おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2024.01.24column

遅まきながら、12月2日南方抑留をテーマにしたシンポジウムの振り返り

昨年11月1日~12月24日まで南方抑留をテーマにした展示をしました。ブログでは何度かその様子を書きましたが、12月2日に同志社大学今出川キャンパスで同大ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センター長小黒純教授のご協力で実施したシンポジウムについては、多忙もあってまだ振り返りが書けずにいました。私が知っている範囲では、個人のブログで感想を書いて下さったり、活動されている団体の発行物に催しの案内を載せて下さったり、当日の感想を載せて下さった参加者もおられます。先ずは余り知られていない“南方抑留”について知って貰うことが目的でしたから、こうして応援して頂き、さらに広がっていくことをとても嬉しく思っています。

そして何より嬉しいことは、野田明さん(1922-2018)が命懸けで持ち帰られた多くのマレー抑留のスケッチ画と野田さんが所属していた“エンダウ海軍作業隊”で手作りした文集『噴焔』が、シンポジウムを実施したことが契機となって、活字化に向かって歩き出したことです。シンポジウム翌日の12月3日付けブログで書いていますが、京都大学東南アジア地域研究所准教授の山本博之先生が貴重な資料だからと本出版に向けて取り組んで下さることになりました。マレーは先生が高校生の時留学された地であり、現在の研究のフィールドでもあり現地の様子をよくご存じなので心強いです。

展覧会終了前と1月18日にもお越し下さり、野田明廣さん(明氏のご長男)からお預かりしていたスケッチ画や『噴焔』、2015年の長崎新聞スクラップなどの資料一式を見ながらお話をして、明廣さんの許可を得て山本先生にそれらを預けました。既に先生はマレーに残る資料などにもアクセスされているようで、この資料群は両国の近現代史にとって大切なものとなるでしょう。文集の活字化したものだけでなく、スケッチ画も載せた本が出版できることが希望です。元旦に発生した令和6年能登半島地震を見ていると、「1点しかないかけがえのない資料の保存」が自然災害の多い国ゆえ心配ですが、本として収録できれば不測の事態に遭遇してもどこかに残るでしょうから安心です。研究者もアクセスが楽になり、より一層研究が進むことが期待されます。

この23日に、山本先生が長崎県佐世保市の明廣さんにご挨拶に行かれ、明さんの話や出版についての打ち合わせをされたとお聞きしました。山本先生自ら浦頭記念館へ行かれたほか、明廣さんが旧海軍墓地、海上自衛隊資料館、国立公園弓張岳展望台を案内されたとお聞きし、順調に進んでいることを本当に嬉しく思います。佐世保は山本先生のおじいさまがそこから南方戦線に出征され、お父様も高校まで佐世保にお住まいだったとお聞きしました。しかも“エンダウ”は留学地の近くだったそうで、偶然とはいえ、いろんなご縁で繋がっています。

『噴焔』は手作りのガリ版印刷ですし、77年前に作られた文集ですから、文字も読みにくくて活字化するのは大変でしょうが、目標は戦後80年の2025年。山本先生たちの頑張りに期待しています。そして、生前の明さんから直接お話をお聞きになっていた岡山大学大学院准教授中尾知代先生の更なる研究が進み、内容がより一層充実したものになることを楽しみに待ちましょう。

12月2日会場の同志社大学良心館RY106教室に、たくさんの方がお集まりくださいました。その様子を撮影した動画を2回に分けてYouTubeで公開しましたので、ご覧頂ければ嬉しいです。第一部=https://www.youtube.com/watch?v=0gWQem3SVPA&t=6s▼第二部=https://www.youtube.com/watch?v=qzA2D2V9Lx4&t=38s

最初に15分程度の動画をご覧頂きました。①2015年に野田明さん(当時93歳)宅を中尾先生が訪問されてお話を伺っている場面を撮影したニュース番組の特集②1945年頃、インドネシアのモロタイ島捕虜収容所③1945年、イギリス軍管理下の香港の捕虜の様子④1946年、オランダ軍管理下のボルネオ附近の捕虜収容所⑤製作年不詳ですが、イギリス軍管理下の香港スタンレー刑務所のBC級戦犯の日本軍中佐らを記録した映像の5本で、南方抑留がどのような状況だったかを知る手掛かりにと思って集めました。

今、改めて見て漸く気付いたのですが、12月7日に知人から寄贈して貰った『ある戦犯の記憶-水口喜一が語る、繁主計大尉の生き様』(2012年)も毎日ご覧頂いたのですが、それが④のバリックパパンにある収容所でのことでした。現地で起こったある事件の責任を負わされて29歳の若さで銃殺刑に処せられた京都出身の水口繁主計大佐についての映像です。④の映像では大勢のJSPが収容所から輸送船の港に向かう映像と共に、それを見送る戦争犯罪人たちの姿も映っていました。彼等のその後も気になります。⑤の映像は、墓標に刻まれているカタカナ文字をJSPが、取り囲んでいるイギリス軍兵士たちに読んで聞かせている場面でした。

続いて中尾知代先生の講演「敗戦後、東南アジアで抑留された日本兵」をしました。冒頭で⑤の映像について「スタンレー収容所は、連合軍の捕虜がたくさんいたところ。そこで死んだイギリス軍の捕虜の名前を刻んだ木の墓標に『ここには○○という人が埋まっています』と今は日本人の捕虜が説明させられている映像でした。たくさん映っているイギリス軍兵士の表情が険しいのは『お前たちは俺たちの仲間を殺したな』という眼差し。勝者だった側が敗者の側になって入れ替わるやり方はよくありました。立場が入れ替わって賠償金の代わりに強制労働させられたという考え方が大勢を占めています」から始まりました。英国南方軍総司令部マウントバッテン卿がマッカーサーに手紙を出したという資料が残っていて、日本人を捕虜(POW)と呼ぶと、捕虜になるのは武士道に反し、みっともないと死んでしまうかもしれない。降伏日本兵(JSP)という呼び方にして、働かせたらいいという考え方もありました。野田さんがいたエンダウは今も森林公園が広がっていて、当時は森林を伐採し、木を運び出し、開墾して水田にする過酷な作業でした。野田さんは「お腹が空いたのが一番辛かった。昼はおにぎり1個。苦労して稲を育てても、収穫した米はイギリス軍が取り上げ、自分たちは食べられなかった」と証言。

野田さんが持ち帰られたスケッチ画にイギリス兵が描かれている唯一の絵。左端に半ズボン姿で描かれていて、その前に描かれているのが日本兵。収穫した米をトラックに積んでいる様子。「これによって、本当の統治者はイギリス人だぞと示している絵でもあります。日本兵を早く日本に復員させるよう迫る米軍に対して、マウントバッテン卿らは『日本軍の労力は現地を整備するのに不可欠だ』と主張します。マッカーサーとマウントバッテン卿の交流記録を見ると、アメリカ側も中国人が雇えず代替労働力がないので、一つの島から数人ずつ復員させるように指示していて、アメリカは日本兵の復員にさほど熱心ではなかったのではないかという疑問が残る」と中尾先生。

なぜ、ジュネーブ条約で保護されているPOWではないのかという点については、1945年8月18日に発せられた天皇の奉勅命令第三項に「詔書渙発以後敵軍ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ捕虜ト認メズ」とあったことから、日本側が捕虜じゃないと言ったので、堂々と日本人を使っても良いという事になったのだそうです。今のところ海軍軍人についての奉勅命令書は見つかっていないそうですが、「陸軍だけという事はないので、陸海軍ともJSPと認めたことは間違いない」とのことでした。

「なぜ日本で降伏日本兵(JSP)のことが知られていないのかというと、このことを言えば、日本が戦争中に連合国側捕虜に対して行った酷い扱いについて言わなければならなくなる。それで戦後日本人に対して南方で酷いことがあった事実を知らせようとしなかった。戦争中に日本人がやった泰緬鉄道(死の鉄道と呼ばれた)やボルネオ島で90%の人を死なせるような行進をさせたことを日本では知らせていなかった。POWのことを語らないためにも、JSPのことを日本政府は積極的に言わなかったのではないか」と仰った話が、私には最も印象に残りました。残念ながら、日本政府は文書を全て焼くように命じているため、この問題に関する文書はかなりが焼かれていて、ないそうです。そういう点からも中尾先生は、①の映像で、野田さんが「帰還を早めるための絵だった」と証言されたのは非常に貴重なことであり、だから野田さんもこれほど絵が描けたのだと思ったそうです。

中尾先生は「JSPとして日本軍がされたことを言うと、日本人が捕虜にしたことが出てくることが常にある。どのタイミングで、どの島にいたかによって待遇がそれぞれ違うが、『お互い大変だったよね』では済まない。きちんと謝るべきことは謝り、補償すべきことは補償しなければならない」と話されました。ほとんど日本で報道されませんが、オランダでは今も毎月一回日本大使館前で補償と賠償、謝罪を求めるアピール行動をして、日本の首相に向けての文書を大使に渡しているそうです。日韓に横たわる諸問題を見ていても、日本はどうも「水に流して」という考え方を相手に求めがちではないでしょうか。

展示期間中に並べて置いた1冊『日本軍の捕虜となって-英軍捕虜のイメージ』(ジャック・チョーカー支援会)は、ページを繰るのが恐ろしくて、怖くて。ジャック・チョーカーさんが1942年2月から1945年8月の3年半の間に、日本軍の捕虜収容所で実際に見たことが、ありのままに描かれています。最初の3か月をシンガポールのチャンギ―で、続く3か月をハバロックロード収容所で過ごし、来る日も来る日も労働を強いられ、続く3年間をタイの泰緬鉄道の建設補修作業に携わったそうです。「実状をスケッチし記録に残すことなど固く禁止されていました。そしてもし見つかれば、残酷な体罰が与えられ」る状況でしたので、作品を残すための隠す工夫・苦労も相当です。戦後になって作品を探しに行ってみても多くの作品はモンスーンの雨で濡れて溶けていたり、虫に食べられていたりして消失していたそうです。オランダ軍下でのJSP生活は過酷だったとよく耳にしましたが、それは「目には目を歯には歯を」のやり方で、戦時中に日本軍がやったことをやったまで。「お互い大変だったよね。でも過ぎたことだから、もう水に流して」というわけにはいかない感情も分かります。

参加者から「南方抑留の全体像はわかっているのか?抑留された人数は?」との質問がありましたが、中尾先生は「10万人から14、15万人抑留され、1割強は亡くなったと言われている」と答えておられますが、まだあやふやなままになっている状態なのだそうです。「JSPに対して労働の賃金をイギリスは日本政府が支払うということになっているが、日本政府はちゃんと後に支払ったのか?台湾人や朝鮮人軍属への支払いも行われていたのか?」という質問に対しては、「台湾人抑留所、朝鮮人抑留所を作って、その人たちには労働させなかったという記録が残っている」と中尾先生。京都新聞記者が厚生労働省に「南方抑留中の労働の報酬を貰いに来た人がいるか?」と尋ねたところ、「実際に貰いに来た人は少ない」と言われたそうです。中尾先生は南方抑留から戻ってきた人たちは自分たちにこういう権利があることを周知されず知らなかったのかも知れない」と話されましたが、野田明廣さんが父の明さんからお聞きになった話では「強制労働中に賃金を貰ったが、食料にほとんど換えた」とのことで、中尾先生は「イギリスが立て替えておいて、あとで日本政府が補充するやり方も考えられていたのかもしれない。負けた国が支払う。第一次世界大戦の時に、日本は捕虜に凄く良い扱いをしたにもかかわらず、その後の支払いをドイツから貰えなかったのが大きな不満となった。『結局良い思いをさせても無駄だ』という考え方が広まってしまったところがある」と中尾先生。だから上掲本表紙絵になっても構わないと日本軍は考えたのでしょうか?巡り巡って大勢のJSPの人たちが辛い思いを味わいました。

仲間と将棋を指しているスケッチ画の後姿に紺色の菱形があるのが、エンダウでの捕虜のマーク。「帰還運動を実らせる絵は日本に来ている可能性が高い」と中尾先生。私が厚生労働省に残っていないかを確かめる問い合わせをしたのが、昨年の11月28日。窓口の「厚生労働省社会援護局援護業務課調査資料室」職員さんたちに問い合わせをして下さっても「わからない」との返事でした。その間、僅か5分程度でした。12月15日付け長崎新聞で報道して下さった犬塚 泉記者さんにも尋ねたら、「以前問い合わせをしたことがあるが、同じような返事だった」とのこと。まだ調べ切れていないのかもしれず、ダメもとで山本博之先生には、その調査もしてほしいと依頼しました。野田さんは「大隊長に帰還を早めるために、スケッチ画を描くよう言われ、500枚ほど描いた」と証言されていて、手元に残った150枚ほどのスケッチ画を「これは絶対に持ち帰らなければならない」と命懸けで持ち帰られました。それをリンゴ箱みたいな米櫃の中に保存し、1998年初めて絵画展をされた時に、そのスケッチ画も額装して初公開されました。復員から51年後のことです。挨拶文に「戦争を知らない次の世代の人たちにもわかって頂ければと思い、展示することに致しました」とあります。

後に野田さんの油彩「干潟の墓標」(2001年創造展会員賞)を見て、この作者に興味を持った犬塚記者(上掲写真)は、創造美術会の人から、マレー抑留のスケッチ画があることを知り、野田さん宅へ。野田さんの南方抑留のスケッチ画を一目見て資料的価値があると確信し、新聞記事に書くにはその価値を語ってくれる人が必要だと探し出し、中尾先生に辿り着いたのだそうです。そして2015年1月3日から「よみがえる抑留の日々 野田明のマレースケッチ」のタイトルで中尾先生の解説付きで10回連載されました。私は昨年12月18日の催し翌日に来館いただいた中尾先生から南方抑留のスケッチ画があることを知って、自分が不勉強で南方抑留のことを知らなかったこともあり興味を持ち、展示して紹介したいと思って、昨年6月犬塚記者に連絡を取り、野田明廣さんに繋いで貰いました。こうしたラッキーな巡り合いが続いて、野田さんが命懸けで持ち帰られたスケッチ画と文集『噴焔』が、一冊の本にまとめられる方向で進むことは本当に夢のようです。

会場にも『噴焔』全頁を複写してファイル3冊に収めたものを置いて自由にご覧頂きました。参加して下さった皆様には、京都新聞11月23日付け毎日新聞12月1日付け記事のコピー、私が昨年6月25日舞鶴市大浦会館で開催された「語り伝えるもう一つの引揚 遺骨の帰国と旧大浦中生徒の体験を聞く会」に参加した折に配られた『引揚者を迎える歌』と、野田明さんが1947年7月に復員船輝山丸で戻られた佐世保市の浦頭の港に建つ浦頭引揚記念資料館と歌碑『かえり船』(歌:田端義夫)、南方軍部隊に出征した父の帰りを待つ母子の歌だった童謡『里の秋』、そして『ふるさと』の歌詞をお配りしました。

一昨年12月18日に隣のRY107教室で女たちのシベリア抑留をテーマに講演と上映をした折に、東京から駆け付けて下さった眞野和雄さん(当時91歳)と演奏仲間の大熊五十鈴さんにハーモニカで『ふるさと』を演奏して頂いたのが心に強く残っていたので、今回はピアニスト天宮遥さんの演奏録音に合わせて、みんなで『引揚者を迎える歌』を歌いました♪

野田明さんのご遺族、ご親戚の方が10名も長崎県から遠路遥々来てくださいました。前日には当館の展示もご覧頂き、明さんのお話も聞かせて貰いました。その時お預かりした晩年の明さんの写真(ご長男の明廣さんが手にされています)をずっと講師机に置いていましたので、きっと会場のどこかで一緒に聞いておられたことと思います。記念写真には受付を手伝って下さったインドネシアからの留学生クリスタルさんも写っています。過去に何があったのかを知って、これからも近隣諸国と友好な関係を維持できるように願って企画しました。関係者の皆様、参加いただいた皆様に心から御礼を申し上げます。ありがとうございました!!!!!

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