おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.08.10column

イタリア文学研究者黒田正利さんの昭和20年日記帳から

たまたま昨夜のNHK「歴史探偵」を見ましたが、大変興味深かったです。テーマは「消えた原爆ニュース」。原爆のニュースは、終戦から6年間詳しく報じられなかったのですが、その背景に迫るという内容でした。番組を見ながら書いたメモから。

①被害の実態を記録した写真、残虐なものを世に出さなかった。

②放射線の影響とされる点についても詳しく報じられなかった。

番組の担当者が当時の全国紙を調べたところ、8月8日の新聞では広島の原爆について報じていますが、9月半ばになると原爆のことを報じる記事が減少し、10月には被爆地に関する記事がほとんどありません。

それはなぜか?ということで奈良大学の高橋博子教授を訪問。原爆に関する報道が減った背景には、朝日新聞が1945年9月15日、GHQにとって具合の悪い鳩山一郎の発言「原爆投下は国際法違反、戦争犯罪」を載せたことに、連合軍最高司令官マッカーサーが反応したことがあります。9月19日にGHQは朝日新聞の責任者を呼びつけ、ドナルド・フーバーが「新聞の発行を2日間停止する」という処分を下します。このことは他のメディアにも及び、あらゆるマスコミにプレスコードを通達します。GHQは事前検閲を徹底して、熱線や爆風、放射線の被害実態報道を封じました。

高橋教授が見せて下さったのがアメリカ国民向けに作られた映画『DUCK and COVER』。原爆から身を守るには、具体的な行動として「もぐって身を隠せ」と指導しています。実際の原爆の被害はまったくこのようなものではありませんが、アメリカの国民に対し、反対世論を抑える必要があったからですが、信じられないくらい原爆の被害を軽く考えています。1945年9月13日のニューヨークタイムズでも「廃墟となった広島から放射性物質無し」と報道していて、放射線の影響について全く触れていません。GHQとしては、自国民に核兵器が残虐である事実が知られたら、政府が批判されるので隠さねばならず、アメリカは原爆開発を進めるうえで、これが使えなくなっても困るので、連合国側海外特派員に対しても被爆地に入れないようにして情報のコントロールを徹底していました。

GHQの事前検閲は1948年に終了しますが、それ以降も日本のマスコミ自身による検閲は続き原爆による被害の実態報道は変わらなかったのです。それはマスコミ全体がプレスコードを意識して自主規制していたからです。高橋先生は「お上に対して気を遣う国民性」を挙げておられました。「なるほどなぁ」と思います。5日の中尾知代先生の講演会で「世界は日本がまた同じことを繰り返すと思っている」と仰ったこととあわせて、恐ろしいことだなぁと思います。

この傾向が変わる契機になったのが、京都大学の学生が開催した「原爆展」でした。1951年4月、京大で天野重安先生が原爆についての講義をし、残存放射能の恐ろしさを伝えました。それを聞いていた学生たちは「知ってしまった以上は、知らせなあかんやろ」と立ち上がりました。資料の貸し出しを大学に求めてもだめだったことから、学生たちは自ら被爆地を訪れ、被害に遭った人々に話を聞こうとしますが、事情が良く分かっていない当時のことゆえ、被爆者たちは「うつる」とか言われて差別されていたし、「今さら言っても」と協力を得られませんでした。そんな中、永田格さん(今96歳)が依頼した吉川清さんは、真実を伝えねばと熱心な学生さんの姿に共感し、被爆した背中を写した写真で協力されました。

1951年7月京都で「原爆展」が開催され、3万人以上が詰めかけたそうです。学生たちは、当時朝鮮戦争が起こっていて、自分たちがいつまた戦争に巻き込まれるかもしれない不安と、核が再び使われることがあってはならないという思いで一生懸命でした。「原爆展」から1年後、ジャーナル誌『アサヒグラフ』が特集し、いろんなところで「原爆展」が開催されたということです。

長々と備忘録を兼ねて、夕べの番組内容を書き出してしまいました。

昨日は78回目の「長崎原爆の日でした。手元に京大でイタリア文学を教えていた黒田正利さんの昭和20年の日記帳があります。2019年8月9日のガラクタ市で見つけた手のひらサイズの小さなものです。

この日記帳については、購入した日のブログでも書いています。8月6日は「9、15、新妻、入営、退所」のみ記述。7日は買い出しのことなど。8日は、御影、西宮、住吉、根こそぎに破壊焼き尽くされ「広島は焦土に帰す。国民の行ク末如何」、9日は野菜などをわけて下さる人に感謝し、10日は「広島ハ●二●強ナル破却ノ仕方也 8、9、0、10、ソ連は東部正面地上攻撃ヲ始ム満洲内地二空爆」、8月13日「広島空爆ハ爆薬二加フル二光線ト●●トノ由 残酷サ思ヒヤラレ、来ルベキ京都惨状ヲ憂フ」、8月15日「正午、終戦、無条件降伏ノ事、天皇直接二ラヂオニテ放送サル、近所ノ家ニテ聞クモ不明瞭ナルモ大体解ル。」

情報がコントロールされていたとはいえ、この時点で広島の原爆投下を8日には知り、8月9日未明にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻してきたことも翌日には知っています。日記は8月18日まで、同様に短文でメモ書きされていますが、長崎の原爆投下には触れていません。その後は昭和21年元旦に書き出すまで日記は空白が続きます。敗戦による無力感が筆を執る気力をも奪ったのかも知れないと勝手に想像しています。

先のリンク先のブログで書きましたが、黒田先生は京大大学院でイタリア文学研究を始め、1931年に京大文学部講師として就任し、日本とイタリアの政治的接近の時代背景もあって、1940年日本で最初のイタリア語イタリア文学講座が京大に開講します。1936年第1回日伊交換留学生制度でやってきたジュリアナ・ストラミジョーリは黒田先生らのもとで学び、イタリア代表の若者として原稿を書いたり、講演したりして活躍します。

敗戦後困難な時代を経て、ストラミジョーリが1949年に設立したイタリフィルム社は、優れたイタリア映画を日本に紹介し、日本の映画人にも大きな影響を与えます。その影響を受けた一人黒澤明監督の『羅生門』(1950年、大映)が、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞した背景には、彼女の多大な功績があります。この映画祭で日本映画が初めてグランプリに輝いたことは、前年1949年の湯川秀樹博士が日本人初のノーベル賞受賞と同様に、戦争で打ちひしがれ、自信を無くしていた時代にあって明るい話題となりました。それまでほとんど知られていなかった日本映画が世界に進出する契機ともなりました。この映画の撮影を担当した宮川一夫先生の映像表現は今も世界の映画人から高く評価されています。

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