おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.12.08column

南方抑留 「軍隊は運隊」

「今日12月8日はアジア・太平洋戦争が始まった日だから、加害の歴史を忘れてはいけない日だと思って、南方抑留の展覧会を見に来ました」と大阪からお越しくださった女性がおられます。展示で参考文献の一つとして並べている山下清海さん著『日本人が知らない戦争の話』(ちくま新書、2023年)によれば、「日本軍がイギリス領のマレー半島(当時マラヤと呼ばれた)上陸作戦を開始したのは1941年(昭和16)年12月8日午前1時半(日本時間)であった。すなわち、太平洋戦争は、真珠湾奇襲作戦より約1時間25分早く、マレー半島上陸作戦から始まったのである」(61頁)とあります。今も多くの人が太平洋戦争は真珠湾攻撃から始まったと思っておられますが、実は、今回取り上げているマレー半島から始まったのです。

1945年日本敗戦後、JSP(降伏日本兵)の一人となった野田明さん(佐世保市出身)がマレー抑留中に描き、1947年7月に大切に持ち帰ることができたスケッチ画約150点をお借りして、24日まで展示しています。本当は全部並べられたら良かったのですが、展示スペースの関係で厳選した約80点を並べています。最初どのように並べようかと悩みましたが、描いた年月日が書き込まれている作品もあることから、それぞれ額装して年代順に並べました。

1946年から描き始めた作品の中には、マレーの子どもたちや女性の絵もあります。最初は現地の人々に警戒されたことでしょうが、やがて打ち解けて交流が深まり、上手に似顔絵などを描いて喜ばれ、代わりにお腹の足しになる食べ物を貰うこともあったでしょう。2015年2月26日NHKイブニング長崎の番組内で、野田さんは「エンダウ海軍作業隊」の上官から帰還を早める目的で強制労働の絵を描くように言われたと証言されていますし、上官に「たくさん渡した」とも言っておられるので、帰還を早めるために上官に託した絵には、ここに並べている絵以上に過酷な強制労働のありのままが描かれていたのでしょう。残念ながら、その目的のために描くように、いつ言われたのか証言がなく、それが実際に復員局に送られたのか、そうだとしてそれが帰国を早めることに有効だったのかは分かっていません。それらの絵の存在も確認できていません。

帰還前に発行した「エンダウ海軍作業隊」で手作りした文集『噴焔』の冒頭に一文を寄せた第10方面艦隊司令長官海軍中将 福留繁の文章終わり近くに、「森山副官一人の声ではなく、西川部隊長始め」と書いてあるので、隊内での序列が推測され、野田さんにスケッチ画を描くように許可したのは森山幸晴さんで、その命令を野田さんに伝えたのは西川さんなのだろうと推測します。西川さんの身の回りの世話をなさっていた野田さんが、強制労働の合間の休息の時間に描いた「馬来の子供たち」(1946年5月)や「馴染みのトッカル婆を描く」(1946年6月10日)などを見た西川さんが、森山さんに野田さんが絵が上手なことを話し、それで過酷な強制労働の実態を描くように思いつかれたのではないかと想像するのです。スケッチ画を見ていると1946年後半から労働の絵が増えています。国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトを見ていると、第10方面艦隊は「1946年10月23日時点で葛西中佐参謀の復員を確認」と書いてあるので、その前あたりから厳しい労働の絵を描くようになられたのではないかと勝手に想像しています。

作業隊の仲間がジャングルを切開いて水田にするために、太い木を伐採して運んだり、開墾したりしている作業の傍で、スケッチするのは「気が引けた」と後にご子息に語っておられたそうですから、現場ではラフスケッチをして、兵舎に戻ってから丁寧に描き込まれたものも多いと思われます。2日の同志社大学での催しの後に届いた質問に、

「スケッチは当時としては写真にも匹敵する情報ツールだったと思います。管理者である英国軍は、野田さんが多くのスケッチをしていることを黙認したのでしょうか?それとも、スケッチしていることを知らなかった(気付かなかった)のでしょうか? 知っていれば、抑留の事実が公になること(情報露呈)を避けるためにスケッチを禁止するはずではないかと思うのですが?また、あれほどの量のスケッチをして、気づかないはずはないと思うのですが?インド人を使って管理させていたというお話もありましたが、管理・監督責任のある英国軍のイメージができません。」

というのがあり、これに対する中尾先生からの返事はまだ届いていませんが、約150点持ち帰られたスケッチ画の中にイギリス軍が登場しているのは1枚「稲袋を点検する英側キッチナー」だけです。それは、トラックに詰め込まれたたくさんの稲袋を英軍人が点検している絵。

日本兵たちは大変な苦労を重ねてジャングルを開墾して日本式の水田にし、ようやく稲を育てたのに、その米を自分たちは食べることが出来なかったのです。インド兵が降伏日本兵を見張っていたのですが、イギリス人はほとんど任せっきりだったのでしょう。裸足でボーキサイト(鉱石)の赤い道を歩き、泥水の中での作業などで怪我をしたところから菌が入って大変な病気になってしまったり、水不足で川の水を飲んでアメーバ赤痢に感染したり、蚊の媒介でマラリアに罹ったりと飢餓の悩みだけでなく、こうしたことにも悩まされて「形容し難い苦痛の連続」でした。

昨日来館された人のお父様はレンバン島に抑留されていたそうです。ほとんど戦争体験を語られなかったそうですが、ネットでたまたま「南方抑留レンバン島」を書かれた大分県の羽田野正義さんの文章を見つけたので、その方と一緒に読みました。8月15日、トムソンロード兵舎で玉音放送を聞きます。「みんな泣いた。中隊長は涙ながら全員一丸となり自重自愛、今後予想される苦難に打ち勝って日本に帰ろうと訴えた。早速、英軍司令部より命令が来た、『すべての物を破壊すべからず。違反した者、部隊は戦犯に処す』。中隊も兵も不用なもの、問題になりそうなものは焼いた。(略)この行軍の途中、命令でメルシンの兵営に作業隊に出た。(略)何でもやらされた。弾丸を込めた印度兵が5人に1人位の割合で監督し、やかましく言う。ある日炊事場附近の除草をしていると水筒を持ってこちらに来いとゼスチャーする。7~8人で行くとミルクを一杯入れてくれた。そのような時には印度兵はうまく連絡を取り、要所要所を見張りして、英軍将校にわからないようにしている(英人は100人に1人ぐらい)」と書いておられたので、野田さんがいたエンダウでも同じような様子だったのではないかと想像します。

他にも「終戦そして飢餓のレンパン島へ」を書かれた森 由治さんの文章にも「監督に当たっている印度兵は、戦勝国の兵隊と言っても、日本兵に一目置いているような態度で、英軍の将校が来たら合図をするから」と書いてあったので、野田さんがスケッチ画を描くことの危険性は少なかったのかもしれません。

このお客様とおしゃべりをしているところに、伴市プロジェクトでお世話になっている正木隆之さんが来館。以前別の人から「インドネシアでオランダ軍の監視下で抑留されていた日本人は大変だった」と聞いたことがあり、インドネシアでの様子も知りたいと思って正木さんに話したところ、「昔、京都市伏見青少年活動センターにいるとき、インドネシアで抑留生活を送った人を取り上げ、青年たちと短いドキュメンタリー映画を作ったことがある」と仰って、その映像を探して届けて下さったのです。そのDVDが下掲「ある戦犯の記憶 水口喜一が語る、繁主計大尉の生き様」です。

早速、お客様も一緒に拝見しました。

DVD表紙で学生帽を被っているのが水口 繁海軍主計大尉。京都で生まれ、東京帝大を卒業後海軍士官となり、1943年6月にインドネシアのボルネオ島のサマリンダに着任します。それから2年後、日本軍の敗戦色が濃くなった終戦間際、炭鉱があったロアクールで現地民惨殺事件が起こり、部隊の責任者になったばかりの水口さんは事件の責任者として戦犯の罪に問われ、バリックパパンの収容所に入れられ、1948年10月4日この収容所の刑場で銃殺刑に処せられます。享年29歳でした。

辞世の句は、「不死鳥 忍び音洩らす 雪解けに 赤き椿の 散りにけるかも」

収容所で一緒になった中村喜一さんはひと足先に日本に帰られましたが、生前水口さんから一言「帰りたいな」という言葉を聞いたことが忘れられないと話しておられ、この映像を作って欲しいと依頼されたのだそうです。生前「模範たること、美しくあることを貫いたことを、故郷の家族に伝えて欲しい」と依頼されていたことから、中村さんは帰国後水口家を訪問されましたが、繁さんのご兄弟は戦死されていました。家を継ぐ者がおられないことから、中村さんが水口家を継がれたのだそうです。繁さんは、京都の一乗寺にある狸谷山不動尊境内に水口不動尊として祀られています。部下を助けるため、自ら戦犯として罪を引き受け処刑を覚悟していた繁さんでしたが、心の奥底には「帰りたい」思いを秘めておられたのです。今、生まれ故郷の京都でその魂は安らかに眠っています。戦争が引き起こすこうした悲劇を二度と繰り返さないよう私たちは、戦争によって亡くなった人々の無念な思いを無駄にしないよう目を凝らして政の行く末を注視していかねばならないと改めて思います。この映像もご自由にご覧頂けるようにしていますので、お気軽にお声がけください。

先ほど紹介した森 由治さんの文中に「『軍隊は運隊』といわれたように、人の命など一寸先は闇である」という言葉が書いてありました。「全くだなぁ」と思います。12月8日に、今も各地で続いている戦争を思い、一日も早く世界中が平和な世の中になることを祈るばかりです。

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