2026.04.15column
3月の出会いから(2)~28㎜フィルム、活弁文化
3月7日には素敵な出会いが続きましたが、そのうちのお一人がカナダの映画製作者Jack Parkerさん。カルガリ―大学で学ばれ、修士課程でトロント・メトロポリタン大学(旧ライアソン大学)でフィルム保存を専攻されたそうです。博士論文の研究の一環として、歴史研究と並行して実務経験を積むため、アーカイブでの研修も行ったそうです。余りモノを知らないので、AIにトロント・メトロポリタン大学のようにフィルム保存教育機関が世界にはどれぐらいあるのか尋ねましたら、
①アメリカのロチェスター大学+ジョージ・イーストマンミュージアム。パオロ・チェルキ・ウサイ所長が率いるL.Jeffrey Selznick School of Film Preservationは世界で最も有名な保存学校のひとつ。ロチェスター大学とも関連し、実技と理論の両面で世界トップクラスの専門家を輩出しています。
②ニューヨーク大学(NYU)ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アーツ(アメリカ)。MIAP(Moving Image Archiving and Preservation)は、映像アーカイブとデジタル保存も含めた現代的なアーカイブ学を教育しています。
③アムステルダム大学(オランダ)のPreservation and Presentation of the Moving ImageはEye Filmmuseumと連携して、ヨーロッパのフィルム保存の中心地のひとつとなっています。
などを教えてくれました。連れ合いが大阪芸術大学映像学科在職中に「玩具映画プロジェクト」を立ち上げて、古いフィルムの保存と修復に取り組んだことがありましたが、退職後はそれがなくなり、つい先日、そのプロジェクトで保存したフィルムを大量に研究室から運び出し、国立映画アーカイブに寄贈したばかりです。連れ合いが退職まで死守した16㎜フィルムで作品を作る授業は、フィルムで撮影することは継続されているようです。その後の過程はデジタルでの対応になりますが、フィルムの扱いを経験できる場が継続されているとわかり良かったと思います。
嬉しい変化として、今年4月1日から常石史子さんが、早稲田大学文学学術院 演劇映像コースに着任され、無声映画を中心とする映画史を担当されます。そして、「映画史を下支えする保存修復に関しても研究できる拠点にしていこうと考えている」とSNSで発信されていました。彼女の専門のことでもあり、今後益々のご活躍を大いに期待しています。
そしてAIは、日本でフィルム保存が学問として定立しにくいのかの理由として、次の2点を挙げました。
①機材と環境の壁:復元や現像のための特殊な機材、恒温恒湿の収蔵庫を維持するコストが大学単体では非常に重い。
②専門職のポスト不足:卒業しても、博物館やアーカイブで「アーキビスト」として正規雇用される枠が非常に少なく、産業として確立しにくい。
連れ合いが仲間たちと2006年に立ち上げ毎年夏に実施していた「映画の復元と保存に関するワークショップ」は、各博物館などで孤軍奮闘しながら映像の保存活動をしている学芸員さんたちにとって貴重な情報交換の場となっていました。関心を持つ若い人が上掲のような海外の専門機関でフィルム保存教育を学んでも、日本では雇用の椅子がほとんどないので、本領発揮できずにいる人も多いでしょう。常石さんの新たな試みが、映像文化の保存修復そして活用に貢献してくださるよう願っています。

さて、ジャック・パーカーさんが手にしておられるのは28㎜映写機。
当館所蔵の28㎜フィルムと映写機です。送り孔(パーフォレーション)が左右で異なっていて面白いですね。彼は卒業論文で28㎜フィルムについて研究されたのだそうです。旅行を終えてカナダに戻ったパーカーさんが、もう少し詳しく教えてくださいました。
………パテ社は1912年に28㎜フィルムの製作を開始し、1913年にはパテスコープという名称で北米に導入しました。28㎜フィルムは当初、パテ社の35㎜フィルムコレクションを縮小プリントしたもので、公民館、教会、家庭など、劇場以外の場所でも安全に上映できるように作られていました。カナダの映画製作会社が28㎜フィルムカメラを使って自社作品を製作し始めたのは1917年のことです。カナダの主要な28㎜フィルム製作会社は、カナダ政府映画局とオンタリオ映画局の2社でした。どちらも州政府と連邦政府によって運営されていました。私の研究では、故郷であるアルバータ州における28㎜フィルム製作に焦点を当てました。アルバータ州で28㎜フィルムを製作していたのは、エドモントンにあるアルバータ大学のエクステンション部門でした。大学は、州内の小規模コミュニティにおける教育振興のためにこれらのフィルムを製作していました。上映会は主に教会で行われ、講演も併せて開催されていました。日本の歴史と同様に、この際に生ナレーションが行われていたと思われます。…………
ジャックさんから、28㎜で撮影された映像がYouTubeで公開されているのを教えて貰いました。Wildlife of Alberta (Alberta Department of Agriculture - Game Branch, 1929)
このフィルムの背景について彼の説明によれば、カルガリー大学特別コレクションのレジデンシーで、グレンボー・コレクションと共同研究をした際、フィルムリストの中に「16㎜ナイトレートフィルム」と記載されているものがあるのに気付きました。このフォーマットは不可能なため調査したところ、ナイトレートフィルムとセーフティフィルムの両方のベースで撮影された28㎜ネガとポジが見つかったのだそうです。これをテーマに卒業研究に取り組み、長期保存のための準備をし、一部がデジタル化されたそうです。その映像がどのようなものか見たいと申しましたら、アルバータ州立公文書館で同じ素材がいくつか含まれたフィルムをオンラインで見つけて、上記URLを教えてくださいました。この映像は「アルバータ州の野生生物」というタイトルの教育映画で、様々な鳥や動物を紹介し、それらの生息場所や害獣としての管理方法などについて視聴者に教えています。
28㎜フィルムのアーカイブについては、昨年6月29日に来館いただいたオーストラリア国立映画&サウンドアーカイブ(NFSA)で活躍されているジェイムス・キャンベルさんから「今、9.5㎜と28㎜フィルムのアーカイブに取り組んでいる」と教えてもらったので、早速ジャックさんとの出会いと会話を彼に伝えました。3月10日に彼から返信が届きました。
……ジャックさんの研究は論文のテーマとして素晴らしいですね。一般的に1900年代初頭でさえ、家庭用やアマチュア用に設計されたフィルムのほとんどは安全フィルムで、ジアセテートが最も一般的でした。このため、22㎜フィルムと9.5㎜フィルムはどちらもジアセテートでした。しかし興味深いことに、28㎜フィルムでは状況が少し異なっていることがわかりました。当館所蔵のフィルムの分析検査とフランスのアーカイブとのやり取りから、28㎜フィルムのリリースプリントはジアセテートですが、そのフィルムのオリジナルのネガはナイトレートであるこあとがわかりました。ただし、当館所蔵の28㎜フィルムは、片面に標準的な35㎜パーフォレーション、反対側の端面はリュミエールのパーフォレーションに似たヨーロッパ製のものであることは注目に値します。
北米では両面に同じ種類のパーフォレーションを持つ、少し異なる種類のフィルムが使用されていたようです。そのため、素材の面で両者が全く同じものになるかどうかはわかりません。コストと安全性が、この選択の主な要因だったようです。
22㎜フィルムは、家庭用キネトスコープに合わせて設計された非常に興味深いフォーマットです。私がこれまで見た中で最も奇妙なフィルムフォーマットの一つであることは間違いありません。オンラインで調べてみる価値は十分にあります!
第二次世界大戦前の映画がナイトレートフィルムで撮影され、アセテートフィルムで上映されていたという点については、ある時点でそれが真実になったと確信しています。しかし、当館が所蔵する初期のフィルム(おそらく1900年から1920年頃のもの)には、ナイトレートフィルムで上映されたプリントが多く含まれています。………
22㎜フィルムをまだ見たことがありませんが、興味深いですね。ジャックさんと話したときに、12月6日に来館されたトーマス・ラマール先生から「カナダのケベックの映画史のなかで、活弁の伝統が強かったです。アメリカの英語系映画を上映した時にフランス語の弁士が映画の内容を説明しながら映画を作り直して、カトリック教会の概念にあわせることもありました」とお聞きしたことを伝えました。凄く有名な先生だとその時点で存じ上げなかった私は、知ったかぶりをしていつものように「語りの文化が盛んだった日本では、映画が入ってきた当初から活動写真弁士さんが、映画の内容を説明していました。KATSUBENの文化は、かつて統治下にあった中国や朝鮮馬半島、台湾などで活躍していた弁士さんもおられたようです」と話したところ、先のように教えてくださり、その際に参考文献を教えて貰ったのですが、フランス語だったので手が出せず仕舞いになっていました。
戦後のタイの弁士さんについては、2016年3月の大阪アジアン映画祭ウェルカムパーティーで出会ったドンサロン・ゴーウィットワ二ッチャ―さんから、「タイでは、1950年代からトーキーになりますが、戦後はお金がないので、16ミリで撮影し、サイレント作品を作っていたそうです。音を付けるのにお金がたくさんかかるので、弁士の方が安上がりだったからです。吹き替えは、いつも同じ人がやっていました。そうしたことは90年代まで続きました。昔は1週間に4番組を作る忙しさで、俳優たちはいちいちセリフを覚えてられませんから、適当に口パク。当時は年に300本も作っていたそうです」と教えて貰ったことをブログで書いています。トーキー以前からタイでは弁士さんが活躍されていたのでしょう。
こうなると、世界における無声映画時代の語りの文化が気になります。ジャックさんは、「特に28㎜映画に関しては、カナダ政府は移民と農業開発を促進するためのプロパガンダと教育のための映画製作を支援していました。これらの映画は35㎜硝酸塩または28㎜硝酸塩ネガで製作され、28㎜安全フィルムにプリントされ、教会やコミュニティセンターなどで安全に上映されました。また、映画とその内容について、ナレーターが解説するツアーも行われ、教育の向上にも役立てられました」と教えてくださいました。ナレーター、つまりは弁士さん。
4月4日facebookで柴田康太郎さんが「カナダの弁士についての研究者であるジェルマン・ラカスさんの1996年の論文『ケベックにおける弁士業について』が、駒場の山根佑斗さん(+原口直希さん)によって翻訳! ラカスの仕事はこれから見ていこうと思っていたところだったので、とてもありがたい(https://phantastopia.com/report/bonimenteur/)。考えてみれば、カナダにも弁士がいて、アメリカには日系移民の弁士がいたのだなぁ、とあらためて面白く思う」と書かれているのに気付き、ラマール先生やジャックさんが教えてくださったこととも連なると思い、早速貼ってあったリンク先の原口さんの研究ノートと、ラカス先生(映画史研究者で、モントリオール大学名誉教授)の「ケベックにおける弁士業について-抵抗の実践として」(『Iris』第22号秋号)をダウンロードして読んでみました。それを読みながら私の理解で全く頼りないですが、少し書いてみますと…
ケベックにおいては、1906年以前に見られた巡回映画の時代は、弁士は数多くのフランスの俳優たちが担い、彼らは博識な人と見られていました。ケベックの人々は彼らが語る映像を見て映画と初めて接触しました。1914年に戦争のためにフランスに帰国した彼らにかわってケベック人が弁士の役を担い、より地域に即した親しみのある解説、物語を説明する俳優として活躍します。フランスやアメリカが1910年代までにブルジョア向けの大きな劇場から弁士が姿を消すのに対して、ケベックでは、オランダやポーランドのようにもう少し長く弁士が存続していました。1915年から1920年頃には大衆劇場を舞台にして1930年頃まで弁士が活躍していました。大衆映画館で行われる弁士付きの映画は、ある種のヴォードビル・ショーの一部に取り込まれます。それは「バーレスク」と呼ばれ、短い茶番劇からなり、その前にはダンサーの踊りや語り付きの映画という一連の流れがありました。ケベックでは1915年以来バーレスクのショーが大幅に増え、フランス語圏の街や地区の小さな映画館で弁士は解説や俳優として活動していたようです。アレックス・サン=シャルルという人は「バルーン」という名前で、トーキーが登場したあとまで映画の弁士だったそうです。
興味深かったのはトーキーの登場までにショーとして風刺劇が多く行われていたこと。プログラムを埋める弁士付きの映画の数々に付け加わる題目として、映画を扱う部分を含む風刺の見世物が上演されていたようです。そういえば、京都の新京極の芝居小屋で、後に「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三が「日本最初の映画スター」尾上松之助らと連鎖劇をしていたことを連想しました。トーキーが登場しても、彼らは「音響設備のない劇場で実践を続け、ラジオやキャバレーの司会者、俳優、あるいは楽士になり、ディスクに録音を残すことになるのだ」とあるのは、日本の活弁士さんたちと重なります。ケベックの弁士、俳優のアンリ・ポワトラさんが残した自伝的テクストによれば、
……プランスセス劇場で上映されていたのはアメリカ映画だった。観客の大部分はフランス系のカナダ人で、長ったらしい英語には不慣れだったので、経営者は役者を雇って画面に書かれていることを翻訳させていた。無声映画も重要だったことを付け加えるべきだろう。時折、講師(弁士)はアクションに興奮するばかりで、叫び声で言葉を付けていたのだ!(略)…
ジェルマン・ラカスさんのこの論考「ケベックにおける弁士業について-抵抗の実践として」の最後に、要旨が記されていて、その部分を転載します。
……ケベックでは映画の弁士という職業が1895年から1930年まで存在し、三つの段階で発展した。第一に、弁士は〔映画という〕発明をわがものにして伝統的な実践に組み込んだ。それから弁士は、映画における語りの実践を導入し、また正当化するような解説をするようになった。その後、1910年から1915年に発達した映画をめぐる言説が(論文中の文言で補うと、観客の多くはおそらく、弁士が映画に対して行使していた極めて大きな自由を歓迎したが、批評家たちは今や弁士を嫌悪し、あるいは無視するようになった)、この実践を拒絶するようになった。すると弁士はパフォーマーとなり、大衆的な聴衆が見るような劇場での混合的なショーへと映画を統合した。…
原口さんのお書きになったものによると、弁士は英語圏では「レクチャラー」、ドイツでは「フィルム・エアツェーラー」、フランスでは「ボニマントゥール」、ロシアでは「デクラマートル」、スペインでは「エクスプリカドール」などと呼ばれていたそうです。「散発的かつ断片的な目撃情報を含むならばラオスやベトナムにおいても(弁士の)目撃情報があり」「インドにおいても南インドのテルグ語圏では通訳的必要性から弁士が生まれ、少なくとも1950年代まで活躍していたことが指摘されている」そうです。映画が登場して以来、いろんな国や地方に「弁士」が存在していたことがわかり、これから「弁士」の説明も新たにしていかなきゃと思っています。ともあれ、日本の活弁士さんたちが今もその伝統文化を引き継いでおられ、その面白さ、魅力を国内外に発信されているのは、とても素晴らしいことだと思います‼
【4月25日追記】


