2026.06.30column
母衣武者と生人形
いつも華麗な演奏で無声映画をより一層引き立てて楽しませて下さるサイレント映画ピアノスト天宮遥さんから、美しい胡蝶蘭の花を贈っていただきました。たっぷり楽しんだ後、持ち帰り来年花が咲くように大切に育てたいと思います。私どもが京博連の総会で奨励賞と京都市長感謝状を頂戴したことを祝って下さいました。活動写真弁士の坂本頼光さんも銘菓を送ってくださり、お二人のお心遣いに感謝で一杯です。SNSでもたくさんの方に「おめでとう」と声をかけて頂き、頑張ってきて良かったなぁと思っています。
さて、この胡蝶蘭の後ろに掛けている軸をご覧ください。6人の武者と1人の母衣武者が描かれています。


これを描いた人が誰かを知りたくて、SNSで情報提供を求め、その都度ネットで検索し、AIにも相談してきましたが、AIもその都度答えが揺れて確証を得られず、22日夕方「大書堂」さんに「喜聞堂」さんを紹介して頂き、早速訪ねました。タイミングよく店主の方がおられて、軸を広げてみて下さいました。その見立ては「幕末から明治の画家で、四条派を学んだ人」。落款の文字は、はっきりとは読めませんでしたが、篇や旁のヒントを得て帰ってきて、またAI相手に三宅檐谿(1863-1925年)や森楳渓(1825-1894年)の名前も登場し、あーだろうか、こーだろうかと幾晩も楽しみました。もしもご覧いただいた方で「誰が」がお分かりの方は、ぜひお知らせ下さい。宜しく御願い致します。
ご店主の見立ては 「 “賤ケ岳の七本鑓”を描いたものではないか」「古い時代の装束を背負っていて、桃山時代ではないか」との助言も。武将の紋をみると脇坂安治、平野長泰がそう見えなくもありませんが、余り緊張感も殺気も感じられず、井戸端会議風な。。。ともあれ母衣武者が描かれているというので、見つけて直ぐGET。せっかく母衣武者の生人形を展示しますし、祇園祭の屏風祭りでは、武者の掛け軸を床の間に飾る習わしと昨年知りましたので、古い軸ですがお披露目します。
その母衣武者ですが、下坂先生は祇園祭の祭礼に「母衣武者は、16世紀末から17世紀の半ばくらいまでは出ていたとおもいます。それが やがて出なくなるのは幕府が規制したからと推定されます。幕府は武具の携帯をきらい、何度か鑓や弓の数を制限しています。京都国立博物館・八 幡山保存会の屏風は17世紀前半から半ばに描かれたものですので まだ母衣武者が描かれているのだと思います。」と教えて下さいました。上掲は京都国立博物館所蔵「祇園祭礼図屏風」の1場面。巨大で華美な母衣を背負った姿が定着・強調されたのは戦国・桃山時代~17世紀初頭から半ばにかけてで、町衆の経済力が向上し、祭礼が見せる要素を強めていった時期と重なります。その後、幕府による贅沢禁止令(倹約令)や祭礼の秩序化が進み、かつてのような巨大で派手な母衣は「華美すぎる」として制限されたり、維持費の増大により姿を消し、弓矢町の弦召(母衣武者の前を行く棒を持つ6人衆)とよばれた人たちもより質実な警護主体の装束に移行していったのでしょう。
弓矢町の文書調査の結果、母衣武者についての記載は残っていなかったそうで、誰が担っていたのかについて下坂先生は「武者行例に参加したのは、坂(弓矢町)が統制していた日岡、九条、桂などの宿の人たちです。 それ以外の人はいません。」とのことでした。「宿」や「坂のもの」については、ここでは割愛し、5日に下坂先生の講演を撮影した映像をご覧ください。
6月22日に来館いただいたイエール大学のアーロン・ジェロー教授と母衣武者の話をしていたら「原田眞人監督の『関ヶ原』(2017年)に出てくる」と教えて貰ったので、早速見ました。確かに合戦のシーンに目立つ色の母衣を背中にして疾駆する武者が登場していました。

そのジャケットの一部です。派手で、結構当時も良いポジションだった勇ましい人々でしょう。関ヶ原の合戦は安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)豊臣秀吉亡きあと、徳川家康総大将の東軍と毛利輝元総大将の西軍が、美濃国不破郡関ケ原を主戦場に繰り広げた合戦。この戦で勝利した徳川家の江戸時代が安定し、武具の携帯を嫌った幕府の意向もあって母衣武者は姿を消し、祇園祭の祭礼にも姿を見せることがなくなったのでしょう。

3日から展示する母衣武者の生人形は、所蔵者さんにお尋ねしたところ「年老いたアメリカの古美術商が言うには、ロサンゼルス万博に飾られ戦前までカウンティ美術館が持っていたのを戦後売りに出されたものと聞いています(まだ確認は取れていません)」とのことでした。
ロサンゼルス万博は開催されていませんが、どこかで「母衣武者」生人形が出品されていないか国会図書館関西館で調べたところ、アメリカではありませんが1910(明治43)年ロンドンで開催された日英博覧会の報告書『日英博覧会事務局事務報告上巻』442頁「第六 源平時代及足利末武装」のコーナーに以下の文言がありました。
…足利末ノ背景ハ三重櫓及渡櫓門等アリ城中ニ馬標幟纏等種種アルヘシ渡櫓ノ内ヨリ多人数出来ル所ヲ畫キ前ノ方ニハ差物シタル四十歳位ノ武者一人母衣掛タル三十歳位ノ武者人形二體…
日本という国が歴史ある国だということを示すために、等身大の人形を用いて、第2区上古から始まって第12区現代までを歴史パノラマ展示していたようです。

その足利時代の展示写真が上掲で、手前から「差物シタル四十歳位ノ武者一人母衣掛タル三十歳位ノ武者人形」なのでしょうが、今度展示する生人形とは違いますね。とはいえ、時代を表現する素材の一つに母衣武者が意識されていたことは確認できました。
生人形に詳しい福岡教育大学教授本田代志子先生よれば、1893年シカゴ万博(コロンビア博覧会)での武士像はスミソニアンに収蔵され展示されていましたが、現物はなく。残っている写真で確認して下さいましたが、甲冑などが違うそうです。1904年セントルイス万博で展示された安本亀八制作の生人形は東京国立博物館に寄贈され、1915年カルフォルニア州のサンフランシスコ万博(パナマ・太平洋万国博覧会)については、本田先生が以前調査されたことがあり、該当がなさそうだとのこと。本田先生には、20日までの期間中にぜひ見に来ていただきたいです。
AIによると売却した古美術屋さんが名前を挙げたカウンティ美術館は、1913年に設立されたロサンゼルス・カウンティ歴史・科学・芸術美術館だと思われ、通称ラクマと呼ばれているロサンゼルス・カウンティ美術館のことをさすのでしょう。19世紀末~20世紀初頭、アメリカの美術館は「珍しい異国の文化(民俗資料)として日本のリアルな生人形を好んでコレクションしました。しかし、戦後(1950~60年代以降)、アメリカの美術館で「展示方針の近代化(ファイン・アートの重視)」が進み、こういった民俗資料的な人形や万博の残留品が「保管場所がない」「美術館のコレクション方針に合わなくなった」という理由で、オークションなどで大量に民売された歴史があるそうです。ひょっとしたら、売りに出された生人形をアメリカの古美術商が買い取り、それが4年前に馬場さんによって購入され里帰りしたという歴史なのでしょうか。1体の等身大武者人形が辿った数奇な運命を感じますね。
上掲の写真のようにたくさんの人形を展示して日本の歴史を示す目的のために、大量生産されたもので、有名な松本喜三郎(1825-1891年)や安本亀八(初代1826 -1900 年、二代1857-1899年、三代1868 - 1946 年)のような職人の手で拵えられたものではないでしょう。けれども、決して安物ではなく、「一流の職人たちが型を使って顔を量産し、衣装や甲冑を美しく着せ付けた高級な工芸品」であることは間違いありません。
本田先生が送って下さった論文によれば、私が大阪中之島美術館で初めて見てすっかり心を掴まれた安本亀八が制作した「当麻蹴速と野見宿祢」の生人形は、現在は熊本市現代美術所蔵ですが、1892年9月1日にアメリカの企業家フレデリック・スターンズが日本で200円で購入して現在のデトロイト美術研究所に寄贈したものだそうです。翌年1月から公開され、1920年頃まで人気の展示品だったそうです。

1860年~80年代は見世物における生人形興行は最盛期で、横浜の外国人向け美術骨董品店で流通も拡大していたそうですから、人気にあやかって生人形を作っていた人もあったでしょう。
松本喜三郎は1854年、大阪の難波新地で「活人形」と銘打って登場して人気を集めていました。花沼政吉という人物もいて、1870年代後半から浅草の人形店“武蔵屋”の工人として活動し、彼の甲冑の武士がアメリカにわたっているそうです。「沢山のパーツを作り、組み合わせたものである。薄く丈夫な和紙で全体を覆い、塗料で仕上げている」と紹介されています。横浜の美術商ディーキン兄弟商会は、1871年開業し、外国人向け日本美術工芸品販売を主として、職人300人と提携。その中に花沼政吉もいたそうです。同商会の紹介文には「花沼政吉は現在の日本の職人のなかで第一人者である」とあるそうなので、ひょっとしたら母衣武者生人形は彼の手によるのかぁと想像の翼を広げています。花沼の活躍は1880年代-90年代と他の人に比べて遅い時期の活躍なのだそうです。他に1838年東京の木彫り人形師の鼠屋に生まれた鼠屋伝吉という人もいて、彼の作品は1873年ウィーン万博に出品しているそうです。
改めて本田先生の論考から引用すると、「生人形とは、1850年代後半から1880年代(90年代の記述も)の見世物興行の細工物で、等身大の木彫に胡粉や顔料で彩色し、衣装を身に着けた人形20~80体の登場人物からなる物語の場面を、口上と共に楽しむもので、人形と見世物興行を指す言葉である。広義では、1890年頃から1930年代頃までに同様の手法で制作され、博覧会やデパートで用いられていた等身大のマネキンを含む語である。多くは着物の展示や風俗の紹介で用いられ、風俗人形、時代参考人形、模型、標本人形、衣装人形とも呼ばれた。」(「安本喜八の風俗人形-欧米博物館への作品寄贈と財界人」より)。1899年に三代目を継いだ安本和一(1868-1846年)は、着物で隠れる部分は簡易な組み立て式で効率化を図っていて、柔らかな曲線を表すために綿で丸みをつけて和紙を貼り付けていたそうです。こうなったら、7月3日朝、母衣武者生人形を馬場さんが飾り付けられるのを興味津々で観察しなきゃ。楽しみ💗

これは今朝の京都新聞「まちかど」。7月3~20日までの開館日に特別展示をしますので、この機会にぜひ見にいらして下さい。迫力がありますよ‼なお、7月5日は

この催し「祇園祭と武者行列、そして幻燈『祇園祭上演(デジタル版)」をしますので、通常見学は正午までとさせていただきます。悪しからずご了承くださいませ。


