2025.03.20column
3月15日東京見聞録(2)
2月14日に見学にお越し下さったアルゼンチンからのヴィジュアル・アーティスト、映像作家のホアキン・アラスさんから3月14~16日東京都墨田区立川2丁目のトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)レジデンシーで作品展をするからと案内を受けて、「これもご縁だから」と出かけてきました。この日は公益財団法人山路ふみ子文化財団の「財団解散に伴う感謝の集い」にお招きを受けて久々のお上り。事前に何の調べもしないで、ただひどい方向音痴なので目的地に無事に辿り着けるかだけが頭の中を占めていたのですが、どうにか辿り着くことができました。でも窓に貼ってあった案内に、TOKASオープン・スタジオが11時開館だと書いてあったので、それまでの時間つぶしに周辺を散策したら、何と「忠臣蔵」縁の地だと判明。好奇心に火が付き、立川沿い朝の散策をしてきました。それは前回ブログで書きました。
本当は16日14時からアラスさんも登壇されるトークイベントを聴講すればよかったのでしょうが、日帰りのため15日18時まで公開している展示を見ました。担当の人が気を利かせて下さってアラスさんご本人を案内してくださり、しかも通訳もして下さったので、大助かりでした。
アラスさんのスペース内左手にモニターがセットしてあり、活弁士の片岡一郎さんの活弁をヘッドフォンを通して聴きながら鑑賞します。写真では分かりにくいのですが、上映作品は『血煙高田馬場』(1928年、日活太秦、大河内傅次郎主演)です。昨年柳井イニシアティブによる全米活弁ツアー“The Art of the Benshi2024”で当館所蔵フィルムも用いた最長版で活弁上映されました。アラスさんに先日尋ねたら、このツアーのことはご存じで同時に発売された本もお読みになっていました。そして、この無声映画『血煙高田馬場』を素材に選んだ背景には、片岡さんの助言もあったようです。
彼がこの作品に興味を持って制作に挑まれたのだと知り、嬉しく思いました。そしてまた、この朝、偶然訪れて知った「安兵衛公園」とも繋がることができました。この名称由来の堀部安兵衛がまだ中山安兵衛だった時代の仇討話が『血煙高田馬場』なのです。「忠臣蔵外伝」の一つとしてよく知られ、大河内だけでなく阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵ら時代劇の大スターたちがこの役を演じて、よく知られたお話です。偶然から始まったこの日朝の『忠臣蔵』縁の地探訪が、アラスさんの最新作品とも繋がったので、自分としては面白い展開となりました。
うちに来館された時に「活弁士とマジック・ランタン(幻燈機)に興味がある」と仰っていましたが、彼の中では、弁士が登場して映画の解説をする様子はマジック・ランタンの実演と似ているように感じられたのでしょう。アラスさん本人の手による上掲のイラストは、和服姿で無声映画の語りをされている片岡一郎さんの雰囲気によく似ていて、お上手ですね💗
そしてスペース内正面に掲げてあったのは、このポスターです。アルゼンチンの映画『最後のケンタウロス』。ケンタウロスは実在の人物で、彼に関する本が数多く出ているそうです。この作品は、エドゥアルド・グティエレスの『フアン・モレイラ』の本をもとに、1924年にエンリケ・ケイロロ監督によってつくられたサイレント映画です。長く失われた作品と考えられていましたが、最近、ブエノスアイレス映画博物館によって発掘された貴重なフィルムなのだそうです。82分もあった作品ですが、片岡一郎さんの活弁を付けて、12分の短編に編集して初公開されました。
うっかりカメラを家に忘れてきたので、不鮮明な写真で申し訳ないです。彼が作った映像は、うちで無声映画上映会をした折の編集画面とは異なっています。うちの場合なら、きっと画面の隅に弁士さんを配して、映像そのものがしっかりご覧になれるようにするでしょう。けれどもアラスさんの作品は、弁士の片岡さんの姿が中央にずっと配置されていて、しかも大きい。そうした視点が逆に興味深かったです。これも帰ってきてからアラスさんに尋ねたのですが、想像していた通り、片岡さんの映像を中心に配したのは、マジック・ランタンからインスピレーションを得たのだそうです。活弁士の存在自体が日本独特なので、とても心惹かれて関心を持たれたのだということが伝わってきます。
帰国後は、現地のイメージを使って、スペインでマジック・ランタンショーをやるのだそうです。準備ができたら写真を送ってくださることに。今からそれがすごく楽しみです。「無声映画はこうして見るもの」と固定概念を自分で作ってしまっていたのかもしれません。2015年7月、初めて台北映画祭に招かれた折り、おもちゃ映画で編集した時代劇映画を人気DJのライブパフォーマンスで野外上映してくださったのですが、そのインパクトの凄さに心を鷲掴みされたことを思い出します。「いろんな見せ方があっても良いなぁ」と今回も思いました。
ホアキン・アラスさんと記念写真。日本でアルゼンチンの映画を観る機会はほとんどないですから、貴重な場になったと思います。次に来日の折には、彼の作品をご覧頂ける場を設けたいと相互に思っています。上映されていた日本とアルゼンチンの無声映画2作品に共通するのは「復讐」なのだとアラスさん。アルゼンチンでも彼のこの作品を披露する場があれば良いですし、ご覧になった人々がどの様な感想を述べられるのかにも興味があります。
ともあれ、無事に会場まで辿り着けないかもしれないと心配して、前もって訪問することを告げずに会場にやってきた私でしたが、幸いにもこうして実際にお目にかかれて、本当に嬉しい思い出になりました💗
背の高いアラスさんとハグをして会場を後にした私は、ホテル ニューオータニを目指します。女優・実業家・社会事業家・慈善家として活躍された山路ふみ子さん(1912.3.13-2004.12.6)によって1976(昭和51)年4月26日に設立された財団法人山路ふみ子文化財団が、残念なことに今月31日で解散されることになり、その感謝の集いが催されるというご案内を頂戴しましたので、出かけてきました。
こういう機会でもないと有名なホテルニューオータニに行くこともなかろうというのも正直な気持ちですが、一番の理由は、常務理事の佐藤善志様にこれまでのお礼を直接お会いして申しあげたかったことです。2017年中川信夫監督を偲ぶ「酒豆忌」をしました。命日の17日に監督が生まれた京都で、しかも関西初開催にと長谷川康志さんと奥様のご尽力で実現しました。せっかくの機会だからと、6月15~17日に特別展を初企画。わずか3日間限定でしたが、いろんな地域から中川監督のファンが来て下さり、実に充実した良い催しになりました。中川監督が第3回「山路ふみ子文化財団特別賞」を受賞されているご縁から、長谷川さんから同財団様に協力を依頼され、その折、中心になって下さったのが佐藤様でした。
以降、時々皆様にお送りしている一斉メールに、いつも「関係者で情報を共有させていただきます」と丁寧な返事を毎回頂戴していました。簡単なことのようですが、実際にはなかなか真似が出来ないことで、いつか直接お目にかかってお心遣いへのお礼を申したいと思っていました。昨年財団が解散に向かっていることをお知らせいただき、モノを知らない私は「財団法人も解散することがあるのだ」というのが驚きでした。
写真は、山路さんの遺影を背に、体調不良で欠席された岩崎光洋理事長に代わって、解散について報告されている佐藤さんです。初めてお会いして、これまでのお礼を直接申すことができました。全国各地から100人ほどのお客様をお迎えして、隅から隅まで目を心を配り挨拶されていました。聞けば半世紀近い長きに亘る財団の活動は皆さん全てボランティアなのだそうです。一度や二度ぐらいでしたら「エイヤッ」の気持ちでやることは出来ましょうが、長期継続となるとなかなか難しいのが世の常。これまで尽力されてきた財団関係皆様方の活動は本当に尊く、素晴らしいです。前掲冊子の裏表紙に「いい服を着て、美味しいものを食べて、楽しいのは一時の事。自分の幸せを他の人と分かち合う事で得られる心の豊かさは、人生をいかに意義あるものとしてくれることでしょう。山路ふみ子」と書いた栞が載っています。山路さんは日本映画の振興を願って財団を設立し、お母様とご自身の病気療養後には専門看護教育研究助成基金を設立されました。亡くなった後もその意思を次いでこれまで活動を継承された関係者の皆様のご努力には本当に頭が下がります。日本映画界については総計280名の個人・団体の方々を顕彰し、日本各地での名画特別上映会も重ねられました。
お客様の中に存じ上げている方は一人もおられず最初は戸惑いましたが、思い切って話しかけて幾人かの人々と名刺交換することができました。
その中のお一人、プロデューサーの川井田博幸さん(左)。右は佐藤さんです。川井田さんから「佐藤忠男通信」第3号(2024年12月1日発行)を頂戴しました。映画評論家佐藤先生のドキュメンタリー映画を制作中なのだそうです。監督は寺崎みずほさん。佐藤忠男先生には、当館が開館した折に応援メッセージを頂いたことを話しました。それは、当館が発行した小冊子2「応援メッセージ」にも載せていますが、その部分を抜き書きしますと、
……集めることは本当に急務。
むかし、親しくさせていただいた五所平之助監督がよく冗談に言っていました。「小津安二郎君がうらやましいよ。あまり当たらなかったからフィルムがきれいに残っている。僕や斎藤寅次郎君の作品はヒットしてフィルムが全国を回って引っぱり凧だったから、ボロボロになって、なくなってしまった」。でも、そのボロボロになった断片だって、残っていればそこから想像を広げることができます。ましてやオモチャ映画再編集されているから元の形とはちがうけれども、資料的な価値はずっと大きい。これを集めることは本当に急務です。私も声を大にして呼びかけたい。……
東京から戻って連れ合いにこの話をしたら、かつて佐藤忠男先生と食事をした思い出を話してくれました。大阪で青少年映画祭の話をしていた頃の思い出らしく、連れ合いも呼ばれて同席。その席で佐藤先生は「日本映画学校の校長になった自分の役割は、海外の映画祭に学生の作品を紹介できることだ」と話されたそうです。丁度その頃連れ合いは、大阪とハンブルグが姉妹都市として交流があったことから大阪芸大の学生作品をハンブルグ映画祭に紹介する活動をしていて、佐藤先生と話が合ったらしく、『映画祭をするなら喜劇やね、コメディ映画祭は意外とないから』と仰ったそうです。その後、大阪には大阪アジアン映画祭ができ、今まさに第20回目が23日まで開催中です。
川井田さんから「良い出会いでした」と言っていただけて、お上りした甲斐がありました。他の名刺交換した方々とも、いつか京都の新拠点で再会できると嬉しいです。
東京見聞録最後に、
ホテル ニューオータニの日本庭園に建っていた創業者大谷米太郎像です。説明文を読んで初めて知りましたが、大谷氏は私の故郷である富山県の生まれでした。31歳で実業家をめざして上京し艱難辛苦に耐えて、今日の同ホテルの礎を築かれました。
ネットで読みますと、富山県の今の小矢部市の生まれで、貧農の小作農の長男として生まれ、父が亡くなった後、弟や妹など家族8人を養うため懸命に働いたそうです。31歳の時に思い切って上京し、様々な力仕事をこなし、両国の国技館で力士にもなりますが、田舎相撲で指に障害を負ったこともあって幕下上位以上には上がらなかったようです。後に蔵前に国技館を作るのに協力したのはそうした背景があってのことでした。さらには、財政難だった富山県から支援を求められて、大谷技術短期大学(今の富山県立大学)を作るのに協力しています。「自分は家が貧乏で勉強ができなかったから」とその思いを語っています。裸一貫から大事業家になった富山県出身の大谷米太郎氏がたてたホテルニューオータニで、社会貢献に尽力した山路ふみこさんの偉業を振り返る催しに同席させて頂けたことは、この先も忘れられない思い出になることでしょう。