おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2026.06.28column

「国民的歴史学運動」から

7月3日からお借りして展示する母衣武者生人形について、いったいどのような海外の博物館に出展された生人形か調べようと、6月1日国立国会図書館関西館へ調べに行きました。結果として、残念ながら確かなことはわからずじまいに終わりました。ロンドン日英博覧会(1910年)で「母衣 串共 一組」と書かれていた資料を見つけましたが、どうもお借りする母衣武者生人形と違うような。ついでに以前から気になっていた月の輪古墳について調べてきました。今日はそのことについて書いてみます。

今年2月11日京都大学で開催された「近代天皇制を考える学術集会 戦後史としての月の輪古墳」が興味深かったので、その記録映画シナリオ『月の輪古墳』3巻(1954年公開)について載っている『歴史評論』(1954年1月発行、第51号、民主主義科学者協会編集)をお借りして読みました。

このシンポジウムについては、帰ってきてすぐに自分のブログで感想を書きました。そして、そこで書いた予想通り、京都新聞3月12日付け文化面で内容が掲載されました。

ブログで書いたことをfacebookで投稿したら、2月12日日本アニメーション史研究家の小松沢甫様より次のような書き込みを頂戴しました。
……小学生の頃、学校のナトコ映写会で見た記憶があります。近年、ドキュメンタリー映画会で再見しましたが、線画シーンは村田安司氏でしたね。ただし映像は単純な解説図だけ。アニメーションにはしていませんが古墳の構造、遺体安置位置など実写にOL して観客の理解を助けています。彼はこのような解説線画の名手ですね。線画(アニメ)が上手く挿入活用されており、舌を巻いたものです。……

そして、「村田安司さんは戦後は線画を活用した『原子爆弾の記録』『インパール作戦』(1950年)が映画史に残る功績だと思います。」とも教えて下さいました。

当館では、いつも来館のお客様に戦前のアニメーションをご覧いただいていますが、その中の1作品が村田安司さんの『蛸の骨』で、切り紙の名手らしく巧みなアニメーションです。田川水泡さんから“のらくろ”のアニメーションを許可されている作家さんが、こうした作品も手掛けていることに興味を持ちました。

それで、『月の輪古墳』のシナリオが載っている冊子を繰りながら、村田さんの名前が載っているか確かめようと思ったのです。

その冒頭は、以下の通り。

…このシナリオは「月ノ輪古墳発掘運動」の記録です。ここに語られている内容は八月から始った月の輪古墳発掘を中心として「正しい歴史」「新しい郷土の歴史」をつくり上げていった岡山県勝田郡飯岡村の人々の運動を、その運動に参加した「記録映画製作協議会」の人達の手によって書かれたものです。始め四五十人の同好の人達がやり始めたこの運動が次第に発展し村全体の運動になり県教組、部落解放委員会の参加によって、全県的な規模に迄発展したこの歴史運動を充分に表現させるために、発掘運動に参加した人達の意見によって何回も書き変え訂正され、現在でも検討を続けて居ります。この映画は来年一月中旬に完成の予定ですから、このシナリオを読まれましたらその感想、御意見御批評を歴評編集部迄お寄せ下さいますようおねがい致します。

(製作意図)

これは、古墳発掘による郷土歴史の探求が、村をあげての大衆的運動の中で行われ、波紋は周辺一帯にひろがって、参加人員は一万人に及び、その成果として考古学的にも、古代史の断層が埋められて行った事実を、記録したものです。

かつてのゆがめられた歴史教育が再び復活されようとしている時、正しい民族の歴史教育が郷土の歴史を、自らの手でうちたてようとする動きは、民衆の手で固く守らねばならないし、いよいよ発展させなければなりません。私たちはこの意味で、映画における歴史教育の立ちおくれを克服するために、この映画を世におくりたいと思います。しかもこの映画は、古墳発掘を中心とした、大衆的な歴史的な運動の中で、村の人々から湧き出た映画製作運動の成果でもあり、その製作活動がまた発掘運動を発展させたことを、特記して置きたいと思います。

タイトル、企画製作、協力団体、撮影、後援、推薦

シーン1  盆地を 朝霧が、おおっている

シーン71  古墳の道を生徒たちが上ってゆく

<かつて細かった古墳への道は、ここを過ぎた何千何万の人の足で、踏み固められ、ひろげられています>

最後に中学1年男子生徒の詩で終わっています。

残念ながらこのシナリオには、「古墳の形と、位置の変遷」「頭頂部の平面図」「墳頂の復元想像図」「電気探査の曲線図表」など6枚の線画が文字として載っていますが、それを描いたのが誰かは書いてありませんでした。結局これも確認できないままに。けれども、この「月の輪古墳」特集の前に、民科奈良支部「合唱劇 土の歌」が載っているのに気が付きました。

「国民的歴史学運動」という言葉は、2月11日のシンポジウムで何度も聞いていましたが、お隣の奈良県では“合唱劇”というスタイルで活動が展開されていたと知りました。このシナリオの最後には、『手まり唄』と『百姓の唄』の楽譜付き歌詞が載っています。月の輪古墳では、村人の理解を広げるために幻燈を用いて説明しています。考古学者たちは午前中は生徒たちに1時間の講座、昼休みにも1時間の講座と学生の会、作業後にも振り返りの時間を設けて夏休みを有意義に活用して自分たちの歴史を自分たちで知るかけがえのない時間を過ごしました。それは地域の大人たちの心も動かし、大衆的カンパによって支えられ大きな広がりとなっていきました。

ここまで、読んできて「ひょっとしたら」と思って検索したら、私が一時お世話になった「城南郷土史研究会」も発足は1953(昭和28)年でした。まさに国民的歴史学運動の賜物だったのですね。応仁の乱(1467-1477年)後の混乱期、南山城地方の人々が、自分たちの力と知恵で自治を勝ち取った「山城国一揆」の歴史を研究しようと始まったようです。

7月5日に上演する幻燈『祇園祭』(1952年)も歴史学者林屋辰三郎さんの教えを受けた京都大学と立命館大学の学生たちが、応仁の乱で途絶えてしまった祇園祭を、妨害する権力者たちに屈せず町衆が、自分たちの祭を復活させようとするお話。

まだ自分が生まれる前の話で実感としてよくわかっていませんでしたが、お借りしたこの『歴史評論』51号の最後のページにあった「民科のしおり」を読んで、何となくぼんやりした私にもわかってきました。「民主主義科学者協議会」は終戦直後、戦争で苦しめられた広汎な科学者が東京に集って結成された団体です。日本の科学を繫栄させるために、平和と自由をかちとること、国民の科学に対する要求にこたえ、国民とともに学びたいということ、それから科学者と科学愛好者の研究を阻害する封建的な風習や勢力とたたかうことを目標に掲げ活動し、1948年には全国の都道府県のほとんどに支部が作られたということです。1951年9月の対日単独講和条約で、日本のアメリカへの隷属という事実が明らかになったことも活動の大きな背景にありました。

現首相は米国大統領にくねくねしなだれかかり、いうべきことも言わず見苦しいまでの内弁慶、国民の困難を顧みることなく米国追従まっしぐらです。この当時の民科の人々が今のありさまを見たらどう嘆くことでしょう。6月9日、1952年当時、紙芝居『祇園祭』を演じた一人にお話を伺ったのですが、新制京都大学4回生だったこの方も所属した日本史は時代の先進と考えられていたそうです。若者たちが、進歩的だった林屋先生の講義を聴いて心を高ぶらせ、みんなで京都の民衆が一つとなって「祇園会じゃのうて自分たちの祇園祭をしよう」と立ち上がるお話を作って、地域の小学校や公民館などに出かけて行っては語って聞かせ、幻燈でも見せることで、民族の誇りを思い起こさせ、勇気をもって前に進もうと鼓舞する様子が目に見えるようです。

さて、小松沢さんとの映画『月の輪古墳』についてのメールのやり取りは、その後も続きました。

Q:どこの小学校でご覧になりましたか?それはいつのことでしたか?

A:私が小学校5~6年生の頃、つまり1956~57年頃、茨城県土浦市の荒川沖小学校で授業の一環として見ました。映写機はNatco つまりUSAから支給(貸与かな?)された16mm機。当時先生から「ナトコを見せるぞ」と言われ、教室2つをぶち抜いた大教室に暗幕を張り映写。あの頃は貧しい時代で、今のような視聴覚室なんてありません。映写機も学童用机を三つ四つ重ねた即席の台上に乗ってましたね。プリントはおそらく茨城県の視聴覚ライブラリーからの貸与でしょう。

月の輪古墳については事前に国語の授業で発掘過程を教えられた記憶があります。山本有三編集の国語教科書に、地元住民が協同で汗を流し作業したルポが載ってました。

さらに後年、田中純一郎先生の『日本教育映画発達史』が発表され、当時(1954年)の文部大臣が「古墳の発掘は日本歴史を冒涜する」と非難し、この映画の文部省選定を拒否したと書かれており、驚きました。当時各方面で論議を巻き起こしたようです。ただこの記録映画はその年第1回教育映画祭賞を受賞、またキネマ旬報短編ベスト2位。大臣の横ヤリが却って映画の令名を高めた、これって後の市川崑監督『東京オリンピック』ドタバタの先例でしょう。ともあれ、映画は社会から高く評価されたので、茨城県でもプリントを購入したと推測。

またまた後年、東京・京橋の近代美術館別館フィルム センター(今の国立映画アーカイブ)での文化映画回顧上映会で上映され、私は懐かしく再見しました。

 

これほど鮮明な記憶ではありませんが、京都生まれの連れ合いも、子どもの時、どこかの上映会で見た気がすると申しています。こうした思い出がある方は、またお手すきの折にお教えください。

今日は月の輪古墳の振り返りを書いていて、2月11日に配布された資料を改めて見ました。高木博志京都大学名誉教授のレジュメに紙芝居『祇園祭』についても触れていて、紹介されている資料を読まないといけないなぁと思っています。7月5日には間に合いそうもありませんけど、足の怪我が治ったら、また資料調査に出かけようと思います。

【村田安司さんについて小松沢さんから後日追加】

ブログのタイトルから少しずれますが、映画『月の輪古墳』で線画を担当された村田安司さんについて、7月6日小松沢さんからメールが届きましたので、紹介します。

……村田安司さんは切り抜きアニメーション技法を終生墨守していたようです。その置き換え、コマ撮りの手際のよさは名人芸だったと瀬尾光世氏が回想しています。本人自身、この技法には表現手段として限界があると戦時中既に自覚していたようです。でも時代は物不足、足らぬ足らぬは工夫が足らぬ、の戦時スローガンが強制されていました。当時のセルはニトロセルロース製。爆弾の原料なので新規配給は認められなかった。マルチプレーンや透過光撮影などの技術革新も電力不足でできなかった。

そして戦後は、いつのまにか一昔前のセンスの作家と評価されてしまったようです。しかしドキュメンタリーでの彼の線画表現力は他の追随を許さないものがあり、ナレーションや実写俯瞰撮影ではわかり辛い状況、情景を的確に絵解きして感服します。子どもにとっては地味で退屈な映像でも古墳築造時の外観、遺体の埋葬位置など、線画によってよく理解できました。どうも業界で「あいつにやらせたら安心だ」と信頼感を得ていたようです。

彼の1秒16コマ撮りアニメ作品は、たしかに活弁入りのノスタルジックで見た方がふさわしいと思います。ただのサイレントで見たのでは「昔はこの程度だったのか😒」と、若い人はせせら笑ってしまうでしょう。説明付きで上映することを前提に作られた作品、やはり同じ条件で見たいものです。貴館の活躍に期待する次第です。

先日100年も前の1926年制作のアニメ「後藤新平 政治の倫理化」を見る機会がありました。関東大震災後に東京市長として復興努力した人、選挙運動映画です。今から見れば技術は拙い。でもそんな試みがあり、工夫改良して現在のアニメーション表現があるのです。その歩みを知らないまま、過去の作品を見ないまま価値判断してる例が多い。これって危険です。先ず事実を見ましょう。アニメなら作品を見て具体的に発言しましょう。歴史は大切なんです。……

昔のアニメーションを見る態度について苦言を呈しておられます。全く仰る通りだなぁと思います。

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