2025.03.16column
3月15日東京見聞録(1)
3月10日にイタリアのフォトジャーナリストのアンドレア・デイビッドさんとアルゼンチンのビジュアルアーティスト、映像作家のホアキン・アラスさんからメールが届きました。アンドレアさんとは2月にお会いできるかと楽しみにしていたのですが、今回の来日では叶いませんでした。けれども、8月か10月頃に再来日されるそうなので、その時に新拠点でお会い出来ることを楽しみにしています。紛争地帯も取材対象にしておられますので、どうぞ安全にと多少の縁を得た者として祈ります。そして、いつかアンドレアさんの写真展をしたいとお互いに思っています。
そして、気温が真反対のブエノスアイレスから、ひと際寒い日だった2月14日に弁士と幻燈機への関心から見学に来て下さったホアキンさんは3月14~16日、東京のアーツアンドスペース(TOKASレジデンシー)のオープン・スタジオで弁士に関する新作を発表するというご案内でした。丁度15日財団法人山路ふみ子文化財団「解散に伴う感謝の集い」に参加しようと思っていたので、超方向音痴故の不安を抱えながら出かけてみることにしました。
この立て看板は11時開館に合わせて置かれたようで、もっと早い時間帯にはなかったので、右往左往しながらどうにか到着することができました。オープンまで時間があったので、掃除をしておられる女性に「この近くで、面白い見所はありませんか?」と尋ねましたら、首をかしげながら思案の挙句の言葉は「ないですねぇ」という声でしたので、東の方に見えるピンクの花でも見に行こうと歩き始めました。
この桜の美しさに導かれて、事前学習一切しないできたにもかかわらず、楽しい時間を過ごすことができました。公園の名前は立川第二児童公園ですが、通称“安兵衛公園”(豊島区立川3丁目15番6号)。
「忠臣蔵」ゆかりの地だったのです。このあたりに堀部安兵衛の剣術道場があり、元禄15年12月14日討入当夜、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に吉良邸表門と裏門に分かれて討入。この場所は、赤穂浪士たちの集合場所3つのうちの1つだったのです。掲示されている地図を見て訪ねてみようと思い立ち、立川沿いに歩いてみました。歴史説明版は2021年に設置されたようで、初めて通りを歩いた身としては、とても手がかりになりました。
後に分かりましたが、葛飾北斎も「忠臣蔵」にゆかりがあると自ら話していたようですね。母親が赤穂浪士から主君吉良上野介を守ろうとして討ち死にした小林平八郎の末裔だったとか。万治2(1659)年に堅川(たてかわ)が開削され、5つの橋が架けられました。隅田川に近い方から一之橋~五之橋と並びます。池波正太郎『鬼平犯科帳』では“二ツ目橋”として出てきます。
隅田川へと西へ向かう途中で目にした駒札「塩原太助炭屋隅跡」。初代三遊亭圓朝が明治11(1878)年に実在の塩原太助を主人公に『塩原太助一代記』を創作し、この人情噺は評判になり、代表作に。その後も芝居や、講談、浪曲などの題材として塩原助の話は親しまれています。
一見木製に見えて素敵な「塩原橋」です。橋に名前が付くほど人気を博した『塩原太助一代記』ですが、日本映画の父牧野省三監督も尾上松之主演で『塩原太助一代記』を1912年に作っているようです。おもちゃ映画で出てこないかしら?
隅田川から入って最初の橋「一之橋」の駒札。赤穂浪士の面々は主君の仇を討った後、泉岳寺へ引き上げる際に、最初に渡ったと言われている橋です。
そして着いたのが隅田川。「春のうららの隅田川~♪」そのものの眺めです。ここで回れ右をしてTOKASレジデンシーへ向かいます。
馬車通りを歩いて東へ。お洒落な装飾が目に留まり、かつてこの道路を馬車が行きかっていた様子を想像しながら、散策を続けました。
東京では「町屋」の漢字なのに、京都では「町家」の漢字を用います。このあたりに俳人小林一茶が一時住まいしていたようです。
四十七士の一人で、前述の「安兵衛公園」の駒札にも名前が挙がっていた前原伊助の「米屋五兵衛」があったところ。吉良上野介邸裏門近くで、吉良川の動向を探っていました。ということで、吉良邸裏門が近いことを知りました。やがて道沿いに幟が立っているのが目に入り、ワクワクしながら通りを北へ入ると、都指定旧跡「吉良邸跡」がありました。
見物客がチラホラ訪れていました。若い人の姿はなく、私も含めた年配者が多かったように思います。昨年12月8日同志社大学で「活弁口演で蘇るキネマ画『忠臣蔵』」をした折、児玉竜一・早稲田大学演劇博物館長が日本人が長い間大切にしてきた「忠臣蔵」のお話を、諦めずに若い人にも伝え続けることが大切だと仰ったことを思い出しました。
高家の格式を表す「なまこ壁」の前に、「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」の立派な石碑。
「みしるし洗い井戸」があって、ゾクッ。時間がなかったので中を覗くまではしていませんが。
主君を守ろうとして赤穂義士と闘って亡くなった家臣20人。その筆頭に葛飾北斎が自ら言うところの小林平八郎の名前が刻まれています。下掲の「新板浮絵忠臣蔵第十一段目」の中央に描かれている人物が小林平八郎で、その説明文では「曾祖父」とあります。
昨年12月8日キネマ画『忠臣蔵』上演会場に展示した「忠臣蔵両国橋引上之図組上五枚続」とよく似た錦絵。
吉良上野介義央公座像。配布されていたパンフレットには「忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県西尾市吉良町)では評判が高く、町の人は今でも「吉良様」と読んで敬っている善政の殿様でした。新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功をおさめ、特に一昼夜で築いたといわれる長さ182mの堤があり、この治水工事で豊作が保証されたことから、今でも「黄金堤」と呼ばれています。領地に滞在している間は赤い馬に乗って領内を巡回するのが日課としており、「吉良の赤馬」は名君吉良様と共に今でもその名を残しています」とあります。不勉強で、愛知県の塩業のことを知らなかったので、ネットで検索したところ、この文章が目に留まりました。
吉良邸跡の手前西に「飯澄稲荷」がありました。
この駒札によると、この神社のあたりに幕府御用達の鏡師だった中島伊勢の家があり、葛飾北斎を養子にしていています。先の小林平八郎の娘が中島伊勢に嫁いでいるとあり、祖父なのか、曾祖父なのかよくわかりません。が、北斎がこのあたりに住んでいたというのは、そうなんでしょう。
車道と歩道の仕切にも描かれている「吉良上野介」。『忠臣蔵』(池田富保監督、1926年)で山本嘉一が演じたいじわるそうな吉良上野介ではなく、領民に慕われている優しそうなお殿様の絵です。「所変われば、品変わる」ですね。
久し振りに歴史探訪をして面白かったので、長くなりました。続きは次回に。