おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.12.19column

【お詫び】12月23日開催講演と参考上映のチラシに用いた山鉾の写真は明治時代のものでした

12月16日に京都市内鯉山町の三宅隆司さんが訪ねてこられました。2020年7月24日に“映画「祇園祭」製作上映協力会”事務局長だった堀昭三さんと一緒に活動を支えた人々、それに滋賀県立大学教授京樂真帆子先生たち研究者の方にも来ていただいて開催した折のブログを読まれて、興味を持って下さったのだそうです。その折交わした会話では、頼りない私は自分たちの誤りに気が付いていなかったのですが、今日になって、その折の振り返りを書いていて、ようやく「そうだったのか!」と間違いに気付きました。何ともお恥ずかしい次第です。
実は、このチラシに大きく載せた写真には「映画『祇園祭』1968年、山内鉄也監督)撮影準備風景」と書いていますが、もっと古く明治時代の写真でした。お詫びして訂正します。今改めて三宅さんに電話で尋ねましたところ、この写真は「明治12(1879)年の写真」と関係者の間では言われているそうです。明治12年頃は乾板写真の時代でしょうね。
 
三宅さんが読んで下さったブログには、堀さんから見せて貰った下掲写真を載せていて、その文中には堀さんが話された言葉として「京都御所の丸太町通りの石垣を壊して鉾を入れている写真。大津事件の1~2年前にドイツの大使が来て、その時鉾を見せるためにしたことだとわかりました」と書いています。
これまでやった「祇園祭」展の資料をファイルに入れていて、記憶が遠ざかっていた太田が「こんなに山鉾が列を成し、しかも山々が写り込んでいないのは、新丸太町通りで映画『祇園祭』を撮影しているときに違いない。ローアングルから撮れば山は写り込まない」と思い込んで、「映画『祇園祭』1968年、山内鉄也監督)撮影準備風景」と書き添えてしまいました。三宅さんによれば明治12年ごろの京都御所は荒れ果てていて、その前後に植樹しているのだそうです。御所でもローアングルから撮れば山は写り込みません。
 
三宅さんは当日1冊の本を見せて下さいました。八反祐太郎著『描かれた祇園祭-山鉾巡行・ねりもの研究-』(2018年1月、思文閣出版)です。その本の中に、上掲写真と連続する写真2枚が載っていたのです‼
 
それがこれ。堀さんから見せて貰ったのは377、八反さんの本に載っていたのは378と379のように読めます。ただし、その写真説明が「明治26年岡崎大極殿四回博覧会地鎮祭の時地かための為め引出せしの時の写真」となっています。この説明文は写真の裏にあった書付によります。岡崎で第4回内国勧業博覧会が開催されたのは1896(明治28)年4月1日~7月31日のことで、堀さんがいう大津事件は1891(明治24)年5月11日のこと。もう一つ1879(明治12)年も加わり、ちょっと時期がいろいろあってどれが正解かわかりませんが、とにかく1968年でないことだけは確かです。申し訳ございません。
 
八反さんは、この2枚の写真を紐解こうとされたことが続きのページに書いてあるようですが、生憎手元にその本がないのでそれ以上詳しいことはわかりません。三宅さんは古い新聞も繰ってみて、「おそらく堀さんが仰る通りだろう」と話しておられましたが、いつか私も古い新聞を調べてみなくちゃと思います。ともあれ、上掲写真377には、三宅さんが調べておられる後祭の鯉山が写っているのだそうです。1枚の写真、されど貴重な1枚の写真‼
 
やや、話がずれますが、1月からは「友禅染めの着物で“映画”をまとう~初期映画と染織に尽力した稲畑勝太郎にも触れて~」を開催します。この稲畑勝太郎ですが、1891(明治24)年5月9日ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ入洛に際し、当時は“稲畑商店”店主ですが、通訳として案内役をしています。語学に秀でていたことがこの大役に任ぜられた所以でしょう。まだ小さい国だった日本は、この時国を挙げての訪日接待だったようです。
 
さて、三宅さんも参加を申し込んでくださった12月23日13:30~、滋賀県立大学教授京樂真帆子先生の講演「祇園会から祇園祭へ-映画『祇園祭』から消えた僧兵-」と『祇園祭』(太田米男研究バージョン、135分)は、京樂先生の新刊発行のお祝いと、季節外れの巡行もしばしばあった中世の追体験になればとこの時期に計画しましたが、
 
 
先ほど出版社から届いたチラシによれば1月中の出版に伸びたようです。講演会に間に合わないのは残念ですが、致し方ないですね。まだお席に余裕がございますので再度のご案内です。
 
上映する映画は1968年に、当時の蜷川虎三知事率いる京都府が府政100年記念事業と位置付けて製作に協力し、府市民も積極的に協力した作品です。主人公を演じる中村錦之助の呼びかけに呼応して、出演者は岩下志麻、田村高廣、三船敏郎ら実に豪華な顔ぶれです。諸般の事情で無念な思いで途中降板した伊藤大輔監督の後を引き継いでB班監督だった山内鉄也監督が完成させました。けれども、そのフィルムが経年劣化で退色していたので、2007年に大阪芸大の助成金を得て太田米男が修復しました。
 
 
生前の山内監督からこの作品についての経緯を聞いていたこともあり、残っている伊藤監督の資料をもとに、伊藤監督が当初構想したもの、また山内監督にとっても不本意に終わった箇所があり、このような作品ではなかったかと太田が研究バージョンとして編集を試みたものをご覧頂きます。
 
アメリカで上映されたケースでは、当時の新聞記事から2時間10分程度にカットされていた場合があったことが分かっています。残念ながら今の段階ではどの部分がカットされたかは分かっていません。他にも三船敏郎人気から様々な国で上映されていたことが、堀昭三さんがお持ちの資料からわかっています。海外で上映するには、各国の字幕が必要ですし、マスターポジといって、複製ネガを作る中間素材(インターメディエイト)フィルムも存在するはずです。今、京都府には海外版用のマスターポジも複製ネガも残っていません。だから、どこかの国に上映プリントが残っていないかと探しています。このことは、以前も問いかけたのですが、今のところ連絡はありません。それが、とにかく残念です。何かご存じの方がおられましたら、ぜひご連絡をお願いいたします‼
 
【12月22日追記】
どうにも今回のチラシで用いて誤った表記をしてしまった山鉾の写真が気になり、この写真を見せて下さった堀 昭三さんに再度確認しようと、昨夕自転車に乗ってご自宅に行ってきました。コロナ禍の間お会いしていなかったので、お元気なのかも気になっていましたから丁度良い機会だと思って。呼び鈴を何度鳴らしても反応がなく、お留守なのかもしれないと帰ろうとしたその時、玄関に人影が見えました。「あら、嬉しや」、堀さん在宅でした。当初はなかなか思い出してもらえませんでしたが、話をしているうちに記憶が蘇ってきて「壬生車庫の近くの…」と仰って下さり嬉しかったです💗1927年7月生まれですから今、96歳。耳が遠くなり、片目も見えなくなったそうです。肝心の「御所に入った山鉾」の写真については、もう記憶がないとのこと。ご自分が撮った写真でもないので仕方ないですよね。その点は残念でしたが、奥様と二人元気でお暮しだったので安心しました。時々、私どものことを「どうしているか?」と気にかけていてくださったこともお聞きして、大変嬉しく思いました。
 
そして今日は、京都府立図書館へ行って調べてみました。そして例の写真が載った冊子を見つけました‼
『近世祇園祭山鉾巡行志』(祇園祭山鉾連合会田中常雄編、1968年7月11日発行)の61~61頁に「明治12年山鉾御所参入の光景」として、その折のことが書いてあります。、この年は京中にコロナが流行したため7月の祭礼は延期になり、11月7日に神輿迎えをしました。たまたまドイツ皇孫が入洛されるので、その歓迎に7日の前祭が終わっても山鉾は解体せずにおいておき、13日後祭の宵山は前祭の山鉾も一緒に点灯して囃子をしたので空前の賑わいになったそうです。15日三条堺町に集合した山鉾はその年のくじ通りの順で御所へ参入し、夜は当時京都御苑内で行われていた京都博覧会場に装飾品を預け、16日朝、係りの者総出で飾り付けをして建礼門前通りに整列。午後2時にドイツ国皇孫殿下も着席されて見学され、午後4時に曳き出し巡行しています。確かに鯉山も後ろから3つ目に巡行しています。以上のことは郭巨山町と占出山町保存文書に保存されていた文書によるそうです。改めて93歳だった時の堀さんの記憶の確かさに脱帽です。結局チラシに載せた珍しい山鉾の写真は、1879(明治12)年11月、ドイツの皇孫殿下にお目に掛けようと御所参入した折のものだとわかりました。
 
 
 
 
 
 

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