので対応できませんそういう場合には、国立映画アーカイブにこれこれしかじかのフィルムが発見されたことを伝え修復を依頼します。

おもちゃ映画はだいたい30秒程度なので、骨董品店から借りることもあります。即金で買うとお金がかかるので、1か月ほど借りるのです。そして現像所に持って行き、複製ネガを作ります。それからそのフィルムからプリントを2本作って、1本は元々の所有者に渡します。最初、「1か月間貸して下さい」と言ったら驚かれる方もいましたが、劣化して観られなくなったフィルムでも鑑賞できるようになったため、最近は逆になっています。フィルムの劣化が激しかったので、最近はこのような複製をビデオ(デジタル化)にするという方法を取っています。また、骨董品店が連絡してきたり、コレクターにも同じような状況が見られます。自宅でフィルムを所有していたり、発見した人達は私達を探し出して連絡してきます。

企業が運営するアーカイブ施設から金銭的な補助を受ける場合、所有物を寄贈する必要があるかもしれませんが、私はそれはしたくありません。このミュージアムを立ち上げた時、10年間続けることが目標でした。今、家族のサポートでやっていますが、収入はかなり少ないです。私の年金をもとにやっています。ですから、フィルムを本当に復元する必要がある場合は、行政や他のミュージアム(注・映像内容に関係あるミュージアム)などに提案して共同でやっていくことになるでしょう。

【おもちゃ映画ミュージアムのコレクションの中で一番古いフィルムは何ですか?】

大正時代初期のフィルムですね。17.5mmの珍しいフィルムです。普通のフィルムは35mmですから、その半分の幅です。私達に連絡してきた骨董品店のコレクションの1つでした(注:これは聞き誤りで、偶然本人が見つけました)。中身は明治天皇、乃木将軍の葬儀と祇園祭、その時代の戦闘機の記録でした。1913年に撮影されたものです(注:4本あったことで比較検討して年代が特定できました)。

【2019年に京城ニュースのクリップをあなたが韓国映像資料院に寄贈された時、私達はそれまで入手できていなかった貴重な初期のフィルムを保存する機会を得ました。他にも日本や他の国のアーカイブに協力したことがありますか?】

基本的に私は映像に関係ある施設や関係者が持っていた方が良いと考えたら、寄贈しますね。京城ニュースの場合がそれです。イギリスの私的博物館と自動車広告会社とコラボレートしたこともあります注:この部分は聞き誤り。イタリア映画『オセロ』(1909年)の場合、出演俳優の子孫が運営する博物館から問い合わせがあり、内容の情報交換をしたことがあります。各国の国立の映画アーカイブと協力した例はあまり多くありません注:フランスのシネマテークに『何が彼女をそうさせたか』と『忠臣蔵』を寄贈しましたし、オーストラリア国立映画・音響アーカイブから『凸坊猛獣狩』のおもちゃ映画の寄贈を受けました。他にも台湾國家電影及視聽文化中心へ、日本統治時代に撮影した台湾少数民族の映像と台中での火災を撮影した映像を寄贈しましたし、日本のコレクターが持っていた『霧社蕃害事件』の映像寄贈を繋いだこともあります)。今、取り組んでいる何本かのホームムービーは日本統治時代にソウルで撮影されたものです。ソウルから中国の奉天へ家族旅行した際撮影したもので、その当時の服装や街の景色がよく見てとれます。韓国映像資料院で必要なら提供します。

【おもちゃ映画ミュージアムの活動を見ていますと、過去のフィルムの収集、復元、保存に本当によく取り組んでられますね。このような私的なフィルムアーカイブとその価値についてどうお考えですか?】

私は映画史が専門でしたから、この問題には気付いていました。無声映画や他の古い映像を記録として保存することに関しては、全くできていなかったという深刻な問題があります。同時にこれは民間部門に属するものであり、今私達がやっているように収集して、復元することは可能だろうと考えたんです。もちろん、それを扱う社会的システムがあればその方が良いですよ。アメリカや他の国では民間の映画アーカイブやミュージアムに対して支援する素晴らしいシステムがありますが、日本はそのような制度的枠組みがありません。

アメリカや他の国でも国が常に主導権を握っているわけではありません。国家レベルでのイニシアチブと運営。彼らは非常によく発達した基金や財団といったシステムを持ち、最初は民間レベルで取り組みました。同様に、日本でも国立ミュージアムがあったわけではありません。個人が収集した物をどう保存するかという問題が生じた際に、行政が動いた例です。しかし、日本では個人レベルでできることは限られています。簡単に言えば、お金がないですからね。2020年に大阪芸術大学を退職してからは、資金に余裕がなく、積極的にフィルムを収集することができずにいます。私は京都市長にこの問題を提起し、日本の行政はこういった文化を守り、永続させる必要があると訴えた(注:2014年夏のこと)のですが、何もしてくれませんでした。

私の場合、映画祭を準備する中で、コレクターや骨董品店のことを知り、そこでおもちゃ映画(注:サイレント映画作品の断片)というジャンルについても知りました。だからこそ、ミュージアムの名前に「おもちゃ映画」という言葉を入れたのです。ミュージアムをオープンする前に日本人は「おもちゃ映画」という言葉に全く馴染みがありませんでした。グーグルなどの検索サイトで「おもちゃ映画」と検索すると、ほとんどは私達が投稿したものです。私達は個人的にやっているからこそ、このような缶入りのフィルムを扱えるのだと思います。大きなミュージアムではこのような物に興味を示してきませんでした。

私達が始める前は、映画業界の専門家、映画祭スタッフ、現像スタジオの従業員もこういったフィルムの断片がどのように処理され、売られていたか、など全く知りませんでした。映画の修復についても、フィルムの劣化についても、現像所の人たちすら知らなかったのです。非常にわずかな人々だけ知っていたに過ぎません。私達はワークショップを始め、こういったことを周知させるため、映画業界のプロを集めてそれを宣伝し始めました。それ以前はこのように情報を集める場所がありませんでした。おそらくそうした場があれば、より多くの映像を保存することが出来たでしょう。フィルム関連の資料を集めるために、こういった公的システムを作ることに遅すぎることはありません。個人が出来ることは本当に限られています。

【資料を収集し保存している資料をどのように管理しているのか興味があります。ダメージを避けるためにどのような努力をされていますか?

ここで展示している物に加えて、今まで収集し、保存して来たすべてのフィルムをデジタル化(注:デジタル化ではなく複製ネガを作成)して来ました。そして、それらを以前働いていた大学の研究室に保管しています。本来は定年退職した際にそれらを持ち帰るはずでしたが、ここにはその場所がありません。なので、後輩の教授達に研究室にそのまま保管させてくれと頼みました。私は現時点での国立映画アーカイブに寄贈するつもりはありません。一番望ましいのは、京都か関西のどこかの機関なのですが。たとえば、文化庁が京都にフィルムの保管場所(注:例えば国立映画アーカイブ分館)を作って、古いフィルムやその関連資料、フィルムだけでなく、カメラなども重要な資料ですから、それらを守ってくれるなら、そこに寄贈したいと思っています。

【2006年からあなたは映画の復元と保存のワークショップをされていますが、そこから見えて来たものは何でしょうか?】

民間規模でやって来ましたから、復元に関して積極的に取り組むことには限界があります。私はこういった事は行政レベルでやるべきだと思っています。ただ、今までのところ、行政は失ってしまって初めてその価値を知る歴史があったので、あまり期待していません。同時に、その価値を認識している人々が行政に要請を続けることは非常に重要だと思います。ある意味、私達がやってきたワークショップはそうした人々を結集させる場になりました。率先して始め、広い意識を高めることは可能だと思います。私たちはワークショップを通して、関心ある人達に前進してもらうという意味で非常に大きな成果が得られたと思っています。そして、彼らが「広報担当者」のように動いてくれています。

調査研究をしている時というのは、とても孤独になりがちです。多くの人々はこれらの古いフィルムの必要性など感じていません。フィルムは劣化してきつい匂いがするし、場所もとりますからね。でも、それを継続していくことが重要です。こういった孤独なフィルムの保護者同志が結びつき、情報を共有できる場が必要だと思います。ワークショップに来る人の多くは、地方の博物館や映像考古学的研究者や個人のコレクターです。彼らは多くの繋がりを共有していて、情報交換し、それが実際の資料収集に結び付くこともあります。また、若い研究者達が古いフィルムについて発表したり研究できたりする場所が益々少なくなっていますが、ミュージアムやワークショップを通じて、どのように行われているのかを知る機会を提供できることに喜びを感じています。

【あなたは古い8mm、9.5mm、16mmフィルムなどを持って来る人達が自分の目でそれを見られるようにするプログラムを実施しています。特に忘れられない思い出とかありますか?】

ミュージアムを開館した時、日経新聞に紹介記事が載りました。九州の読者がその記事を見て、家にあった35本ほどの(注:パテ・ベビー9.5mm)フィルムを寄贈して下さいました。父親の遺品から見つけたものです。『忠臣蔵』など有名な作品からホームビデオまでありました。それらをデジタル化した後、海外アーティストとコラボレーションし、国際映画祭で上映しました。もう1つ記憶に残る例は、原爆が投下される前の長崎の映像をある人(注:この方は雲仙の医師)が持って来られたことですね。フィルムを撮影したお父さんは雲仙で病院を経営しており、旧長崎医科大学(注:現在の長崎大学医学部)を卒業していました。彼が長崎にそのまま住んでいたら、当時を記録したフィルムは残らなかったでしょう。

去年、スキャナーを購入したので、様々なサイズのフィルムを見ることができるようになりました。市販されていたフィルムが重要であることは明らかですが、ホームビデオが流行った時代に「パテ・ベビー」と呼ばれたカメラで撮影された映像も数多く残っています。実は今年はパテ・ベビー誕生100周年です。パテ・ベビーは、家で映画を楽しむだけでなく、自分でも撮影できる環境を作りました。その頃は社会の変動期で、そういった転換期に撮影された映像はかなり貴重なものです。祖父母の遺品からフィルムを見つけ、それを見る方法がなかったという多くの人たちが私たちのところへ相談に来られます。

【ミュージアムの今後の計画について伺いたいのですが?】

おもちゃ映画ミュージアム自体の来館者数はそれほど多くないので、ソーシャルメディアや他の方法で情報を発信していく必要があると思います。この点に関しては、今は妻の方が私より色々頑張っています。10年がひとつの節目として見ています。今、大学の元教え子や卒業生と一緒に取り組んでいるのは(注:この文章は聞き誤り)、日中戦争時代の約50本のフィルムの断片を合わせたアーカイブ作品です。それと、今年はパテ・ベビー誕生100年ということで、京都国際映画祭上映プログラムにパテ・ベビーの作品を加えました(私はサイレント/クラシック映画の担当です)。それに関連して、「パテ・ベビー発掘プロジェクト」を始動しました。自宅で見つけたパテ・ベビーフィルムを寄贈していただき、私どもでそれを修復し、デジタル化したデータを提供する取り組みです。

太田米男

1949年、京都生まれ。京都市立芸術大学卒業。2003年に玩具映画プロジェクトを始め、2006年、「映画の復元と保存に関するワークショップ」を主宰(注:2018年第13回まで)。2015年に一般社団法人京都映画芸術文化研究所を設立し、おもちゃ映画ミュージアムを開館。現在、フィルムの発掘、復元、保存に取り組んでいる。京都国際映画祭のサイレント/クラシックフィルム部門を担当している(注:他に大阪アジアン映画祭実行委員も務めている)。

【注釈】

P158

  1. 『何が彼女をさうさせたか』帝国キネマ製作。このフィルムは家庭崩壊した女性の人生行路の物語であり、社会主義的作品と捉えられています。ロストフィルムとして知られていましたが、1992年にモスクワの国立フィルムアーカイブ「ゴスフィルムフォンド」で発見されました。
  2.  
  3. 帝国キネマは大阪にあった映画会社。1920年に創立、1931年まで続きました。日本が統治していた時代には、Lee Philwooや他の将来の韓国映画製作者たちがここで学びました。
  4.  

P163

  1. 『京城ニュース』を紹介しているページのURLを紹介。https://www.kmdb.or.kr/db/kor/detail/movie/A/09657

P167

  1. この人形劇/歌舞伎作品は、江戸時代の侍による復讐劇に焦点を当てています。「忠臣蔵」は「四十七浪人の事件」として知られています。この出来事は数多くの映画やテレビシリーズとしてつくられ、今でも日本人によく知られています。
  2.  
  1. パテ・ベビーは、1923年に日本でも発売されました。ホーム・ムービーの撮影に使用されました。フランスのパテ社によって開発された技術で、日本では、高島屋の玩具売り場等で販売されました。主にホーム・ムービーの作成に使用されました。

【写真のキャプション】

P161

上 2015年おもちゃ映画ミュージアムのオープニング

下 ミュージアムの館長の太田米男

  妻の太田文代は一緒にミュージアムを運営している

 

P169

左上 シネマテカ ブラジレラ

左下 川喜多記念映画文化財団

右上 チリ大学のシネテカ

右下 おもちゃ映画ミュージアム

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