おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.11.28column

野田明さんが描いた多数のマレー抑留スケッチ画

いよいよ12月2日のトークイベントが近付いてきました。ありがたいことに新聞社の方が2社取材に来てくださいます。「南方抑留」をテーマにした今回の取り組みで、「シベリア抑留だけじゃないよ」と知って頂けたら嬉しいです。当日の司会進行をして下さる同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センターの小黒 純教授が大きな部屋を予約して下さいましたので、まだまだお席に余裕がございます。ぜひお誘いあわせてご参加くださいませ。ご来場を心よりお待ちしております‼

10月9日の朝日新聞で小説家の大佛次郎(1897-1973)が第二次世界大戦中に国策でできた同盟通信社の嘱託で東南アジアを訪問した折の日記「南方ノート」が横浜市の大佛次郎記念館で初公開されたことを報じていました。1943年11月からの3か月間にわたって6冊のノートに記されていたそうです。

同じ東南アジアでも、今回の私どもの展示では1945年8月戦争終結後、イギリス軍主体の東南アジア連合軍総司令部(SEAC)に降伏し、JSPと呼ばれて現地で強制労働をさせられていた様子を描いた作品を公開するというもの。そして、展覧会をするにあたって読んだ山下清海著『日本人が知らない戦争の話-アジアが語る戦場の記憶』(2023年、ちくま新書)で、遅まきながら、耳慣れた“太平洋戦争”という言葉が、今は“アジア・太平洋戦争”と呼ぶことを知りました。先の戦争で、日本はアジア各地を戦場にして随分なことをしてきました。余り学校では教わりませんが、日本人が強制労働させられたことだけを取り上げるのではなく、アジアの人々に対して日本軍が行った加害についても学ぶことが大切だと思います。

なお、聞きなれない“JSP”という言葉ですが、“Japanese Surrendered Personnel”の略で、アジア・太平洋戦争が終結した時、東南アジア地域でイギリス軍やオランダ軍に降伏した旧日本兵を指します。戦争中に捕らえられた捕虜ではないため、捕虜の待遇を定めた1929年締結ジュネーブ条約の適用外として、国際法に基づく権利がない状態に置かれました。同条約やポツダム宣言が認めていた終戦後の速やかな帰国が許されず、約10万人(13万人の説もあり、数字は確定していません)が約2年間、ビルマ、ジャワ、マレーなどに強制抑留されました。

さて、9月に野田明さんのスケッチ画が届き、実際に目にして以来、素人なりにずっと気になっていたことがあります。それは昨年開催したシベリア抑留展に比べて、悲惨さがグサッと響かないということ。稲作のために荒れ地を耕したり、広大な面積の草刈り、密林での伐採や焼却など空腹な状態での重労働は堪えたに違いなく、届いた絵にも描かれてはいるのですが、シベリア抑留では見ることが出来なかったマレーの子どもたちや物々交換に行った先の現地住民のとのふれあい、あるいは芸達者な人々による演芸などの慰安風景などもあって、どこか眼差しが優しいのです。それは、ひとえに野田さんのお人柄ゆえだろうと思います。

野田さんの証言によればスケッチ画は、西川大隊長(部隊長?)の命令により多くの絵が描かれました。その目的は、一日も早く日本に戻れるよう抑留生活を描き、それを復員局に送ることで窮状を訴える「帰還運動」の手段とすることでした。1947年7月に野田さんがリュックに丸めて入れて持ち帰られたのは約150点。野田さんは中尾先生の問いかけに「多数の絵を大隊長に渡した」と話しておられます。果たして実際に復員局に送られたのでしょうか?仮にそうだとして、スケッチ画は早期帰還に有効だったのか、否か。大いに気になります。驚くのは、そうした伝手を上官が有していたことです。他の部隊でもそうした情報は持っていたのでしょうか?そうした背景が分かれば良いのですが…。「大隊長に渡した絵」はどこかに残っているのかしら? このことがずっと気になっています。

それで、今日の13時56分、勇気を振り絞って厚生労働省に問い合わせの電話をしてみました。内線番号が分からないので電話交換手対応を希望し、長く待たされましたが、漸く繋がって「件のスケッチ画を探している。あるとしたらどこに保存されているのでしょうか?」と尋ねましたところ、しばし中断があって、交換手の女性曰く「厚生労働省社会援護局援護業務課調査資料室に問い合わせ、そこの職員が他の職員にも問いかけて聞いてみましたが、残念ながらわからないとのことでした。お役に立てなくて申し訳ございません」との返事。その間5分もあったかどうか。業務多忙で簡単にあしらわれたのかも知れないとの疑念は残りますが、今はそれ以上尋ねる手段が分かりません。私が思うに、野田さんの手元に残らなかった「多数の絵」の方にこそ、グサッと刺さる絵が描いてあったように思われてなりません。強制労働の実相は、失われたそちらの絵の方に、より表現されているのではないかしら。

帰国する前の1947年3月に発行した文集『噴焔』の冒頭に載っているのは、第十方面艦隊司令長官 海軍中将福留 繁による「“噴焔”創刊号に寄す」で、その寄稿文の最後に「森山副官一人の声でなく西川部隊長始めエンダウ海軍作業隊全諸君の…」と書いてあります。“森山副官”は『噴焔』発行者の森山幸晴です。wikiを参照すると、福留海軍中将は押しが強く、軌道修正が難しい人物のように思うのですが、こういった人物だからこそ復員局へのパイプを有していたのかも知れないと思いました。

その次に載っているマレー海軍作業隊指揮官 海軍少将魚住治策の「巻頭の辞」は比較的読みやすいので書き出してみます(とは申しても、誤って書いている個所があるやもしれませんが)。

…………………

『何のその 道草もあり千代八千代』

馬来の土を鮮血に染めて、快心の決戦を行ふつもりであった我々が、思ひもよらぬ終戦と云ふ大変局に際会し、心身共に幾変遷遂に十万余の戦友と共に作業隊として南方地区に留まることになった。

此の間、英側から提示された各種の好条件は何の挨拶もなく、次々に反故にされ、内還に関する最高司令部の懸命の努力も考檜(老獪?)な相手には、暖簾に腕押しで何の反響も示さない。偶々(たまたま)入手する内地のニュースは、物情甚だ憂慮に堪えないものがある。此等、悪条件の元に於て、吾作業隊は実によく頑張って呉れた。

「エンダウ」作業隊は、編成の当初から、幾多苦難の道を辿ったが、隊員一同克く一致結束、遂に現在地に於て、大ジャングルを青田と化した。正に作業隊中の白眉である。

元より、魂のない處に形の上の成果はあり得ない。隊員諸氏が一日の労役にヘトヘトになりながら。兵舎に昄っては、士気の昂揚に情操の向上にあらゆる工夫と努力を傾けた。

古人も、和歌は天地をも動かすと喝破した。

至誠の迸る處、神は必ず現れ給ふ。「エンダウ」作業隊が見事な成果を納めつつあるのも、亦 当然と思ふ。

凡そ人生苦悩は悲しみも恐ろしさも是を形に表現することによって軽減される。それは苦悩に取り組む自分自身を第三者として観察する余裕ができるからだ。此所々苦難突破の妙諦がある。

前掲の句は私が嘗て「エンダウ」訪問の時、展覧中の作品で、私の心を打たれたものの一つである。今回「エンダウ」作業隊で『噴焔』を発刊して、隊員の作品を蒐録すると謂ふ 誠に結構な企て。過去を偲び、順境の時には思い出の楽しみともなり、逆境の時には、難局突破の指針ともなると確信する。

そして願わくば、内還の暁は祖国再建の資とされたい。

嘱に應へて、巻頭の辞とする。

皇紀二千六百七年 一月二十六日 「獄舎生活を終えて『バトパハ』宿舎にて識す」

……………………

「エンダウ海軍作業隊」の人たちは一致団結して、困難に耐え、大ジャングルを青田に化える働きをしてみせたのです。本当にお疲れさまでした。この『噴焔』を全て翻刻するのは大変でしょうが、やってみる価値は大きいと思います。どなたか手伝って下さらないかしら?

上に12月2日の催しで会場に掲示しようと新たに作ったポスターを載せました。スケッチは仲間が木の皮を剥いで手作りした紙の他、不要になった軍用地図の裏面を使っています。

たとえば、こんな具合。野田さんは小さい頃から絵がお上手で、日本に戻られてからも創造美術会会員洋画家として活躍されたようです。

今日ご子息の明廣さんから届いた生前の野田さんの作品で、第61回創造展で下田賞受賞作品。タイトルは「トルコ(ウチヒサル)」。創造美術会発起人の一人、下田範次さんの名前を冠した賞を88歳の時に受賞されています。野田さんは2018年4月7日に、享年96歳で亡くなり、その訃報に触れた長崎新聞の同年4月11日付けコラム「水や空」は、その死を悼んで以下のように書いています。

「絵が得意な青年が第2次世界大戦に出征し、マレー半島で終戦を迎えた。降伏日本兵の一人となった青年は、2年弱の抑留生活を送りながら、目に映るものすべてを描き残そうとした。(略)過酷な強制労働、その合間の憩い、熱帯の珍しい風物、現地住民との交流…。食糧や物資に事欠く極限の状況下で、時には樹木を手すきして作った紙を使ったり、医薬品を調合して絵具代わりにしたり。持ち帰った約150枚の絵からは、稀有の体験を描き留めたいという画家の本能がほとばしる。(略)後年、諫早湾干拓をモチーフに『干潟の墓標』と題した風景画を描いた。死んだ貝が転がる乾いた干潟を透徹した視点で描写し、無言で自然破壊を告発する大作だ。もっと県民に知られていい画家だったと思う。冥福を祈る」

2日のトークイベントには、野田明廣さんだけでなくお身内の方がたくさん駆けつけて下さるようです。これを機会に地元でも見直しが進んで再評価に繋がれば良いですね。そして、南方抑留についても、もう少し実態が分かるようになればなお良いです。

 

 

 

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