おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2021.10.18column

昨日のメモから

昨日は朝からお客様が続きました。その多くが府外、それも関東からお越しの方が多かったです。緊急事態宣言が解除され、感染者も減少傾向にあるので、少しずつ、人が動き始めたようですね。このままコロナウイルスには鎮まって欲しいものです。

写真右から東京のラピュタ阿佐ヶ谷の才谷遼さん。何回かお会いしているにも関わらず、直ぐに気付かず、お召しになっている「おかめ納豆」のTシャツの話から話し始めてしまって💦 お土産に手にしておられる『LAPUTA ASAGAYA 1998-2018』を頂戴しました。開館20周年記念に、これまで特集上映されたチラシを1冊に纏められたもので、眺めているだけで楽しくなってきます。

その隣は紙フィルムについて執筆をお願いしているアニメーション作家の野中和隆さん。今開催中の「大映京都の特撮映画『画合成』原画展」をご覧になるためだけに新幹線に乗って、ご多忙の中、日帰りで訪ねて下さいました。実は才谷さんは、野中さんから二日前に「京都に行く」とお聞きになって、来て下さいました。ミュージアムでバッタリお会いされたときの野中さんの驚きようは、ちょっと面白かったです。

お二人とのお話の中に「どうぞ」とお勧めしたのが、特撮が大好きだという大阪府の人(一番左)。12日にお越しになった特撮大百科(株)キャストさんのTwitterをご覧になって訪ねて来てくださったそうで、キャストさんに大感謝です。

そのキャストさんも、大映の背景画で活躍された渡辺善夫さんのお名前をあげておられ、「『釈迦』のスタッフに“漫画家のうしおそうじさん”がいて、渡辺善夫さんと親しくなり、大映倒産前後に一緒にテレビの特撮『スペクトルマン』など怪獣映画、ヒーローものの背景画を描いていた」と教えて下さいました。

野中さんは「渡辺善夫さんは、崖が得意。山とか自然は得意だったが、建物は苦手だった。こうしたマット画だけでは食べていけないので、何でも屋さんだったのではないか?」との見方を話して下さいました。

これはスクリーンショットですが、野中さんは「これを描かれたのは渡辺さんご本人だろう」とのことでした。ついでに、後述の関東から見に来て下さった『大魔神』マニアの男性は、「このマット画に、きちんと重要な鐘が描かれているのを見落とさないように」と仰っていたことを書き添えておきます。

渡辺善夫さんは生没年がわからず、ご遺族がおられるのか否かもわかりません。昭和15年か17年に東宝入社。配置された課には特撮で有名な円谷英二さんがおられて、ここで特撮技法を学ばれました。

もう一人お名前が出た“うしおそうじ”さんこと、本名の鷺巣富雄(さぎすとみお)さんに、野中さんはお会いして、お話を聞かれたことがあるそうです。メモとして残しておられないのが残念ですが、鷺巣さんは、渡辺さんに先立つ昭和14(1939)年に東宝に入社されています。鷺巣さんと渡辺さんは同じ職場の先輩後輩だったのですね。

直接の上司はアニメーション作家の大石郁雄さんでしたが、彼は日中戦争に従軍されて不在だったこともあり、円谷さんが代行されていました。渡辺さんは円谷さんの下で『ハワイ・マレー沖海戦』等作画合成を多数手掛けます。

円谷さんは当時、兵隊さんを教育する映画(実写)も作っておられて、ピストルの撃ち方や照準の合わせ方などを教える作品を秘密に作っておられたそうです。鷺巣さんは大石さんの義兄にあたる宮下萬蔵さんのアニメーション撮影の手伝いもされていましたので、ここで実際の映画の特撮とアニメの特撮の両方を学ばれました。

鷺巣さんは昭和23(1948)年に東宝を退社して、漫画家になります。昭和27、28年頃はバリバリの漫画家になって手塚治虫さんとも仲が良かったそうですが、どうしても特撮をやりたくて映画の合成をする機械を購入。wikiによれば、昭和35(1960)年のことで、約600万円を投じてマルチプレーンの動画スタンド、ワイドレンズなどを購入しています。

渡辺さんが東宝を退社したのは、昭和24(1949)年に鷺巣さんと一緒に『空気のなくなる日』の特撮に参加し、作画合成を担当された後。フリーとなって大映や東映の合成作画を多数手掛けます。そして昭和35(1961)年、鷺巣さんと渡辺さんは動画会社「ピー・プロダクション」を設立。二人は大映の特撮監督築地米三郎さんとの出会いにより、日本最初の70㎜映画『釈迦』(1961年、三隅研次監督)にも特撮作画合成を提供しています。今回展示しているマット画の中にも『釈迦』で使われたと思われるものが含まれています。

大映だけでなく映画各方面に特撮作画合成を提供していたようで、渡辺さんの精巧な合成作画は重宝されました。野中さんがお聞きになられたところでは、東宝時代上司だった円谷英二さんが、かつての部下、鷺巣さんが映画の特撮を作る様子を見に来て感心しておられたそうです。上下関係などより、好奇心が優先したのでしょう。

渡辺さんは、昭和41(1966)年の大映作品『大魔神』(安田公義監督)、『大魔神怒る』(三隅研次監督)、『大魔神逆襲』(森一生監督)の3部作の合成作画を担当。大映は「特撮とわかってはいけない」という方針で、特撮を売り物にして映画を作る東宝との違いを語っておられます。

wikiの記述によれば「『作画合成』という特撮技法は、キャメラのレンズの前に黒い『合成マスク』を立て、未感光部分を作り、フィルムをマガジンから取り出さずに、合成開始部分までフィルムを巻き戻し、この『マスク』のラインに合わせて精密な作画部分を写し込んで合成する『生合成』という手法で行われる。オプチカル・プリンターを使った場合の色調の変化などの無い、美しい色調が得られる反面、合成完了までキャメラを動かせず、ストップウォッチを使って合成のタイミングを図るこの技法は、すべて渡辺の経験と勘に頼る職人技だった」とはこちらからの引用ですが、『大魔神』の森田富士郎キャメラマンが、このようなやり方をされたのか否かはわかりません。いくつかの方法があっただろうと思います。

才谷さんと野中さんをお見送りした後、左端に写る男性と話をしていて「この展覧会中に、特撮ファンが集まっておしゃべりする催しができないかしら?」と思いました。この男性が手にしているのは11月5日まで大阪九条のシネ・ヌーヴォの「妖怪特撮映画祭」のチラシです。

引き続き京都みなみ会館でも開催されますので、映画を観てから原画を観ていただく、あるいは逆に、原画を観てから映画を観ていただければ、楽しみ方も増すと思うのですが、如何でしょう?

3人がお帰りになるのと入れ違いにお越し下さった写真の男性に「映画公開当時の少年向け雑誌などに、“実は大魔神には人が入っています”など、子どもたちの夢を壊さない程度に『大魔神』について書かれたものがないかしら?」と尋ねたら、参考になりそうなものをお持ちだとのこと。ありがたいことに早速お借りすることになりました。この問いかけは、才谷さんと野中さんとの会話の中でお尋ねしたことなのですが、早速回答を得られて幸運でした‼

彼から「この武神像の原画をUPする方が絶対、ファンは喜びますよ」と助言していただいたので、早速、そのようにしてSNSで紹介。ぜひ期間中に、ご自分の目でご覧になってください💖

それから野中さんに、日頃皆様にご覧いただいている戦前のアニメーションの中で「製作年/制作会社/作画監督不詳」とタイトル紹介に書いている『ギャングの最後』について、教えて貰いました。

昭和9(1934)年3月に『仇討烏』(「仇討からす」の表記も存在)と一緒に公開された『ギャングと踊り子』の後半部分を抜粋した玩具映画でした。原作は名監督で脚本家でもあった島津保次郎さんという珍しさ。

最初の本格トーキー・アニメーション映画としてヒットした『力と女の世の中』に続く松竹蒲田撮影所と政岡映画製作所による第2弾として、1933年に作られました。東京から政岡憲三さんの元に来ていた瀬尾光世さんがチーフアニメーターを務めました。

もうひとつ、野中さんからお聞きして興味深く思ったのは、『ウルトラマン』は、その存在を知らない世代を作らない、断絶する世代を作らないことをモットーとしているのだそうです。この話には、皆さん「最初の頃登場していたキャラクターが、またリバイバルして、バルタン星人やテレスドンが出てくると、オタク心がくすぐられる」と頷いていました。『ウルトラマン』は現在進行形で放送中。こうした考え方も素晴らしいなぁと思いながら聞いておりました。

【10月19日追記】

夕べ『ウルトラマン』のことを書いたばかりなのに、朝刊を広げてビックリ。

「ウルトラシリーズ」で活躍された方の訃報が載っていました。特撮ファンは残念に思っておられることでしょう。うちの子二人も、子どもの頃は『ウルトラマン』に夢中になっていたので、本当にお世話になりました。朝日新聞の訃報を読むと、1966年に円谷プロの特撮ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』が始まり、飯島さんは演出や北束北男のペンネームで脚本を担当されていたそうです。特撮映画『大魔神』と同じ年に誕生したのですね。

飯島敏宏様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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