おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2024.01.19column

1月5日素晴らしい展開になったエルキ・フータモ教授をお迎えしてのオープニング・イベント~Part1

1月5日から始まった「友禅染めの着物で“映画”をまとう~初期映画と染織に尽力した稲畑勝太郎にも触れて~」では、早稲田大学名誉教授草原真知子先生が、長い期間を費やして集めてこられた着物と帯の中から、“映画”に関するデザインが施された「面白柄」を選んでいただき、56点を館内いっぱいに展示しています。副題に掲げた稲畑勝太郎に関しても稲畑産業㈱様の御協力を得て32点を並べています。

初日の5日は、草原先生と交流があるカルフォルニア大学ロサンジェルス校教授エルキ・フータモ先生にお越し頂いて、特別講演「メディア考古学-文化を横断する視点」の演題でお話をして頂きました。通訳は草原先生にお願いしました。遠方からも大勢参加して下さり、新年の門出を賑やかに祝うことが出来ましたことを大変嬉しく思っています。

私が手にしているのは、昨年3月19日に幻燈をテーマに2冊発行したうちの小冊子8『着物柄に見る幻燈・映画・映写機』です。執筆して下さったのは草原先生。5日は小冊子9『マジック・ランタン~さまざまな幻燈の楽しみ』を執筆して下さった中京大学教授岩田託子先生も駆けつけて下さいました。振り返ってみれば、3月19日に“面白柄着物”にすっかり魅せられた私が、草原先生に「元は京友禅の型染をしていた当館で、ぜひお正月に先生のコレクションをお借りして“映画をテーマにした面白柄着物”の展覧会がしたいとお願いしました。それが実現したのですから嬉しさもひとしおです。4日にフータモ先生と一緒にお越し頂き、それぞれの展示品にキャプションも書いて頂きました。それら一つ一つをゆっくりご覧になってお楽しみいただきたいです。着物柄には、その当時の人々が関心を寄せていたことがデザインされていて、着物もメディアの一つだったのだと気付かれることでしょう。そして、こうした粋な着物を身に着けていた人がどのような人だったのか-にも想像の翼は羽ばたきます。

フータモ先生が初めて来日されたのは1992年のことで、以降毎年日本にお越しでしたが、コロナで中断され4年振りの来日に。草原先生のご尽力により世界的に知られているフータモ先生のお話を当館でお聞きできる夢のような場となりました。「テーマは文化の間の交流、イメージのエクスチェンジで、それは展示している昭和初期の着物の柄にも言える」という事で、最後にクイズも出して下さいました。講演の様子は、こちらで動画を公開しましたので、そのクイズにも挑戦してみてください。

メディア考古学についてフータモ先生は随分以前から手掛けてこられ、この分野の創始者の一人ですが、最近注目されるようになってきた学問です。「メディア考古学は新しいものの中に古いものを発見する。逆に新しいものを古いものの中に発見する。そういう過去と現在の間の対話を考える学問で、重要な概念にトポスの考古学がある」とフータモ先生。スクリーンに映し出されているのは、トポススタディを始めたドイツの文学者ERNST ROBERT CURTIUS(1886-1956)。トポスはある文化から他の文化へ移っていく概念で、彼はヨーロッパに限定して考えていましたが、フータモ先生はもっと広く考えるべきだとし、日本の文化にも興味を抱いて下さったようです。

その一例に“Gadget Head ”を。ネットではガジェット頭をしたコスプレをたくさん見ることが出来ます。最近ポーランドに行かれたフータモ先生は、彼の地でもいろんなものを頭に被った“オブジェクトヘッド”があったそうです。投影しているガジェットヘッドの他にも金魚鉢や照明の傘とかいろんなものがありますが、日本のアニメやコナミのゲーム、フィギュアにも出てきますし、非常に面白い頭を持った傘お化けや提灯お化けなど妖怪お化けの歴史も日本にはあります。「本来の役割を終えた後、妖怪になるという考えは非常に面白いが、西洋に理解されているかと言えば、そうではないんじゃないか」とフータモ先生。草原先生所蔵の明治維新直前の浮世絵には、頭が米、塩、薬、酒などになっているキャラクターが、どんどん上に昇る写し絵の画面として描かれていて、観客が「どこまで上がる」とばかりに物価上昇を皮肉っていて、幕府から追及を逃れるための風刺絵です。「おもちゃ映画ミュージアムが幻燈とか写し絵(錦影絵)も扱っているので、丁度良く合う素材だと思って紹介したが、重要なのは傘お化けなどの下地があって、こういう使い方ができるわけで、トポスが時と場合によって使われ方や意味が変わって生きているということ。明治から昭和初期、日本に西洋の文化が入ってきたときに、人々は非常に興味を持ったが、それらがどのように解釈されて受け入れられ、それがさらに着物として着られたか、非常に面白い現象で刺激的です。トポス的な伝統は、異なる文化、異なる国、異なるイデオロギーを容易に超えてあちこちに移動していく。その出現は驚くような意外性に富んだものだったりします」と熱を帯びて話して下さいました。

もうひとつの例として、洋の東西で描かれている「兵士の夢」を紹介して下さいました。どういった内容かはここでは割愛しますので動画をご覧下さればと思います。続いて展示と関連して「テクノロジーを着る」ということに話が及びました。職業に関連した物体を身に着けた人間の絵は昔からあるそうです。写真が広がり始めた時に、フランスで1865年、写真を身に着けたドレスが登場し、仮装パーティーや雑誌に掲載されました。アメリカでは1890年から1900年にかけて、商品を身に纏って実際のイベントなどに行ったりしていた“人間広告”の例は非常に盛んだったそうです。このトポスを、展示している草原コレクションだけではなく、講演後のハプニングで私たちは面白柄着物として目撃することになります。

最後に展示と関連して、リュミエール兄弟の映像として有名な『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)では、列車の線路が画面の左端からはみ出して、観客の方に繋がって見えるのがあります。同じように1951年12月号の『AMAZING STORIES』の表紙は、宇宙船が飛び出す絵です。ここでフータモ先生から問題が出されました。「展示している着物の模様にも、テレビから電車が飛び出してくるものがあります。自分でどの着物か探して下さい」と。こういった話を聞いて文化横断的な視点からものを見るように意識すると、確かに見方が変わってきますね。来館の折に、スクリーン右に投影されている着物柄を見つけて下さい。

続いて、京都芸術大学文明哲学研究所教授吉岡 洋先生からコメントを頂戴しました。フータモ先生、草原先生と親交があるとのことでご紹介いただき、4日に初めてお会いしました。私のようにメディア考古学に馴染みがない者にもわかりやすくお話をされたので文字起こしをしてみました。「フータモ先生の話はメディア考古学の一番革新的なアイデアを話して下さって、非常に充実していました。“トポス”はもともとギリシャ語から来ていて、場所とか間とかいう意味もありますが、ドイツのクリティウスが提唱し始めて、フータモ先生と同世代の人たちが、いろんな作品の中に繰り返し現れる同じようなパターンが伝播していく方法を応用して、メディア考古学を開拓しました。メディア考古学という言葉は、おそらく一般には知られていないことだと思います。考古学は古いものを扱う学問で、メディアは一般の人の印象では最先端のものとして使われることが多いと思います。歴史学と考古学がありますが、歴史学は文字で書かれたもの、ドキュメントを対象にして研究します。それに対し、ドキュメントがない時代を研究するのが考古学。文字以前の文化を研究するには考古学的手法で行います。モノを収集してその特徴を分類することによって、過去の人がどういう生活をして、考えていたのかを研究します。

モノは文字が誕生して以降もあるわけで、メディア考古学はとりわけメディア装置というか文字が存在する文明の中で過去の人々が使っていた道具や機械の意味を知りたい。しかし、文字で書かれたものなら説明書を読めばいいようなものですが、機械の中には現在われわれが馴染んでいるけれども、過去の人々が同じようにその当時はだれもが知っていたものが、新しいモノが出てくると使われなくなります。なくなってしまうことが頻繁にあります。そうすると、そのモノをどうやって過去の人が使っていたのか、それを使って何を考えていたかがもうわからなくなってしまいます。一般に歴史はその当時の人々が当たり前のように思っていたものほど記録されない。辞書に載っていたことは、当時の人々が重要だと思うことが記録されているわけで、誰でも知っていることは、却って記録されず、後々の人にとって分からなくなります。

トポスの考え方をフータモ先生がメディア考古学の中に入れたのは、トポスは必ずしも意図ではなくて、例えば“兵士の夢”は描くことによって「戦争って、嫌だなぁ」という平和主義的な心情を表したり、別の意図で描く人もいるでしょう。トポスそのものには特定の意図はありません。なのに同じような絵が繰り返し現れたり、伝達されたりして現れます。しかも幻燈とか、着物の柄であるとかいろんなメディアで。全然違う場所に同じようなものが現れるということで、ある種トポスを応用して単なる憶測以上の何か過去の人が持っていた世界観やモノの考え方を理解する助けになるのじゃないかと思っています。フータモ先生のメディア考古学におけるトポスの考え方は非常に中心的なものです。」と解説して下さいました。如何でしょう?

さらに着物コレクションをご覧になって、「昭和のはじめ、戦前にこういうものが広がっていたのが意外に感じるのはなぜだろう。ほとんど見た記憶が自分にはない。映画やテレビで見かける着物は結構私たちが知っている着物だけ。ほんの80年、90年前の近い過去でも、一時こんなに「流行していたのに私たち現代人の想像力の中から脱落し、なくなってしまっている。今回の展示は着物の柄なんだけど、メディアなんですね。着物の柄をメディアとして使っています。今の人でも映画や時事ネタを着物の柄にしたら結構着たいんじゃないでしょうか?」とお話しくださいました。面白柄を知って以降、私は骨董市で古い着物を扱っているお店屋さんに良く話しかけるのですが、戦争柄は別として、今回展示しているような柄をご存知だったのはお一人だけ。やはり余裕のある特別な階層用に用意された反物だと思いますから、人々がそんなに目にする機会はなかったと思います。だからこそ“面白柄”なんですね。

続いて、稲畑産業㈱広報部長橋本幹樹様から稲畑勝太郎について簡単にお話をして頂きました。展覧会の副題に稲畑勝太郎(1862-1949)の名前を載せておりますが、1890年に京都で起業した稲畑染料店の目的は①映画②テキスタイル(繊維)でした。遷都の宣言がないまま天皇が東京へ遷られ、京の都の落ち込みは大変なものでした。1877年、京都復興を目的にレオン・デュリーにより京都府派遣留学生8名が選ばれ、稲畑少年は最年少の15歳でフランスのリヨンで最先端の染色技術を学びます。1885年に帰国後は京都染工講習所講師を務めるなど洋式最先端染織技術の普及に努めます。稲畑染料店ではフランスのサンドニ―社から合成染料を直輸入して販売、1895年にモスリンの国産化を目指して単身で渡仏した折に、リヨン時代の同級生オーギュスト・リュミエールと再会し、彼等兄弟が発明したシネマトグラフ(下掲写真は2023年11月に披露されたレプリカ)を日本に持ち帰ります。

橋本さんによれば、今も染料ビジネスを続けていますが、それは1%未満で、多くは液晶テレビの材料、プラスチックなどを扱う化学系専門商社として世界企業です。橋本さんの御理解と御協力があってこその展示コーナーですので、こちらもぜひゆっくりご覧頂きたいです。また、駿河台大学教授長谷憲一郎さんの御協力で、稲畑が15歳の時リヨンで撮影した写真と、40歳頃の写真も展示しています。後者は今回初披露で日露戦争の頃のものではないかと思います。

稲畑は1922年大阪商業会議所(現・大阪商工会議所)第10代会頭に就任し、その像が初代会頭五代友厚(NHK朝ドラ『あさが来た』でディーン・フジオカが演じて話題に)、七代会頭土居建夫と並んで建っています。その後、稲畑は1926年から47年まで、貴族院勅撰議員(旧憲法下で貴族院議員の構成員。満30歳以上の男子で国家に勲功があり、学識有る人物として特に勅任された人物)も務めています。〈続〉

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