2026.07.01column
武者行列を担った弓矢町の人々
今日は7月1日。祇園祭神事始めの「吉符入り」。各山鉾町会所二階で祇園囃子を練習する「二階囃子」が聞こえ始めます。7月5日「祇園祭と武者行列、そして幻燈『祇園祭』上演」をしますが、その5日に武者行列を担う弓矢町も「吉符入り」をするのだそうです。29日に弓矢町の岡田さんから、刷り上がったばかりの今年のリーフレットが届きました。


昨年は5名の方が甲冑姿で祇園祭神幸祭に参加されましたが、今年は鎧が1領増えて6名の方が参加されるとのことです。前進しているのは素晴らしいです。7月17日の神幸祭当日が晴れて凌ぎやすい日となり、安全に巡行されますように。
先ほど昨年6月14日に開催した「祇園祭と弓矢町-半世紀ぶり武者行列復活!」で、「描かれた武者行列」の演題でお話しいただいた京都市歴史資料館館長下坂 守先生の講演の終わり部分をメモしたものを読み返しました。なお、7月5日は先生の講演の様子を記録した映像をご覧いただきます。
……戦国時代に描かれた洛中洛外図屏風に必ず祇園祭が描かれている。お神輿が鴨川を渡って「洛中」へ入ってくる様子を定型化して描いている。繰り返して描かれているのは、京都の人々にとって大切な場面だということ。決まった場面で描かれているのは①四条橋 神輿渡御②四条仮橋 六人の「棒の衆」武者行列③祇園社の朱の鳥居。
1868(明治元)年の神仏分離令により八坂神社になったので、祇園の祭りは「祇園祭」とは公式に呼べなくなった。1872(明治5)年神様の祭りと私の祭りを分けてしまい、八坂神社の宮祭は行うが、私祭はできなくなってしまった。「私の祭りをなんとか執行したい」と京都の町衆は「自分たちの手でやりたい」と京都府に願い出た。京都府も祭が大事だとわかって許可する。その時中心になったのは、山鉾町の人達だった。弓矢町の人々も山鉾町の人々と一緒にやっていく流れになる。そうした中で、棒の衆や武者行列の在り方も変わっていったのではないかと思う。昔からやっていたことは確かだが、その中で時代に翻弄されることは必ずある。そういうことも見ていかないといけない。……
5日に上演する幻燈版『祇園祭』の元になった紙芝居『祇園祭』が作られた1952年当時、社会全体に国民的歴史学運動が熱を帯びて広がっていました。1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結で、また日本がアメリカ側の「冷戦の最前線(基地)」として組み込まれ、新しい戦争に巻き込まれてしまうのではないかと危惧した歴史学者や知識人は「二度と戦争を起こさないために、平民こそが歴史の主役だという意識を持つことが、再び軍国主義へ逆戻りするのを防ぐ道だ」と考えました。林屋辰三郎先生の教えを受けた京都大学や立命館大学の学生たちは、応仁の乱のために長く実施できなかった祇園さんのお祭りを、権力者側からの妨害に屈せず「自分たちの祭りは自分たちで守る」と立ち上がった話を作りあげ、小学校や公民館など各地で上演しました。これと同じような苦心や苦悩が明治初めの祇園祭にもあったのですね。

写真は、昨年6月14日トークイベントの様子。向かって右におられるのが、現在の弓矢町会長で、親子三代で武者行列に参加されていた山中信寛さん。ご子息は昨年に引き続き今年も大将を務められます。向かって左は弓矢町の古文書調査をされた愛知大学准教授佐藤弘隆さん(現:立命館大学准教授)。
佐藤先生は、「江戸時代後期の絵画資料を見ると武者行列が縮小していることがわかる」と『山鉾由来之記』(1836天保7>年、立命館大学アートリサーチセンター所蔵)を示しながらお話しくださいました。1682(天和2)年の時に539人も武者行列に参加していたのが、天保7年では30人程度にまで減少しています。鳥羽、日岡、桂、九条の宿の武者の消失と法師要素の減少が考えられるそうです。
近世京都における弓矢関連の「諸職名匠」の分布をみると、時代が下がるにつれて、弓矢関連は洛中において集中・拡大し、江戸時代前期弓矢町にたくさん住んでいた弦召と呼ばれていた人々は相対的に縮小していき、明治時代には完全に見られなくなります。江戸時代中期後期になると鴨川の東側がどんどん開発されて、人々の流動性が高まり、弓矢町もその影響を受けて弦召と言われていた人たちがどんどん姿を消していきました。
1872(明治5)年の武者行列に関する資料『祇園会諸事控』『祇園会武者神役連印』によれば、明治2年弓矢町の町中は、その役を担うはずの弦召が既にいないことから八坂神社に対して、武者神役への奉仕の断りを入れ、その後3年間にわたり武者行列は中断します。ところが明治5年下京11区の区長らが武者行列を再び「賑々しく」執行することを要請します。弓矢町の町中は一度断りますが、再度懇願されたため武者神役の再興を決定し、奉仕に関わる規則を制定します。祝祭性が強調された新しい時代の武者行列では、陣太鼓に先頭を譲り、棒の者は消滅。大将は乗馬に変わります(1899<明治32>年から)。ひょっとしたら甲冑姿で目を惹く紫や赤の太い腰帯は、この時からの装束かも知れませんね(歌舞伎の飾り帯から来ているのでは?との説もあるそうです)。
神仏分離令が出る以前は祇園社に付随していた弓矢町は、明治になって山鉾町の団体の一つになり、武具の確保の問題に直面します。「坂者」「犬神人」「弦召」と直接的に関係がなくとも、基本的に居町家持が「武者神役」として用意しました。大将一領と御使二領は町所有で、後のことですが明治16年に50円かけて鎧一具を新調します(それが現在の大将の鎧とみられ、昨年鎧廻舎さんからの声掛けで大将の鎧が修復され、そのことが契機となって昨年半世紀ぶりに武者行列が復興しました)。祭りへの奉仕は、他の山鉾町にしても同じでしょうが、弓矢町の人々にとって大変な負担だったようです。
それでも負担の重さがのしかかり、苦渋の決断で1974(昭和46)年を最後に武者行列は中断しました。当時の喜多内会長さんは「3年後に復活させたい」と語っておられましたが、2025年7月神幸祭に復興するまで半世紀かかったというわけです。近代以降、弓矢町の人々は苦しいなかを頑張って武者行列を継続してこられました。1974年当時をご存じの人がほとんどおられないので、「残っている写真しか手掛かりがなく、復活に関しては非常に難しかった。応仁の乱のあと祇園さんの祭りを復活させる苦心と重なった」と山中信寛さんが話しておられました。

写真は昨年復興した甲冑武者5名。右端が清々講社社長の高橋さん、女性が大将の鎧を修復された鎧廻舎明珍さん、5人の武者の中央が山中秀起さん。

今年も7月15日(水)と16日(木)に弓矢町内で武具飾りがあります。そして、弦召役の渥美清さんらも登場する映画『祇園祭』(1968年)が16日、17日、24日の13時半と17時から京都文化博物館にてフィルム上映されます。コンコンチキチン♪の囃子に誘われて、どうぞお出かけください。

7月5日当館では、映画『祇園祭』を大阪芸術大学の研究費で復元した太田が、当初の伊藤大輔監督が作りたかった映画のモチーフは、林屋辰三郎さんの教えを受けた学生さんたちが作った紙芝居『祇園祭』だったことから、再編集して作った研究バージョン『祇園祭』の一部を上映します。
上演する幻燈『祇園祭』と見比べながらご覧いただき、できれば降板した伊藤監督の後を引き継いだ山内哲也監督『祇園祭』を京都文化博物館でご鑑賞下さい。錚々たる俳優さんたちが出演したこの映画は、この機会でしかご覧になれません。


