おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.12.01column

毎日新聞京都版で明日の講演会のお知らせを書いて頂きました‼

今朝の毎日新聞に、明日の同志社大学で開催する講演会と開催中の南方抑留をテーマにした展覧会のお知らせを書いて頂きました。

記事の見出しは「南方抑留者 生活の記憶」で、スケッチ画を見ていると「その通りだなぁ」と思います。先日、「シベリア抑留では見ることが出来なかったマレーの子どもたちや物々交換に行った先の現地住民のとのふれあい、あるいは芸達者な人々による演芸などの慰安風景などもあって、どこか眼差しが優しいのです。それは、ひとえに野田さんのお人柄ゆえだろうと思います」と書いたばかりですが、記事を執筆して下さった記者の湯谷さんと話していて、「シベリアにも農民やソ連兵との交流はありましたよ」と仰って、2017年9月19日付けで書かれた「シベリア抑留 知られざる一面」を送って下さいました。

記事に載っていたのが、生前の木内信夫さんが帰国直後に抑留記録画(一部がユネスコの世界記憶遺産に登録)として描かれたうちの2枚。1枚はスラブ民族の娘さんと一緒に大鎌で作業する様子、2枚目は農民やソ連兵と合唱する様子で、いずれもユーモラスに描いてあります。添えられた文章には「スラブ民族の大鎌を振ってみた。若い娘さんが軽々振るのに僕は汗だくの始末。腰の振り方がネルジャー(駄目)なんだそうだ」「明るいといえばスラブ民族も底抜けに明るい。1人が歌うと2人目の人は2部で合唱となる。そして3人、4人と仲間が寄ってきて大合唱となる。ロシア人の音楽的才能は世界一だと思った。捕虜だから駄目なんて絶対に言わない」。

私の中でシベリア抑留は、極寒、飢え、強制労働、軍隊時代の上下関係を引きずる厳しさの四重苦の世界だったと思い込んでいましたが、こうした一面もあるのだと知りました。昨年シベリア抑留展をした折に知り合った女性が、先日訪ねてくださり、昨夏単身旧ソ連のキルギスで日本人抑留者が強制労働させられていた跡を訪ねた折の写真を見せて貰いました。2010年8月13日付け日経新聞に載った、キルギス東部にある村タムガに元日本兵に関する資料室が同年9月に完成するとの記事を知って、出かけられたのです。資料室は今も療養所として使われている建物の一室にあり、この建物は元日本兵ら125人が2年がかりでつくりました。資料室には元日本兵の写真や手記、現地の住人も含めたインタビュー映像などが展示されていて、日経の記事によれば、現地では「日本人はまじめで働き者」という印象が連綿と語り継がれているのだそうです。元日本兵の抑留地については、国はロシア政府などから提出された死亡者名簿に基づいて抑留を把握しているため、厚生労働省の史料には「タムガ」の地名は記載がなく、抑留された人数や具体的な場所など把握できていないのだそうです。まだまだ、知らないこと、知られていないことがたくさんあるのだなぁと思います。

一昨日来館いただいた女性のお父様も南方抑留経験者だったそうですが、戦争のことについては一切語られなかったことから、「どのようなものだったのか知りたい」と野田さんが描いたスケッチ画を静かに見ておられました。このお父様は日本に帰られてマラリアで大変つらい思いをされたようです。お借りして展示に加えている「田所日記」の筆者も、その日記の最後は「昭和21年3月 佐世保上陸帰還す 田所家へ無事帰宅 帰宅後マラリアにて療養す。」で締め括っておられます。女性の話を聞いて、「帰宅後マラリアにて療養す」の簡単な1行ですが、帰還後もさぞかし大変な思いをされたのだろうと想像します。

今日来てくださった人のお父様は、明号作戦に通信兵として参加され、その後マレーに移動して敗戦を迎え、抑留生活を経験。野田さんと同じ1947年7月に宇品の港に帰還されたそうです。みんなが戦地のことは口を閉ざして語らなかったわけではなく、この方のお父様はいろいろお話されていたようですから、一概にはいえませんね。それぞれの人が抱え持つ戦争体験。こうした展覧会を通じてお聞きすることで、少しずつ実相が解明されると良いですね。

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