おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2016.11.14column

依田義賢先生没後25年記念上映会と講演会

11月14日は、地球と月が最も接近し、ひと際大きく観測できるスーパームーンだという。「そうか」と、外に出て夜空を見上げても、生憎の雨空。まるで昨日からの私の心の中みたい。お世話になった名脚本家依田義賢先生が亡くなって、今日で25回目の命日。そのことを偲んで、先生が脚本を担当された『末っ子大将』(「1960年、木村荘十二監督、約50分)の上映会を企画したのですが、私が盤面にキズをつけてしまったミスにより上映不可になりました。

頭はパニックになり、随分うろたえましたが、どうしようもなく、プログラムを変更して急遽かつて復元した依田先生原作・脚本『僕らの弟』(1933年、50 分)と木村荘十二監督・脚本『海軍爆撃隊』(1938年、円谷英二最初の特撮監督作品)を無料上映しました。

来場されたお客さまは、仕方ない状況を理解して下さり、皆さま温かく見守ってくださいました。その中には依田先生のご長男・義右先生の姿も。お声掛けをしましたが、実際に来てくださっただけでも感激しましたのに、お姿をお見かけした時は、咄嗟に義賢先生がそこに立っておられるかのようで、本当によく似ておられます。依田先生のファンだという方も、同じように感想を述べて、義右先生と挨拶を交わしておられました。こうい突発事情で困難な場に、来場くださっただけでも救われました。

前夜遅くまでかかって編んだプログラムでしたが、一気に吹っ飛び、先ずはお詫びを申して、早速『僕らの弟』から上映。

dsc07916-2

後でお聞きしたら、義右先生は、この作品をまだ見ておられませんでした。『末っ子大将』をお見せできなかったのは残念でしたが、この作品をご覧いただけて少しは良かったと胸をなでおろしました。この映画も『末っ子大将』も貧しい家庭環境ですが、家族で支え合い、周囲の人々のやさしさと思いやりに助けられ、訓導と呼ばれる今でいえば小学校の先生が愛情深く子どもたちを導く姿が共通していて、目頭が熱くなります。いかにもヒューマニズムに溢れた依田先生らしい作品。

dsc07921-2-%e3%82%b3%e3%83%94%e3%83%bc

上映後に、せっかくの機会ですので無理なお願いを聞いていただき、義右先生からお父様の思い出について語っていただきました。 

dsc07925-2-%e3%82%b3%e3%83%94%e3%83%bc

「結果的にみると、父はいつも運命的なところに飛び込んでいると感じた。▼後から見れば実験映画と呼ばれるものに出くわして、関わっていた(筆者注・先日ある方から送っていただいた1935年10月に発行された「パテ—シネ」10号に、住友銀行員時代<お父様が48歳で死去されたので、商業学校卒業後、銀行員として働く>の依田先生が仲間に頼まれて9.5㎜映画に出演していた頃の思い出が綴られていました。その「ダブルオー・シネマ」の作品はアマチュアにしては完成度が高く、関西で劇ものが作られる契機になったようです)。▼『浪華悲歌』『祇園の姉妹』は、無声映画からトーキーへ変わる時代にまたがっている。▼また、溝口健二監督が亡くなった後すぐ、テレビの作品も書いた。映画からテレビへ移行期にも関わっている。▼56年ほど前の1959年、関西テレビ開局2周年のドラマ『あきのひとならば』を書いている。高価な録画機がアメリカから購入されて1年も経たない頃の作品で、前の年まで生放送だったが、すぐに続く録画の時代にまたがっている。その作品は益田喜頓主演の文楽の人形に惚れこんだ人の話だった。▼その年に書いた『空海』のスぺクタル長編は、没になった分厚い原稿が今も残っている。今ならCGが使えるが、当時は費用が掛かり、映画化は無理で、断られた。数珠を二重に手首に巻いて悔しがっていた。それでも、その年に5本ほど映画脚本を書いている。」等々のエピソードを紹介してくださいました。

 数珠を二重に巻いて悔しがっていた先生の姿は、家族にしか見せなかったのでしょう。いつも飄々として、ユーモアたっぷりに話しておられえる様子と異なるので意外な感じがします。

休憩をはさんで、成城大学非常勤講師の鷲谷花さんに、本来上映するはずの作品を監督した木村荘十二について講演していただきました。急なことにも動ぜず木村監督の戦前から戦後にかけての生涯をたどってお話いただきました。

dsc07927-3-%e3%82%b3%e3%83%94%e3%83%bc

「 日本の映画史において局面での重要な人物なのだが、今日あまり顧みられていない。▼傾向映画ブームの最初『何が彼女をそうさせたか』(1927年、帝国キネマ演芸)の助監督で評価され、左翼的な傾向映画の締めくくりの作品『河向ふの青春』(1933年、P.C.L.)に関わっている。傾向映画の最初と最後に関わった木村荘十二は1930年代にP.C.L.(東宝の前身)の看板監督の一人として活躍した。▼『新選組』(1938年、P.C.L.)は、それまでのチャンバラの型、様式から離れて、チャンバラの見せ場がなく、「歴史映画」の始まりとなった作品。▼『海軍爆撃隊』(1940)年も後に山本嘉次郎監督『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)が大ヒットするが、そうした作品流行のきっかけとなった。▼映画が社会において公共的使命を果たそうとして「映画法」制定委員に加わる。▼(今回上映した『海軍爆撃隊』のように)戦時映画協力者としての面もあったが、満映の二代目理事長甘粕正彦のいろんな民族を入れて満州国立映画大学を作ろうとしたことに賛同して、1941年に満映の参事として大陸に渡る。▼満州国崩壊後、ハルピンにあった国策映画会社の満州映画協会(満映)の機材、施設、人材は東北電影公司(東影)が引き継いだが、侵攻してきた中国共産党軍に接収される。国民党軍と共産党軍の戦闘を避け奥地に移動するが、中国共産党幹部から映画事業建設の協力を求められ、多数の日本人スタッフが同行した。先に帰国した映画人は、新しくできた東映に入って活躍できたが、木村荘十二や内田吐夢監督のように残留を選び、過酷な肉体労働など苦難を味わいつつも、中国の映画人と共に現場にいた人々は、大半が1953年に帰国。内田吐夢監督ら少数を除き、彼ら中共帰りは警戒の対象になり、大手六社に入れず、その外で教育映画、児童映画、自主映画上映会をして活動をした。

『末っ子大将』は、腕とセンスの良さが感じられる。水辺の仕事と生活をきめ細かく描写する。満映時代の同僚で一緒に日本に帰ってきた岸富美子の編集も光る。貧乏なんだけど、書き込みがリッチ。一本釣りの漁を描くが、貧乏に歴史的、地理的なことを丁寧に描き、決しておろそかにしていない。依田先生、原作者村田さんの腕であろう。『末っ子大将』は、戦後の木村を再評価するのに貴重な作品の一つである」等と、木村監督の軌跡と上映ができなかった『末っ子大将』の意義について語ってくださいました。そのあと、木村荘十二監督の『海軍爆撃隊』を上映しました。

dsc07908-2その後、本来ならご覧いただいたはずの『末っ子大将』の原作者村田忠昭さんから頂いた手紙「依田先生との奇遇な出会い」を本人の許諾を得て皆さんに披露しました。2枚にわたる手紙の最後に「今から56年前に、依田先生には特別なご指導を受け、映画ストーリーに紀州犬の活躍を絡み合わせるうまさ、映画づくりの真髄を勉強させていただきました。先生のご冥福をお祈りいたしますとともに、今回、映画のDVD化に当たり。京都の皆々様にご鑑賞いただき光栄に存じます」とあり、申し訳なさに涙声に。

本当に村田さんには申し訳なくて、申し訳なくて。17日に80歳の誕生日を迎えられます。「良い子に良い映画を」のスローガンでできた映画は、後に文部省選定になり、全国の公的施設に配架されましたが、経年劣化などで鑑賞しにくい状態にありました。これからも広く見てもらいたいと考えられ、DVDに複製し、公的機関から無料貸し出しできるように、著作権者を捜しながら一人で奮闘してこられました。著作権者が未だ判明していないことから、今年文化庁から許可が降り、DVDを複製。この日の上映会に間に合うように10月28日に出来上がったばかりのものを送っていただきました。せめてもの救いは、義右さんに聞いてもらえたことです。帰り際、義右先生から「余り気にしないようにね」と声をかけていただき、またもや涙。

来場いただいた皆様、講師の鷲谷先生、そして原作者村田さんに、深くお詫び申し上げます。事情が許せば、再度上映する機会を設けます。その時には、今回のような「孤児映画」(権利者がいない「オーファン・フィルム」)についても考える場にしたいと思っています。

【後日追記】

11月15日、大阪の岸和田にお住いの村田さん宅を訪れました。事情を話してお詫びしたところ理解して下さり、ありがたいことに「新しいDVDを送る」と言ってくださいました。13日の様子を報告し、写真もお渡ししました。別れ際に固い握手を交わし、また涙目に。56年前に作られた1本の作品が、貴い人との縁を繋いでくれました。

失敗を糧に今後は、慎重の上にも慎重に努めます。上映会の予定は、後日改めてさせていただきます(文)。

 

 

 

記事検索

最新記事

年別一覧

カテゴリー