おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2016.01.15column

市川崑監督とアニメ

昨年11月14日に「WOWWOWノンフィクションW」で放送された番組名「ノンフィクションW 市川崑 アニメからの出発~巨匠の原点~」では、監督が子供のころ観ていた活動写真機をイメージで紹介したいという依頼を受け、1920~30年代のアニメーション映像と同時代のおもちゃ映写機を提供しました。

前回ブログで日活京都撮影所漫画部で活躍した酒井七馬さんのことを書きましたが、酒井さんの10年後に生まれた市川崑監督も、昨年は生誕100年の節目の年でした。あいにく番組そのものは見ていないのですが、担当者からのメールや同放送局HPの番組内容を拝見すると、「観たかったなぁ!」と思う内容。

相次ぐ、アニメーションに関する映像提供から、にわか勉強してみました。同番組は、2014年4月にアメリカで発見された1本の日本映画を端緒に作られたように思われます。その映画は、市川崑さんが関わった中で最も古い作品で、しかもアニメーションということから世間の注目を集めました。作品名は、1935年に作画を担当された『弱虫珍選組』で、約5分間のトーキー漫画映画でした。作画は中野孝夫さん、八住紫郎さん、宮崎和夫さんと市川さんの手により、「花より團子」シリーズの3作品目。幻のアニメ発見ということで、昨年の東京国際映画祭でも上映されました。

1933(昭和8)年、18歳の市川崑さん(本名儀一)は、知人のつてを頼って、この年5月に京都の太秦に開設されたばかりのJ・Oスタジオ・トーキー漫画部に入社されます。子供のころから絵に興味をもち画塾にも通っていたそうですから上手だったのでしょう。今回発見された作品は、入社から2年目の作品になります。酒井七馬さんが入社した日活京都撮影所漫画部は1934年に開設され、1930(昭和5)年~1941(昭和16)年までアニメーション制作をしていた政岡憲三さんのスタジオと、この時点では京都市内3個所でトーキー漫画が制作されていて、東京に次ぐアニメーションの拠点となっていました。

しかし、切絵アニメーションは手間がかかり、実写に比べて経費かさむことから、徐々に縮小されます。中心メンバーが次々異動し、1936(昭和11)年にJ・Oスタジオ・トーキー漫画部最後の代表になったのが、当時21歳の市川さんでした。この年に作られた『新説カチカチ山』は脚本、作画、監督、撮影、編集の全てをほとんど一人でこなし、その時の経験がその後の劇映画制作に活かされたと証言されているそうです。「花より團子之助」シリーズの1篇(劇場未公開作品)。結局、同年にトーキー漫画部は閉鎖されて、市川さんは助監督部に移り、2008年に92歳で亡くなるまで、数々の名作を世に送り出されました。

J・Oスタジオは現在の東宝の前身で、そこに若き日の市川崑さんがアニメーション制作者として関わっておられたことを興味深く思いました。これから市川崑監督の作品を見るときに、どういう場面にアニメーション制作の経験が影響しているのか見てみるのも面白いかもしれません。

昨年12月中頃に崑プロから1通のハガキが届きました。2013年8月に開催した「第8回映画の復元と保存に関するワークショップ」に於いて、市川崑監督『東京オリンピック』(1965年)復元を手がけたハリウッドの3人に講演していただきました。その時に、市川監督のご子息も参加してくださいました。ハガキはその縁によります。受け取ったハガキは、11月20日に、東京都渋谷区南平大町に「市川崑記念室」☎03-3461-5541がオープンしたとの案内でした。撮影台本、自筆原稿、画コンテ、スナップ、こだわりの愛用の品々などが夫人和田夏十さんの資料とともに展示されているそうです。機会があれば、ぜひ訪れてみたいと思っています。

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