おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.08.21column

映画『祇園祭』研究者と製作上映協力会メンバーとのトークイベント(2)

7月24日の2人目の発表者は立命館大学教授の田中 聡先生。タイトルは「紙芝居『祇園祭』から映画へ」。「この映画の元になった紙芝居の復元について紹介しながら、それがどのように小説や映画に繋がっていったのかを話します」と、始まりました。以下に内容メモの走り書き。

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当日配布された資料は、A4サイズ7枚。そのうちの5枚目に紙芝居の一場面が載っています。1952年にできた紙芝居『祇園祭』は、「大藤 了」という京都大学マンガ研究会4年生が描きました。プロの紙芝居屋さん「やっさん」こと安野侑志さんも高く評価していた出来映え。見やすいし、一人一人の顔が描き分けられています。「この時期に、既にマンガ研究会があったことに驚く」と田中先生。

1961年西口克己さんがこれを元に、歴史小説『祇園祭』を書きます。その7年後にこの映画『祇園祭』が作られます。この紙芝居は、全ての大元になっているのです。

西口さんの小説から映画版が距離を置こうとしたとき、紙芝居に戻るところがありました。物語がどう反映されたかをみます。

紙芝居は1952年4月10日~5月1日血のメーデーがある直前に作られました。学生が作ったことがポイント。京都大学と立命館大学の4年生有志が20人ほど集まって作りましたが、その中に後に歴史研究者として大変著名な学者になった熱田公、井ヶ田良治、脇田修、石田善人らがいました。最初に上演したのが東京大学の構内でした。

ストーリーにはシナリオがありました。ガリ版刷りの台本で「定本紙芝居 祇園祭 月行事用 民科京都支部歴史部会製作」と表紙に書いてあります。この歴史部会に紙芝居を作ったメンバーが所属していました。台本を見ると、複数の人が役を持って読み合う形式だったと分かります。この本の見返しには、『祇園祭』の精神みたいなメモが書いてありました。狂言の「籤罪人」(籤で役割を決めたが、鬼を引いた太郎冠者が罪人役の主人を叩く)を元にしたシーンは映画にはありませんが、ストーリーには、武士という支配階級に押さえつけられた町衆たちの平和的な抵抗と勝利が描かれています。

定本のメモ。「町衆たちは戦争の恨みから武士をバカにする山を作った。邪魔をしてきた武士たちと喧嘩になる。町衆たちは祭りを禁止され、デモをかけるが、祭りは出来なかった。その結果、彼らは天文2年税金を払わないことをした。年が巡ってもまだ疫病が続いていたし、戦争も続いていたので、今年こそ祇園祭を強行して疫病をやめるんだと、町衆たち。圧力がかかったが、祇園社の執行の元に押しかけて、祭りを強行した。大軍が押しかけてきて、主人公の彦次郎は捕らわれたが、祇園祭は大衆の力で強行された。」

映画と何処が違うか?

出来上がった紙芝居のあらすじは、桶屋の彦二郎が主人公。侍に捕らえられた彦二郎に対し、理不尽さに憤った町衆は激しく抵抗して、皆の英雄である彦二郎を取り戻す。しかし、第一版台本では、彦二郎は侍に殺されるが、祭りは行われた話になっていて、映画版と同じ。4月10日からの20日間位の間に、学生たちは何度も手を入れています。その過程で民衆の英雄を殺してはならないという意見が出て、結局みんなで彦二郎を奪還して助かるように変更しています。つまり、民族の英雄は、そう簡単に殺されてはならないとの判断が働いたのです。民族の独立を求め、アメリカからの独立を求め、その歴史を近代以前の民族文化に辿り、遡っていくような政治的・学問的運動が背景にあったと言えます。その背景にあったのが、当時立命館大学教授の林屋辰三郎さんの「町衆(まちしゅう)論」でした。この影響を彼らは受けていました。

月刊『京都』で、毎年祇園祭特集をします。1976年6月号で、老舗の若衆による座談会の様子が載っています。「昭和30年頃には、まだ町衆(まちしゅう)という言う言葉を聞いたこともなかった。『町衆』と言われるようになったのは、映画『祇園祭』からじゃないか」と話しています。1976年でも「町衆」という言葉は馴染みのない言葉でした。1952年では研究用語でした。それを紙芝居にいち早く取り入れたのが林屋さんに影響を受けた京大や立命館の学生たちでした。纏まった作品が出来あがり、それなりに人気を博しました。

紙芝居にも、この物語のキモになる「神事これなくとも、山鉾渡したき」という一文が出てきます。狂言を鑑賞し、狂言を習いに行って、狂言の所作を組み込みながら読み上げていくスタイル。鉦を借りて、打ち鳴らしながら展開していきます。京言葉も台詞も織り込み、文学的な豊かさを加味した集団による紙芝居。これが5月1日東京大学構内で開かれた歴史学研究会で初上演という形になりました。メンバーは作者の脇田さん、井ヶ田さん以外に9名。

1952年に作られた紙芝居は見つかっていません。関係者に聞いて回りましたが「私の所にはない」ということで、出てきたのは小型の複製版紙芝居3種類。京都を二人くらいで持ち歩いて上演できる小型版。オリジナルは、この衝立(上掲写真)のような大きさのものでした。人気があって、各地を上演。写真版もあって原本を抜粋したダイジェスト版のスライドで、関西映画幻燈文化協会が製作・配給、京都民科がシナリオと共に広く貸出し、翌年にかけて各地で上映されたことが分かっています。それが本になったのが、赤い表紙の本。

赤い表紙の本

上段に絵、下段に台詞が載っていて、後半に林屋さんの解説が載っている大変良く出来た小さな絵本で、かなり売れました。しかし、1953年後半には、このブームはほとんど衰えました。一般の人と歴史研究者が一緒になって歴史を語ろうという国民的歴史学運動が急速に衰えていく中で、こういう作品があったことは知られていても、作った人も語らなくなり、忘られていきました。ただ「町衆」という言葉だけが、一人歩きしました。1952年のこの紙芝居の結果でした。

小説版から映画版へ

1961年小説家で政治家(京都市議のちに府議)の西口克己さんが、小説『祇園祭』(中央公論社)を刊行します。ストーリーは東京大学出版会からの『祇園祭』をもとに、登場人物を増やして多様性を持たせ、主人公新吉とあやめの悲恋となっています。西口小説には「祇園会じゃのうて、祇園祭で」の台詞はありません。この台詞は、伊藤大輔監督のビジョンが、そこに活かされていたことが、今日改めて確認できました。映画とは異なりますが、それに近い原型は西口さんが小説の中で書いていました。

紙芝居との連続性と新しいテーマ

映画版では、小説の人間関係がやや単純化されていて、小説では新吉が一向宗の僧を殺す場面があって、その時に人殺しの愚かさを身に染みて知る場面がありますが、映画版では新吉が山科の農民を襲いに行って殺してしまって、そのことがトラウマになって残ることになっています。紙芝居には被差別民が全くでてきません。1952年の段階で、そういった研究が進んでいなかったことにも深く関わります。ただ、継承された点もあって、それは英雄と民族文化の再発見というテーマで、ずっと変わりませんでした。西口さんもこれを継承し、民族としての誇りを持ちなおしたいと小説で描き出しています。最後の山鉾渡しのシーンで、主人公の新吉が侍に殺されることで、英雄的性格がより強調された点は、紙芝居第1版の台本に回帰したとも考えられます。新吉が死ぬ間際の台詞「美しい祇園会の山鉾は、戦嫌いの京町衆が、殺されても殺されても、ついにその念力で、動かしたのだ」は、暴力に対して平和の信念で対するという紙芝居以来の基本的な主題が、そのまま活かされています。

半世紀ぶりに紙芝居を上演(2008年)

2007年、戦後歴史学ワーキンググループが、京都民家歴史部会が資料調査をして、B4 版紙芝居『祇園祭』11枚と、原本を1コマずつ撮影したスライドフィルム、上映台本などを確認しました。そのフィルムからB4版紙芝居を再現し、京大大学院生馬場智子さんらに口演を依頼しました。2008年7月13日、日本史研究会・京都民科歴史部会共催の市民講演会で復活上演「祇園祭-よみがえる歴史とイメージ」をしました。京都大学紙芝居研究会・紙芝居ヤッサン一座6名によって口演がなされました(指導は安野侑志さん)。

この様子がNHK京都放送局で7月23日「ニュース610 京いちにち」で特集コーナー「インサイド」にて、「よみがえる紙芝居『祇園祭』」として放送されました。5人の掛け合いで、祭りの賑わいを再現しました。再現過程の記録映像が他にないことから、その映像を紹介。

【ということで、12年前の録画をスクリーンで上映しました。口演終了後の映像の中に、観客の一人としての脇田修先生、京樂先生、関係者としての田中聡先生も映っていましたが、インタビューに答える私自身が「熱気が伝わってきて、すごく感動しました‼」と上気しながら答えているのが大写しになったのには驚きました。インタビューを受けた記憶はあったのですが、実際に見たのは初めてで。当日詰めかけた150名の聴衆と関係者の中に、少なくとも連れ合いも含めて4名が同じ会場にいたことになり、縁の面白さを味わいました。】

今後の課題として、

・映画『祇園祭』への展開過程…その一端は「映画『祇園祭』の構想をめぐる対立ー『キネマ旬報』誌上の論争からー」(田中聡編『京都戦後史学史研究会 研究成果報告書』、2015)で論じました。当時の府議の介入などが、どの程度存在したのか。

・紙芝居のシナリオ間の異同の分析…第一版は前編がほぼ京言葉で書かれ、狂言『籤罪人』の場面をより多く活かしているが、そうした面は以後削られ、主人公の死も描かれなくなる。わずか1ヵ月間に、なぜこのような劇的書き換えが行われたのか。

・紙芝居ー小説・戯曲ー映画が「まちしゅう」イメージの形成に与えた影響…現在一般的に使われている町衆イメージの広範な定着に、大きく寄与したことはほぼ間違いないと思われるが、裏付け資料は多くない。歴史的な「ちょうしゅう」と、通用している「まちしゅう」は内容が異なりますが、なぜこうした歴史意識が浸透したのか。京都民科資料にあった貸出ノートなどで、スライドがどこに貸し出されたのか、他の地域でどのように見られたのかなどの分析を要する。

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以上、紙芝居『祇園祭』と映画との関係について、わかりやすくお話をして貰いました。お話を振り返りながら、幻燈用スライドが関西一円に貸し出され、上演されてもいたことに興味を持ちました。映画『祇園祭』が実写版として各地で上映されたとき、この紙芝居やスライド上映をご覧になっていた人々が大きな観客動員に結びついたのではないかと、勝手に想像しています。

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