おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.07.13column

7 /30上映『ノスフェラトゥ』フィルム寄贈者、水上浩さまからお便り

七夕の日に、大阪府枚方市在住の水上(みずかみ)浩さまから、封書が届きました。7月30日に上映する『吸血鬼ノスフェラトゥ』の8ミリフィルムを寄贈して下さった方です。中には読みやすい大きな文字で、お便りが便せんに4枚にわたって丁寧に綴られていました。

2019年8月25日に8ミリフィルムコレクションを寄贈いただいた時から、「皆さんの前で戦前、戦後の状況の中で、映画鑑賞にまつわる思い出を皆さんに語って欲しい」と希望していたのですが、モタモタしているうちに今になってしまいました。寄贈いただいた8ミリフィルムは、残念ながらほどんどが劣化していて、受け取った時点でもう酸っぱい臭いを放っていましたが、辛うじてご覧いただけそうな1本が、7月30日に活弁と生演奏付きでご覧いただく『吸血鬼 ノスフェラトゥ』でした。それを是非にも水上さんにご覧いただきたいと願っていたのですが、残念ながら昨秋から遠出が難しくなられたのだそうです。もっと早くに計画を立てるべきでした。でも、当日の記録撮影をしますので、それをお送りすれば、上映会の雰囲気が少しは伝わるのではないかと思っています。

お生まれは私の故郷と同じ富山県の富山市。柳町国民学校4年生の時に富山大空襲に遭われました。富山大空襲は1945年8月1~2日に米軍が市街地に対して行い、広島・長崎への原爆投下を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きかったそうです(郷里のことなのに、不勉強で水上さんの手紙で知りました💦)。ほどなく終戦を迎え、焼け残った大和デパート6階の俄か造りの映画館でハーマン・ブリックスの『鉄腕ターザン』を、バラック新築の中劇でチャップリンの『黄金狂時代』、ディアナ・ダービンの『春の序曲』を観たのが戦後のアメリカ映画との出会いだったそうです。その後の中・高校生時代はお父様の故郷の熊本で過ごされました。

枚方市の情報誌「市民センター・ギャラリーだより」に10回にわたって、記憶にある少年期の映画の思い出を連載されていて、その控えが同封されていました。

当時は枚方市職員が手書きで印刷しておられましたので、それが却って懐かしさを感じさせます。連載のタイトルは『今も映画少年』。1935年5月生まれなので、現在87歳。もともと北日本新聞で一コマ風刺漫画や挿絵を描いておられたので、絵は勿論上手。後にCMの世界を経て電通でお仕事をされていました。こうしたことを電話でお聞きしながら、「健康に気を付けて夏を乗り切り、凌ぎやすくなった頃に再会して、もっとお話を伺いたい」と伝えましたら、「はい、頑張ります‼」と仰って、嬉しい会話が弾みました。

連載には、毎回映画の1場面を描いたイラストが添えられています。せっかくお送りいただきましたので、10回の内容を簡単にご紹介しますね。

1回目は1995年9月1日号でタイトルは「二つの『第三の男』」。書き出しは「8ミリ映写機の快適なリズム、ぼくのスクリーンにチターの弦のアップがゆれ、ハリー・ライムのテーマ曲の流れに、映画史上不朽の名作『第三の男』のタイトルが現れると、ぼくは昭和20年代の懐かしい映画館の暗闇の中にいる映画少年へ戻ってしまうのだ」。

連載を書き始められるにあたり、考えに考え抜かれた書き出しなのでしょう、素敵ですね。この文章によりますと、映画の収集を始められたのが「15年前」とありますので、1980年から。この当時、『第三の男』のロンドン・フィルム版を入手して感激しておられたのですが、後にアメリカ版を入手され、二つのフィルムを見比べて気付いた違いを綴っておられます。

2回目は10月1日号でテーマは「痛快海賊映画」。少年だった水上さんには、『海賊ブラッド』(1935年)や『シー・ホーク』(1940年)などで見せる大海原を滑る大帆船の上でのフェンシングの決闘場面がカッコよくて、息をのんで見入ったそうです。昭和20年代、ハリウッドはスワッシュバックラー(痛快剣劇映画)の製作が盛んで、エロール・フリン、ポール・ヘンリード、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ジーン・ケリー、コーネル・ワイルド、スチュアート・グレンジャー、ホセ・ファラー等々名剣士がお目見えしました。夢とロマンがたっぷりで、家族揃って楽しめる娯楽映画にアメリカ映画の大きな魅力がありました。

3回目は11月1日号で「焼け跡で見た『黄金狂時代』」。爆撃跡の急拵えのバラック小屋の地下室が映画館に早変わり。一方の壁にスクリーンを、反対側には板囲いの映写室があって、腰掛もなく、お客様はみな立ったまま鑑賞。夏などは、下駄の片方をお尻の下にして腰を下ろすと、むき出しの地べたがひんやりと冷たくて気持ちよかったのを思い出すそうです。

「敗戦によって戦時下の灯火管制の暗闇から解放された少年たちに、昭和21年早春から公開が始まったアメリカ映画は、『鬼畜米英打ちてし止まむ』の教育思想とは打って変わり、民主主義の自由な世界を目の当たりに見せてくれたのである」。戦後のアメリカ映画は、娯楽性と民主主義の啓蒙という占領政策に管理され、CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)という輸入配給組織が行い、講和条約調印の昭和26(1951)年まで続きました。

東京では『キューリー夫人』(1943年)、『春の序曲』(1943年)が初公開。戦災都市の富山で水上さんが初めてご覧になったアメリカ映画が、ディアナ・ダービン主演の『春の序曲』とチャップリンの『黄金狂時代』(1942年、チャップリン自身で音楽を作曲して、ナレーションを入れて再編集したサウンド版)。チャップリンのとてつもない面白さに、戦後の食糧難で空きっ腹だった小学生の水上さんのお腹の皮は、いやが上にもよじれによじれてしまったそう。

4回目の12月1日号は「8ミリ映画時代」。ビデオもディスクもない1970年代後半、コダックのスーパー8サウンドフィルムが普及すると、16ミリに比べてコレクターの負担も軽く、保管も簡単な8ミリ映画の収集が一般的になります。供給メーカーが多いのは、アメリカ、イギリス、フランスなどヨーロッパ。もともと欧米ではサイレントからのクラシック映画の収集が盛んでしたが、日本でも8ミリの普及と共に収集熱が高まり、映画コレクターでもあった紀田順一郎の呼びかけで同好者が情報を分かち合える「映画コレクター連盟」が1978年に発足。会員は200余名を数えました。その後、80年代に入ってビデオやディスクの時代を迎え、フィルム市場が淘汰されてくると、フィルムコレクターはビデオの方へ転向して、ついに1984年に会は解散。水上さんのフィルム収集も4年余りで、ディスクの普及を待つことになりました。

5回目は年も明けた1996年1月1日号。タイトルは「ターザンの雄叫び」。1918年初代エルモ・リンカーン主演の『ターザン』から1984年『グレイストーク』までの間に42本もの映画が作られ、ターザン役者は16代も活躍。中でもオリンピック優勝水泳選手ジョニー・ワイズミュラーが6代目ターザンとして初出演した『類猿人ターザン』(1932年)は、トーキー化の波に乗ってターザンの雄叫びが爆発的人気を呼び、大ヒット。続く『ターザンの復讐』(1934年)は、相手役ジェーンのモーリン・オサリヴァンの美しい肢体とワイズミュラーの若々しい肉体のスピーディーな動きがファンを夢中にさせ、ターザン映画の最高傑作となりました。戦後ターザン映画の登場は1946年、ハーマン・ブリックスの『鉄腕ターザン』なる番外編もありましたが、ワイズミュラーが最高。『ターザンの逆襲』(1936年)、『ターザンの猛襲』(1939年)が1947年にかけて再公開されて子どもたちの世界にターザンごっこが大流行り。ちなみに当館所蔵おもちゃ映画には『ターザンの復讐(ライオンの逆襲)』(約50秒)、16ミリの『Tazan to The Rescue』(1921年、ロバート・F・ヒル監督。2分50秒)があり、お茶の間でも「アーアーアー」と雄叫びを上げながら楽しんでご覧になっていたのでしょう。ワイズミュラーのシリーズは1948年の12本目『絶海のターザン』が最後に。「ワイズミュラーを凌ぐターザン未だ無し」と水上さん。

6回目の連載は1996年2月1日号の「西部劇ベスト3」。-ぶっ放すニ挺拳銃が結ぶ西部の恋!砂塵の中に乱れ飛ぶ肉体と銃弾の唸り、好漢ジョン・ウェインの痛快西部劇‼- これが戦後初公開の西部劇第一弾『拳銃の町』(1944年)の宣伝文。小学校5年の夏休み、超満員の大人の背越しに汗びっしょりでご覧になったそうですが、撃ち合いがなくて全くつまらなかった思い出。「暴力場面がないのは占領政策の意向か」と水上さん。とはいえ、アメリカ映画の代表的なジャンル西部劇の醍醐味といった作品も数多く公開されました。小学校6年の時にご覧になったジョン・フォード監督『荒野の決闘』(1946年)を見て以来、モノクロの地味な画面がずっと印象に残ったそうです。昭和28(1953)年公開、アラン・ラッド一代の当たり役『ジェーン』(1953年))のジョージ・スチーブンソン監督は、放浪の拳銃使いシェーンと開拓農家の子どもジョーイとの交流を通して、開拓農民の生活をリアルに活写しました。中年の峠を越した51歳の姿をそのままに、ゲイリー・クーパーは見事にドラマチックな演技を見せてオスカー受賞。その前年昭和27年公開の『真昼の決闘』(1952年)は、フレッド・ジンネマン監督のリアリズム描写が冴える最も好きな西部劇だと水上さん。保安官に復讐しようと刑務所を仮釈放された4人組が列車でやってくる。結婚式を挙げたばかりの保安官は、無法者を迎え撃つべく町の人々に協力を求めるが、無法者たちを恐れて誰も協力しない。保安官は恐怖に怯えながらも責任感で4人組を迎え撃つ。「主人公保安官の孤立した焦燥感は、現代社会の中にも相通じるものがあり、一層共感を覚える」と綴っておられます。

7回目は1996年3月1日号の「香り高きヨーロッパ映画」。フランス映画は戦前に輸入されたストックフィルムが戦後いち早く公開され、1930年代の珠玉の名篇の香りに水上さんは少年時代から接することができました。小学校6年でジュリアン・デュヴィヴェエ監督『にんじん』(1932年)をご覧になったそうですが、同監督の『舞踏会の手帖』(1937年)は最も好きな作品で、ロマンチックな装いとリアリズムの混合、人生をしみじみと感じさせ、男たちには名優がズラリと出ているのも大きな魅力だった、と水上さん。続いて『望郷』(1937年)は戦前から最高のヒット作として評判(1939年川喜多が輸入し、キネ旬第1位)でしたが、同じジャン・ギャバン主演『地の果てを行く』(1935年)は、「犯罪者の末路を描いて壮絶、強烈な印象を残してくれ、モロッコ女に扮したアナベラの異様なまでのエキゾチックな魅力も見ものだった」というのですから、水上さんはおませな少年だった模様。

一方、イギリス映画との出逢いは、中学1年の昭和23(1948)年に、ローレンス・オリヴィエ監督主演シェークスピア劇を映画化した『ヘンリー五世』(1945年)から。中世の芝居小屋のちっぽけな舞台の書割が、実景の大野外へと広がる場面変化の自由な斬新さに目を見張ったそうです。華麗なテクニカラーと色彩絵巻物であった上に、オリヴィエの表現力豊かな台詞回しと胸のすくような演技に、英語が分からずともその素晴らしさに圧倒されたとか。同年の『ハムレット』(1948年)は銅版画の渋みの世界で、オリヴィエのリズミカルな表現力を追って、モノクロの映像が中世北欧の城の内部を自由に動き回って、心をつかまれたようです。

「フランスやイギリスの戦前の映画フィルムがストックしてされていたおかげで、いち早く公開された」とあるところで、どうしても、つい先日まで展示していた“東和商事合資会社(現在の東宝東和株式会社)”社長だった川喜多長政について、思いを馳せてしまいます。1947年ごろの水上少年が『舞踏会の手帳』や『望郷』に魅了されていた頃、それらの作品を戦前に輸入して配給していた川喜多(例えば『にんじん』は1934年川喜多が公開し、キネ旬第3位。『望郷』も1939年に川喜多が輸入し、キネ旬第1位)は、1947年11月に公職追放該当者の指定を受けていたのです。幸いにも国内外の人々の証言を添えた「特免申請書」が認められ、1950年秋に指定が解除されるまで、川喜多自身は気が落ち着かない日々を過ごしていたのです。

8回目は1996年4月1日号で「押し寄せた名画たち」。1951年秋に講和条約が調印されると、翌年にかけてアメリカ映画大手会社が日本支社を開設し、話題作を日本に送り込み始めます。それに負けじとヨーロッパ映画もどっと押し寄せます。『黄色いリボン』『白昼の決闘』『サンセット大通り』『イヴの総て』『巴里のアメリカ人』『真昼の決闘』『欲望という名の電車』『悪魔の美しさ』『オルフェ』『肉体の悪魔』『巴里の屋根の下セーヌは流れる』『天井桟敷の人々』『第三の男』『黒水仙』等々。中でも『風と共に去りぬ』(1939年)は注目を集めました。昼の部が200円、夜の部が300円の総入れ替え制だったそうです。当時熊本の高校に通う水上さんの学校売店で封切洋画学割券が60円だった時代にあって、破格値の公開でした。ヴィヴィアン・リーのスカーレット・オハラとクラーク・ゲイブルのレット・バトラーのイメージはマーガレット・ミッチェルの原作にぴったり。実は私もこの作品が大好きで、ラストシーンの「私にはタラがある。明日には明日の風が吹く」を呟いて、困難に陥ったとき、自分を再鼓舞してきたものです。水上さんによれば、この作品の再映画化を考えたプロデューサーがおられたそうですが、結局諦めたという話も伝わっています。

9回目は1996年5月1日号の「華麗なる総天然色」。1946年12月20日にご覧になった『ロビン・フッドの冒険』は、初めて見た総天然色活劇だったそうです。野趣に富んだシャーウッドの森での野外宴の場面は、食べ物に事欠いていた水上少年には堪らない魅力。焼けた獣肉の大きな塊、初めて見る果実の山々が全て総天然色でした。映画の色彩化はトーキー化に先んじていて、1926年『ダグラスの海賊』で赤と緑の2色法テクニカラー映画で誕生したそうです。1930年代に入ると、青が加わって天然色としての3色方式のテクニカラーが完成します。『スター誕生』(1937年)、『白雪姫』(1937年)、『ロビン・フッドの冒険』(1938年)、『風と共に去りぬ』(1939年、『四枚の羽根』(1939年)、『バグダッドの盗賊』(1940年)など3色テクニカラーは完成度を高め、戦後へかけてテクニカラー総天然色映画の全盛期を迎えました。ヴァージニア・メイヨやデボラ・カー、ジャネット・リーにエレノア・パーカー、特に赤毛がテクニカラーに映えるモーリン・オハラは“テクニカラーの女王”の尊称で呼ばれていました。

イギリスでは、緻密な色彩設計で『ヘンリー五世』(1945年)、『天国への階段』(1946年)『黒水仙』(1946年)、『赤い靴』(1948年)、『ホフマン物語』(1951年)など、テクニカラーの名作が生まれました。シネカラーという2色式天然色映画も健在で、色足らずのくすんだ色調は何となく安っぽく、B級西部劇に多く見られました。1950年代に入ると、3本のネガから3色の染料を転染する高度な技術とコスト高なテクニカラープリントは、安上がりの多層式発色フィルム、イーストマンカラーの出現に取って代わられ、テクニカラーの華麗な色の世界は滅びゆき、総天然色という言葉も共に消えていきました。映画会社は、メトロカラー、ワーナーカラー、デラックスカラーなどと固有の名称を唱え始めます。

10回目は1996年6月1日号の「映画はタイムマシン」。戦前のRKOミュージカル映画、踊るカップルで一世を風靡したフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースは、幾度も繰り返し見ていると、リアルタイムから見てきたような気分にさせられる、と水上さん。『コンチネンタル』(1934年)のコール・ポーター、『トップ・ハット』(1935年)のアーヴィング・バーリンの素敵な歌曲揃い。『夜も昼も』や『ピッコリ―ノ』のメロディを口ずさみながら、若者たちは軽やかに映画館を後にしたのでしょう。近年、昔の映画を手軽に家庭で見られるようになりましたが、封切られた時代の背景をよく理解して見ると、もっと味わい深く楽しめるはずです。「映画は見た時の自分の年齢や境遇、その時代の社会情勢などが重なって、強く心に残るのだと思う。サイレント期からお客様を楽しませる映画づくりの術を知っていた多才な職人的監督や、映画黄金期の魅力あるスターたちも、多くは他界。戦後の大きな社会変動の昭和20年代、アメリカ映画やヨーロッパ映画の戦前の旧作と戦後の新作を同時代に見ることができたのは、映画に限って考えれば、つくづく恵まれた時代ではなかったかと思う。日本映画も黒澤明監督『七人の侍』を頂点に黄金期を迎えていた。ぼくには、昔の映画は、古きロマンの世界に遊ぶタイムマシンなのである」の文章で連載10回目の最後を締め括っておられます。

映画愛に満ちた手作りケース入り8ミリフィルムコレクション。「ぼくのスクリーン」だけでなく、この連載が契機になって「8ミリ古典映画館」を枚方市のサンプラザ市民センターで開催されるようになります。

今回上映する『吸血鬼ノスフェラトゥ』はその第7回目。

2000年9回目上映『キング・コング』(1933年)を最後に、惜しまれつつも「8ミリ古典映画館」の活動を終えられたそうです。定員80名前後しか入れない視聴覚室でしたが、毎回満員で市の職員が驚いておられたとか。大きな8ミリ映写機1台での上映でしたので、フィルムの入れ替えをする必要がありましたが、その時間も含めて皆さん大いに楽しまれたそうです。

そうした水上さんの思い出が籠ったフィルムを今回はデジタル化した映像で、人気活動写真弁士の坂本頼光さんとお馴染みの天宮遥さんの生演奏付きでお楽しみいただくという趣向です。「活弁に演奏、建物の雰囲気が無声映画の世界にぴったり。出席できればと思いましたが、残念です」と水上さんのお便りにありました。どうぞ、その水上さんの分もお楽しみください‼定員は25名ですが、既に残席わずかです。毎回お願いしていることですが、ご予約いただいた方でご都合が悪くなった方は、できるだけ早い目にご連絡をお願い致します。当日無断キャンセルの場合は料金を請求させていただきますので、くれぐれもお気を付け下さいませ。また、隙間が多い古民家ですので、冷房をしていても不十分です。誠に恐縮ですが、できるだけ涼やかな服装でお越しくださいませ。皆様のご協力を宜しくお願いいたします。

 

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