おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2024.01.22column

久し振りの東京見聞録

1月20日(土)東京の“たばこと塩の博物館”(東京都墨田区横川1-16-3)で開催中の「見て楽し 遊んで楽し 江戸のおもちゃ絵  Part2」展示 関連講演会に行ってきました。展示は昨年12月2日~27日までの第一部と1月4~28日までの第二部に分かれていて、この第二部は、児童文学研究者の故アン・へリング先生のコレクションで構成されています。晩年のへリング先生と知り合い、当館のことを気に入って下さったこともあり、2020年2月16日には、『おこんじょうるり』『モチモチの木』などで知られるアニメーション作家岡本忠成さんの没後30年を記念して、親しくされていた岡本さんの思い出をお話して下さいました。その様子はこちらで書いています。

20日は、私どもが知り合う遥か以前から展示や講演なので親交があった同館元首席学芸員で、現在は静岡市東海道広重美術館をされている岩崎均史さんと今回の展示を担当された主任学芸員湯浅淑子さんのお話「へリングさんの思い出」をお聞きできるとあって申し込み、出かけてきました。聴講希望者が多くて抽選に漏れた方が幾人もおられたとお聞きしました。

14時からの講演にはまだ時間があるからと、午前中に印刷博物館(東京都文京区水道1-3-3)で開催中の「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展を駆け足で見学。

いつも「印刷博物館ニュース」をお送りいただいているのですが、私は初めての訪問です。TOPPANの立派な社屋を見上げました。映画誕生に結び付いたものとして、当館ではマジックランタン(幻灯機)、光学玩具、写真の3つを映画前史として少しばかり展示して紹介しています。映画が誕生して以降もそれぞれが発展して今に至るわけですが、その内の一つ写真と出版に関連して学べる機会だと思い、出かけてきました。

小川一眞の名前は聞いたことがありますが、どの様な人物かを知る良い機会です。地下に降りると受け付けがあり、そこで入館料500円を支払います。

特設コーナーで迎えてくれたのは、木製製版カメラ。『創業紀念参十年誌』の「小川一眞肖像」をコロタイプと写真凸版で印刷する工程を映像と写真パネルで展示していました。日本に写真術や石版印刷術が入ってきたのは、小川が生まれた幕末期の1860年頃のこと。忍(おし)藩士原田庄左衛門の次男朝之助として万延元年に生まれ、3歳で小川石太郎の養子となり、名前を一眞と改めます。13歳で入学した東京の報国学社で写真好きの英人教師ケンノンと出会い、写真に興味を持ちます。卒業後熊谷の吉原秀雄写場で湿板写真術を学び17歳で群馬県の富岡で撮影業を始めます。21歳で再度上京し、横浜警察署で英語通訳の仕事をしながら学費を蓄えて1882年に築地大学校に入学。半年後、米軍海軍軍艦スワタラ号に乗り込み渡米。主にボストンの写真館リッツ&ハスティングスで働きました。ここは撮影だけでなく、写真製版部もあり、写真帖の印刷も手掛けていて、多くのことを学ぶことが出来ました。当時のアメリカではガラス湿板からガラス乾板が使われる時代に移行していて、ジョージ・イーストマンがガラス乾板の大量生産を可能にする機械を考案し、1880年から商業生産を始めていました。

ボストン時代に彼は撮影技術、暗室技術、乾板での撮影と乾板製造、コロタイプ印刷などの写真製版術を習得します。1884年に帰国し、翌年麹町区飯田町に営業写真館「玉潤館」を開設。1888年にはコロタイプによる写真製版印刷を始め、神田区三崎町に写真製版工場を作ります。同年に明治政府による近畿宝物調査が実施され、彼は撮影の任を帯びて参加します。調査団には九鬼隆一や岡倉天心、フェノロサなどがいました。岡倉天心らは小川の写真と印刷の技術を高く評価します。翌年高橋健三、岡倉が國華社を設立し、日本最初の美術雑誌『國華』を創刊、小川が調査で撮影した「無著像(むちゃくぞう)」がコロタイプ印刷で表紙を飾ります。多くの写真集をこの方法で印刷出版しました。コロタイプ印刷は、感光液を含んだゼラチン(コロジオン、膠)が光にあたると硬化する性質を利用した方法です。

1893年アメリカのシカゴ万国博覧会の会場風景を撮影するために再度渡米した小川は、日本政府が日本の品位と威厳を示すために宇治の平等院を模して建築したパビリオンに解説書がなかったことを知り、現地で岡倉天心の解説による英語の解説書を網目版印刷で出版します。当時のアメリカで広まりつつあった技法です。版の材料は亜鉛、銅、マグネシウムなどの金属、今では樹脂を使うこともあるそうです。この技法を用いて小川は、日清、日露戦争をはじめとする様々な報道で尽力しました。用途に応じて、コロタイプ印刷と網目版印刷の二つの写真製版を使い分けていたようです。語学が出来たことも身を助けましたね。亡くなったのは1929年。テレビやラジオもなく紙媒体が主の明治時代、写真が入った印刷物が果たした役割は大きかったでしょう。

チラシも凝っていて「小川一眞と写真製版」などの文字は銀の特色印刷。図録を買おうと思いましたが、3,520円と高額なのと重いので断念。自分のところで印刷製本されたでしょうに、こだわりが一杯詰まっているのでしょう。今当館で展示している稲畑勝太郎の年表と比較すると、稲畑は小川の2歳下。共に先進技術の国で自ら学び、時代を切り拓いてきました。誠に、あっぱれ‼

近くに特別史跡・特別名勝小石川後楽園があると分かり、行ってみました。寒い日で今にも雨が降りそうな気配だったこともあってか、人出はそれほど多くなくて、静かに散策することが出来ました。

受付へと向かう途中の石垣に、江戸時代初期に江戸城の外堀を築いた各地の大名の名を表した「刻印」をいくつも目にしました。この石垣は江戸城外堀にあった石垣を再利用していて、小石川後楽園が作られた当時(17世紀初期)の「打ち込み継ぎ」と呼ばれる石積技法で再現されているそうです。小石川後楽園を築いたのは水戸徳川家の祖、頼房が、その中屋敷(後に上屋敷に)に造ったもので、二代藩主光圀の代に完成した庭園です。池(大泉水)を中心にした回遊式築山泉水庭園。光圀は明朝滅亡後に日本に亡命していた儒学者朱舜水の意見を聞いて、中国の風物を取り入れ、園名も朱舜水の命名に依るそうです。「後楽園」の名は、范仲淹の『岳陽桜記』の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名付けられたとか。国会議員の裏金問題で取り出たされている方々は自分たちの益ばかりを優先していて、困難な状況にある多くの国民のことを顧みていない。全く情けない。水戸黄門さまの爪の垢でもというより、即刻退場して貰いたいです。

いずれ余裕があれば、自分のブログで書きたいので多くは書きませんが、「一つ松」は、光圀が大切にした松だと言われています。石川県の兼六公園の雪吊りも季節の話題としてよく報道されますが、

雪吊りの仕方や形に違いがあるのを初めて認識しました。雪吊りには「兼六園式雪吊り」と小石川後楽園(上掲写真)のような「北部式雪吊り」、もう一つ「南部式雪吊り」の3方式があるのだそうです。亡くなった父も雪吊りをしていて、雪の季節の前に庭の木々の枝を直接荒縄で吊って囲い、重い雪から保護していました。雪吊りを見ると父を思い出します。もちろん「兼六園式雪吊り」です。

飯田橋駅まで急いで戻り、押上駅へ向かいました。東京の人たちは張り巡らされた鉄道網を熟知されているのでしょうか?本当に難しくて緊張しますが、何とか無事に到着し、講演開始時間に間に合いました。

初めて訪れた“たばこと塩の博物館”。昨年3月19日にマジックランタンの小冊子2冊を発行し、それを記念して執筆者3名の方に登壇して頂いて講演と、所蔵している幻燈機と種板を用い、トイピアノの演奏に合わせて上映する催しをしました。その時へリング先生から寄贈頂いた「カチカチ山」なども展示して、実際に投影もしました。その様子を最もご覧頂きたかったのが長年へリング先生の助手をされていた山田恭子さんでした。ところが何というめぐりあわせか、この日に、へリング先生のコレクションが“たばこと塩の博物館”に搬出の日と重なってしまいました。山田さんはコレクションの搬出を見送るため、当館への来館を見送られました。“たばこと塩の博物館”の玄関に佇み、10か月前のそんな思い出を思い返しました。

1月20日の講演会で主任学芸員湯浅淑子さんが話しておられましたが、“たばこと塩の博物館”はへリング先生のコレクションの安住の地ではなくて、保存先が確定するまで預かって下さり、その間に資料の調査をして下さるということなのだそうです。多くのコレクションの保存・管理という問題は、全く他人ごとではありません。

入口にシンボルモニュメントのブロンズ像が。1978年渋谷・公園通りで開館した際に制作されたものだそうで、2015年4月にブロンズ像も一緒に現在地に移転してきました。原型は、19世紀初め頃スウェーデンのたばこ屋が看板としていたものだそうです。12月まで開催し、展示していた南方抑留者が綴った“田所日記”には、煙草が吸えない苦痛が書いてありました。「みんなで世話をするたばこは上手く育たないが、自分で植えたたばこは順調だ」という内容の記述があったことを思い出しました。吸いたい一途な思いでマメに世話をしていたからでしょう。同館ホームページを読むと、日本にたばこが伝来したのは16世紀末とのこと。

このビルの2階がコレクション展示室で、3階で講演が行われました。この日はアメリカからへリング先生のお嬢様がお越しでした。

岩崎均史さんの講演が始まりました。スクリーンに若き日のへリング先生の写真と、イラストレーターでへリング先生と親交が深い吉田稔美さんのイラストが映っています。吉田さんにはへリング先生を紹介して頂き、その後の交流や亡くなって後も何かと尽力して頂いています。今回の展覧会・講演につきましても随分お骨折りいただき感謝しています。

スライドでまだ小さかった頃の可愛らしいへリング先生の写真や、

珍しいスカート姿の写真も見せて頂きました。1973(昭和48)年にモービル児童文化賞を受賞された時の様子で、左写真には椅子に座っておられるお母様の姿も写っています。これまでも何回にもわたって“たばこと塩の博物館”で講演をされていたそうで、岩崎さんとは古いお付き合いがおありで、様々なへリング先生らしいエピソードを話してくださいました。お人柄を知る参加者の方々は、懐かしそうにそれぞれが知る状況を思い浮かべながら思い出し笑いをされていました。企画展を通して交流があった学芸員の湯浅淑子さんから時々の突込みもあって、和やかな良い講演会でした。入場時に配られたのは、1986(昭和61)年1月4日~2月16日まで開催された企画展「江戸の遊び絵」展と翌年1987年12月5日~1988年1月31日まで開催された企画展「江戸の遊び絵~立体浮世絵 組上げ絵の華麗な世界~」のチラシコピーでした。さらに、2020年9月12日~10月18日に「江戸のおもちゃ絵展」をされた続きということで、今回の企画展はPart2 となっています。

岩崎さんが最初からへリングさんをご存知だったわけではなくて、1985年、豊かだった江戸時代の出版文化に注目して、それらを紹介をしようとしておられたところに、風の便りにへリング先生のお名前が聞こえてきて、「へリングさん」探しから始まったご縁のようです。へリング先生が日本の江戸時代から明治にかけて子どもたちが親しんだ紙文化に関心を持って資料集めされていた頃の様子を、日本映画史家本地陽彦先生が懐かしく思い出され教えて下さった内容をブログで紹介しています。本地先生がへリング先生と知り合ったのは、半世紀ほど前のことで、新宿区にあった古書店に勤めておられた頃のことだそうです。来日して間もなくから、日本人が当たり前すぎて重要視してこなかった紙製玩具に興味を持ち、収集し、それをもとに研究を重ねてこられました。それは福笑い、双六、着せ替えが出来る姉様人形であったり、カルタや、大きな組上げ灯籠だったり、と多種多様にありますが、遊んだら捨てられるのが当たり前だったがゆえに残っているものが実際には少ないです。

ここで紹介された江戸流歌舞伎の舞台装置家の高根宏浩さんや上方文化研究の権威、肥田晧三さんらとの交流がへリング先生の研究をより深めることになりました。その知識と好奇心、探求心、それに持ち前の人懐っこさが功を奏して、先生が「これは!」と思って収集された数多くのコレクションが2階展示場に並べてあり、多くの人が見入っておられました。日常の暮らしの中にあった紙製のモノたちが、へリング先生に拾い出されて、ガラスケースの中に納まっていました。「へリング先生、良く見つけて残して下さいました」と言いたくなるようなものばかり。

へリング先生のコレクションを立体的に組み立てる作業をされたトニー・コールさん(右端)。作品は四代歌川国政画『忠臣蔵義士引上ケ組立燈籠三枚続』で主君の仇を討ち引き揚げてくる四十七士率いる内蔵助と馬上の役人が会話している場面。ちゃんと目が合うように配されています。掲示されていた組上げ灯籠についてのキャプションでは、「へリング氏は、組上げ灯籠の収集に特に力を注いでいた。複数枚で一つのセットである場合、たとえセットが揃っていなくとも、1枚のみであったとしても、収集の対象としていた。つねづね『組上燈籠考』の著者である高根宏浩氏に直接教えを受けたことを誇りとしていて、組上げ灯籠に対する思いは強かった。組上げ灯籠は、元々は上方が発祥であり、「立版古(たてばんこ)」という呼称が知られ、現在では俳句の季語にもなっている。しかし、この「立版古」については、肥田晧三氏が指摘する通り、資料中に見える呼称ではない。上方での浮世絵の呼称である「はんこ(版行)」を組み立てる、という意味の上方の言葉とされる。へリング氏は、上方の組上げ灯籠について「立版古」と呼ぶことは否定しなかったが、江戸の組上げ灯籠については、「組上絵あるいは組上げ灯籠と呼ぶべき」と指摘していた」そうです。

写真手前に錦影絵池田組を主宰されている池田光惠先生。江戸時代、マジック・ランタンがオランダから長崎の出島に伝わって以降、錦影絵は日本独自に考案され楽しまれた幻燈文化ですが、関東では「写し絵」と呼ばれています。立版古と組上げ灯籠、錦影絵と写し絵の関係を思い、面白いです。

組上げ灯籠は江戸時代の明和の頃から大正時代までに栄えた木版出版文化で、近代になって印刷のその後を引き受けたのが小川一眞のようなコロタイプ印刷や網目印刷でした。展示している紙遊び道具たちは、色彩も豊かで、これを和ばさみで丁寧に切って糊で貼って遊んでいた文化が、やがて「凸坊新画帖」と呼ばれる国産アニメーションを生み出します。初期のアニメーションは紙を和ばさみで切り出しながら、一コマ一コマ動かして撮影していました。茶の間で楽しまれていた紙文化が、アニメーション大国と呼ばれる今日のアニメ文化の土台を築いていたのかもしれないと思いながら、へリング先生が慈しんだ“おもちゃ絵”を見てきました。

中央が山田さん。長年にわたりへリング先生をサポートしてこられ、亡くなった後もその片付けなどを一生懸命されていて全く頭が下がる方です。右は壱岐國芳様。人形アニメーション作家の持永只仁さんや川本喜八郎さんの功績を称えようと尽力されている方です。昨年12月15日、丁度、早稲田大学名誉教授草原真知子先生が1月から始める「友禅染めで“映画”をまとう」の展示の打ち合わせで来館された折に壱岐様が訪ねて来られました。おしゃべりの中で、「日露戦争の“日本海海戦”と“奉天会戦での騎兵の活躍”の絵柄の晴れ着姿の写真が残っているはず」と仰ったので、今回の展示に実際に身に纏っている幼子の写真があれば素晴らしいと思って、ぜひ探して貸してほしいと依頼しました。が、残念ながら見つからなかったそうです。これをお読みになった方で、そういう「面白柄」の着物を身に纏った写真をお持ちでしたら、ぜひご一報をお願いいたします。それも貴重な資料となりましょう。左はペーパークラフト作家の千葉浩司さん。吉田稔美さんから「へリング先生の著書『おもちゃ絵づくし』(玉川大学出版部、2019年)が出版できたのは、山田さんと千葉さんの助力のおかげ」と教えて貰いました。

皆さんと記念写真。壱岐さんが撮って下さいました。前列右から吉田稔美さん、山田恭子さん、池田光惠先生、私。後列右から草原真知子先生、千葉浩司さん、「晩年のへリング先生にいろいろ話を伺った」と仰る伊藤さん。舞台装置の研究もされている若者です。へリング先生がこうして皆さんとを繋いでくださいました。ありがとうございました‼

 

 

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