おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.12.10column

JSP(降伏日本兵)に関連して~『新土-捕らわれの島 レンパン島の記-』と29歳でインドネシアのロアクールで亡くなった水口繁主計大尉

新春展示は、タイトルが長くて恐縮ですが「友禅染の着物で“映画”をまとう~初期映画と染織に尽力した稲畑勝太郎にも触れて~」です。“映画”を描いた珍しい着物や端切れがたくさん届き、今はその準備中です。11月12日「共に生きる会」の上映時に参加して下さったご近所さんが、私が人形好きだと知って、お母さまから娘に、そして孫娘にと受け継がれてきた市松人形を今朝届けて下さいました。「新春の着物展の時に飾る」と約束したからです。四条通りの繁華街に老舗京人形展として構えている1808年創業の老舗京人形店『田中彌』で購入された高価なお人形。「赤いべべ着た可愛い人形♪」は、人形といえども侮れないほど手の込んだ豪華な衣装を着て、今から3月3日まで目を楽しませんてくれます。どうぞ、期間中に会いに来てください。

仮置きの今は、野田明さんが絵を添えられた仲間の川柳を並べたこの場所で皆様のお出迎え。その頭上の川柳の一つに「今までは 青春もなく 國のため」と書いてあり、男性が、手にした日本人形をじっと見ています。まだ若い兵隊さんが女性との恋愛もできないままに戦地に赴き、挙句の果てに日本が負けてしまい、異国の地で今や降伏日本兵として、強制労働に駆り出される毎日。こんなはずじゃなかったのに。。。兵隊さんのため息が聞こえてきそうです。

さて、今日は『新土(あらつち) 捕らわれの島 レンパン島の記』(1977年4月29日発行)の本を手に関東からお越しくださった人がおられます。島田 潤さん。お父様は敗戦後、シンガポールの南にある「レンパン島」で降伏日本兵の一人として島の開発の強制労働と、自活のための農業の辛苦の日々を送っておられました。『新土 捕らわれの島 レンパン島の記』は二部構成で、第一部は1946年4月29日に創刊された『新土』をそのまま再現し、戦争が終わった直後の「捕らわれの島」で文芸に親しんだ俳句、川柳、都々逸、短歌、詩をたくさん載せています。野田明さんが持ち帰られた手作り文集『噴焔』の他にも、こうした文集があったのだと知りました。発行された4月29日は天長節。これを祝って演芸大会も催されています。編集後記に「帰還の日も迫り」と書いてあるので、そうした情報を共有したうえで、農耕の汗の中から生まれた自分たちの文芸作品を記録に留めようとの思いが伝わってきます。

船見ゆと一人叫べばつどい来て 沖を見送る 兵のこころよ

第二部の資料編では昭和20年7月末付「第七方面軍兵力配置要図」が載っていて、島田さんのお父様がご自分がいたところを赤い色鉛筆で何か所もマークしておられます。独立歩兵第254大隊の戦歴、アンダマン諸島の地誌、アンダマン・ニコバル群島の戦史に続いて、1949年7月15日に日比野清次さんが発行された『レムパンの星-マライ軍抑留記-』(全文214頁)から引用して紹介した「捕らわれの島・レンパン島」が載っています。

一行は終戦後の1945年12月30日にレンパン島に上陸し、英軍管理下の捕らわれの生活が開始します。翌1946年5月6日、内地に帰還のためレンパン島を出港し、5月21日に名古屋港に上陸して、解散。エンダウに抑留されていた野田明さんの帰還より早かったのですね。本書を編んだ長井五郎さんは日比野さんの文章を紹介するにあたっての前文で「レンパン島内に最高八万の軍隊が営んだ生命維持のための開拓の記録でもある」と紹介しています。冒頭の元独立歩兵254大隊第4中隊中尉秋山義辰さんの「詩集『新土』によせて」では、「レンパン島に移駐し、陸海軍合せて数千名が」と書いてあり(1頁)、第二部資料では「昭和20年12月8日、レンパン島四万八千の日本人は」と書いてあります(188頁)。「桟橋」の項では「八万の人々の息つく島は」(191頁)の表現で、抑留された日本人の数は色々あって良くわかりませんが、来館者と話しているとレンパン島にお身内の方がおられた場合が多いなぁという印象です。

興味深かったのは「創意工夫」(192頁)の項目です。編み上げ靴の修理具について、鉄鋲はレーション罐、釘は針金、針はコンビーフ罐付属の缶切り、糸はパインアップルの葉を4、5日水に入れ、木片にて擦る、革はヤシの繊維に生ゴムを付し煙をあてこれを4、5回繰り返す。食器類は茶碗、湯呑み、皿、弁当箱、スプーン、湯沸かし、七輪に至るまで全てレーション罐製。醤油はカボチャ、トウモロコシ、大豆(なければタピオカ、かぼちゃで代用)各3㌔、魚腸0.5㌔、食塩9㌔(この塩も自給)を原料として60㌔の醤油が得られ、搾り滓は味噌として使用。苦労した屋根材はララン草の不足を補うため広い葉を一枚ずつ連結したり、濶葉に近い灌木を利用したりしたそうですが、しまいには瓦の製造まで及び、月産3千枚の生産能力をあげるまで至ったそうです。灯火は樹木から樹脂をとったり、ゴム液を採取してロタン繊維束に付着させたりして点火使用。

筆はマニラ麻と竹、墨は粘土、油煙、樹脂を練り合わせる。硯は自然岩に工作、インクはマングローブ根皮を原料とし、これに塩を混ぜて数時間煮沸、薄紫色。白墨は良質粘土を主原料として陰干し、ペン軸はパラヤシの幹。筆箱はレーションの罐。海上漁撈と河川からの漁獲と淡水養魚の方法、豚や雞、家鴨を飼育するなどして動物性蛋白をとるなど、生きるがために皆さんが創意工夫して、多大な努力を払われたことがわかり、貴重な記録です。そうして徐々に衣食が足るようになると、素人演芸大会が行われ始め、短歌や俳句、謡曲の会合が同好の士によって誕生していった経緯は、エンダウにいた野田明さんのスケッチ画にもうかがわれます。レンパン島で歌会や句会を定期的に開催するようになったのは1946年2、3月頃からだったそうです。

帰還船出航に先立ち、南馬来軍司令官石黒貞蔵は門出を祝して餞けの言葉を贈っています。

「今ヤ諸子洋々タル希望ニ満チテ新生ノ門出ニ旅立タントス 諸子ノ歓喜正ニ言語ニ絶スルモノアルヘシ 本職モ亦諸子ノ心中ニ思ヒヲ致シ 更ニ諸子ノ帰還ヲ鶴首シアル郷党ヲ偲ビテ衷心ヨリ祝福ノ意ヲ呈セサルヲ得ス 然リ而シテ諸子ノ克ク知ラルゝ如ク邦家ノ現況ハマコトニ多事多端ニシテ其ノ諸子ニ待ツトコロ甚ダ大ナリ

邦家ノ再建ハ真ニ国ヲ思ヒ 自ラ其ノ礎石タルヲ以テ任スル忍苦ノ士ニシテ始メテ之ヲ為シ得ル処 内地ヲ遠ク離レテ幾星霜不毛瘴癘ノ戦野ニ転戦シ 更ニ不踏ノ密林ヲ拓キテ営々大地ニ挑ミシ諸子「レムバン」ノ努力ハ必ズヤ国家再建ノ原動力タリ得ヘシ是レ本職ノ敢ヘテ本土帰還ヲ称シテ門出ト言フ所以ナリ 願ハクハ諸子能ク本職ノ意ノアルトコロヲ体シ身ヲ以テ邦家再建ノ闘士タラン事ヲ 終リニ臨ミ海路ノ平安ト御健康トヲ祈ル  4月23日」

この冊子発行を思いつかれたのは埼玉県の岩田茂邦さんで、編者の長井五郎さんとお会いされたのは1975年の初夏だそうです。本当に貴重な本で、良い仕事をされたと思います。暫くお預かりして展示に加えていますので、関心がおありの方はお声がけください。

前回のブログで、インドネシアのボルネオ島ロアクールの刑場で責任者という事で銃殺刑に処せられた水口繁海軍主計大尉(享年29歳)のことを書きましたが、市場揚一郎著『短現の研究―日本を動かす海軍エリート』(1987年7月、新潮社)に水口さんが母親に宛てた最後の手紙が載っています。このことは、DVD『ある戦犯の記憶-水口喜一が語る繁主計大尉の生き様』(2012年)を寄贈して下さった正木さんから今日教えて貰いました。このDVDや手紙から、オランダ軍管理下での降伏日本兵の様子の一端を窺い知ることができましょう。映像は随時ご覧頂けるようにしていますし、この本のページと正木さんらが作られた関連年表も展示に加えました。

涙無くして読めない手紙ですね。戦争はいけません。みだりに不安を煽って軍事強化を訴える政の姿勢をきちんと見ていくことが必要だと思います。今もウクライナとロシアの戦争が続き、パレスチナとイスラエルの酷い戦争が連日報道されて胸を痛めていますが、一日も早く紛争を止められないものかと思うばかりです。それでなくても地球は環境悪化が進み危機的状況なのに、人間同士が始めた愚かな戦争は、武器ではなく外交の力で解決に向かって欲しいです。

 

 

 

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