2017.02.20column
目玉の松ちゃん‼尾上松之助を偲ぶ会
今朝、尾上松之助遺品保存会代表の松野吉孝さんから、3月4日(土)16時から開催される「目玉の松ちゃん‼ 尾上松之助を偲ぶ会」の案内が届きました。一般の方も無料で参加できます。場所は本門法華宗松樹山成願寺(じょうがんじ)境内にある研修道場(京都市右京区花園艮北町5番地、妙心寺道通・馬代通西入ル。アクセスは▼JR花園駅から妙心寺道を東へ徒歩約8分▼西大路通り・市バス「北野中学前」から妙心寺道を西へ徒歩約8分)。
当日の主な内容は
①重要文化財「史劇・楠公訣別・桜井の別れ」のDVD上映…1921(大正10)年12月8日に、摂政宮(後の昭和天皇)がご覧になった時の映像。併せて「記念レコード」に吹き込まれた松之助の肉声もお聞きになれます。
②「尾上松之助葬儀実況」のDVD上映…1926(大正15)年9月16日に営まれた葬儀の記録映像。堀川丸太町の自宅から日活大将軍撮影所までの沿道には、約20万人もの人々が見送りに集まりました。映像には、若き日の阪東妻三郎、往年の美人女優酒井米子さんらの姿も映っています。この記録映像に映る「日蓮法華」の旗などが、成願寺さんで長年お祀りされていることがわかり、今回の偲ぶ会開催に至りました。
③遺品や資料などの展示。
問い合わせなどは、同保存会代表の松野さんへお願いいたします。携帯電話090-5326-3123
さて、昨年3月6日に、京都府立鴨川公園(京都市左京区下鴨宮河町。京阪出町柳駅から西へ約200m)にある尾上松之助像建立50年の式典が営まれました。尾上松之助像の制作者は矢野判三さんだそうです。
これはその時の1枚で、松野さんからお借りしました。映画監督の中島貞夫先生が、代表してお焼香されているところです。この銅像の碑文には、以下の文言が刻まれています。
尾上松之助(本名中村鶴三)氏は、目玉の松ちゃんの愛称で親しまれた時代劇俳優の先覚者であった。この像は氏が社会の福祉につくされた数々の功績をたたえるとともに、その精神である平和な社会を念頭して建造したものである。 昭和41(1966)年2月 京都府知事 蜷川虎三
2月17日、松野さんと一緒に随分昔に放送された尾上松之助に関するテレビ番組を見ていましたら、番組内で一篇の詩が朗読されていました。何て綴られていたのかと興味を持ったので、早速図書館へ行って調べてみました。詩の作者は、下鴨に住んでいた詩人・天野忠(あまのただし)。『続天野忠詩集』(1996年、編集工房ノア)所収「その他大勢の通行人」の中の1篇「尾上松之助像前」という作品でした。長~い作品ですが、以下に紹介します。
尾上松之助像前
この小さな人気のない公園の隅に
ポツンと置かれてあるのは
一つの銅像である。
これは尾上松之助の胸像である。
彼は昔
目玉の松ちゃんと謳われた
大活動写真の大立者
並びなき人気一番の男だった。
ギョロリと目玉大きく
短軀ながら膂力衆にすぐれ
動作は猿よりもなお敏捷
いつでも若武者
いつでも命の綱を危く渡り
いつでも危急から立ち上り
善の味方して
いつでも娘から惚れられた。
あるときは忍びの術を用い
悪の城中深く潜入し
幽閉されたお人好しの殿様や
可憐無垢のお姫様を救い出し
あるときは諸国武者修行の旅に出て
悪代官の苛政に悩む庶民を蘇らせ
あるときは手練の二刀流捌き
狐狸妖怪に敢然として立ち向い
人身御供の娘と貧苦の底で途方に暮れる
多くの善良な老幼婦女子を救った。
目玉の松ちゃんはスクリーンの真ん中で
ギョロリと大目玉をむき
エイッヤッと大見得をきり
極悪人ばらと丁々発止と渡り合い
用捨なくバラリンズンと切っておとし
鬼畜の如き奴儕をさんざんに懲らしめた。
かくて悪は滅び
かくて善は栄え
華やかに大団円の幕は降り
その幕に向かって拍手喝采鳴りやまず
楽隊は螢の光を奏で
(おせんキャラメルの袋は散らばり)
十二分に快く堪能した私達は
活動小屋から元気良く下駄を鳴らせて帰った。
目玉の松ちゃんは愛せられた。
染物屋の倅幸平も仕出屋の丁稚良雄も
洗濯屋の太吉郎も外科医の書生修君も
漬物屋のお光ちゃんも
馬力屋の鼻たらし重吉も
町内で一人だけ幻灯写真を持っていた
鳥眼の栄養不良の私も
子供もおっさんもじじばばも
誰も彼もみな 正義の人目玉の松ちゃんを愛した。
愛しながら時は過ぎた。
いつのまにか活動写真が映画になり
幸平も良雄も鼻たらしも大人になり
トーキーになり
カラーになり
いつのまにか尾上松之助は死んでいた。
目玉の松ちゃんは
あの凛々しい若武者は消えてしまった。
あとかたもなくなってしまった……
善玉も悪玉もみさかいなく入り乱れて
世間は深くすさまじく複雑怪奇になった。
時が時を追いかけ
人が人を追いかけた。
漬物屋のお光ちゃんは戦争未亡人となり
今はパートで赤旗等を配っているし
馬力屋の鼻たらしは
ダンプの会社の重役で隠居した。
外科医になった修君は肝臓癌で死んだし
大吉郎良雄は戦後行方知れず(たぶん戦災死)
私といえば仕方なしに
このさびしい小さな公園を
昼日中からぶらついている老年失業者だし
……
小さな公園のひっそりとした隅に
ポツンと立っている目玉の松ちゃんの銅像に
秋の夕のうすら陽があたっている。
ほんのちょっぴりしずかにあたっている。
心細い羽をそよがせて
小さな虫がひょいひょいととんでいく。
その前の壊れたベンチに
もんぺをはいた日雇いの婆さんが二人
足を投げ出して休んでいる。
物の値上がりやら
大企業の買い占めやらについて
その一人がひどく腹を立てて
つばを吐き散らすそうにしゃべりまくっている。
もう一人は物憂そうに
あくびばかりしている
そのたびにキラリと奥の金歯がひかる……。
詩人で、下鴨に住んでいたとなれば、連想するのはお世話になった脚本家の依田義賢先生。調べてみたら天野忠と依田先生は、詩作を通じて交流があることがわかりました。天野は1909年6月18日~1993年10月28日、84歳で亡くなっています。京都市立第一商業高校卒。一方の依田先生は1909年4月14日~1991年11月14日、82歳で亡くなっています。京都市立第二商業学校卒。二人は同じ年生まれで、同じような学校で学ばれたんですね。依田先生も溝口健二監督らの脚本を書きながら、詩集『冬晴』⁽1941年、ウスヰ書房)や『ろーま』(1956年、骨発行所)などの詩集を出しておられます。
『続天野忠詩集』に収められた本人執筆の「1974年からの略歴」を読みますと、『天野忠詩集』(1974年、東京永井出版企画)で、第二回無限賞受賞。『その他大勢の通行人』(1976年4月、永井出版企画)刊行とありますから、詩「尾上松之助像前」が作られたのは胸像建立から10年後のこととなります。後には『私有地』(1981年、編集工房ノア)で三十三回読売文学賞を受賞されるなど、優れた詩作を多く残しておられる方です。
一篇の詩から、日本映画最初期に目玉の松ちゃんが大衆に支持されていた様子がよく伝わってきます。来たる3月4日は、ご来場いただいたみなさまと一緒に彼の遺徳を偲びたいと思います。