おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.12.31column

11月23日、持永只仁展に関連して映画『大地のキネマ』上映とトークイベントを開催しました

DSC03297 (3) - コピー 既にツイッターとFacebookでは、11月23日に開催した持永只仁展関連企画『大地のキネマ』上映とトークイベント終了後の集合写真をUPしたのですが、なかなかブログで報告する時間がなくて、今日の日になってしまいました。以下の動画(URLをクリックして下さい)もブログでの紹介が遅れて申し訳ございませんでした。撮影したのは、11月18日(土)午後。東京から持永只仁さんの長女伯子(のりこ)さんが、お父様の遺作「少年と子だぬき」と岡本忠成さんの代表作の一つ「おこんじょうるり」を、川本プロ代表取締役福迫福義さんが川本喜八郎さんの遺作「死者の書」の人形を手に来館いただき、東京工芸大学助教細川晋さんの手で飾っていただいた時の映像です。音楽は、その翌日に上映した『戦艦ポチョムキン』で生演奏を披露して下さった天宮遥さんに付けてもらいました。

https://www.youtube.com/watch?v=cmej9oSCIuU&t=18s

さて、23日は上映写真の通り、たくさんのお客様で満席。中には研究者の方もおられ、早速、そのうちのお一人に、来年2月12日(月・祝日)13時半、当館の映像も用いながら、1930年頃のラディスラフ・スタレビッチ監督の日本での受容について、持永只仁監督への影響関係についても考える勉強会開催をお願いしました。。詳細につきましては改めてお知らせします。

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前日の東京での仕事を終えて真っすぐミュージアムに駆け付けてくださった中島貞夫映画監督。伯子さんとの久しぶりの再会を喜んでくださいました。今回上映する「大地のキネマ」で向陽監督の指導と監修をされただけでなく、生前の持永只仁監督と面識があることからトークイベント出演をお願いし、快く引き受けてくださいました。

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向陽さん。この作品は、大阪芸術大学大学院博士課程の卒業作品として作られました。今は中国映画に関わる仕事なども手掛け多忙を極める中、駆けつけてくださいました。「生まれも、この映画の舞台も同じ長春。たまたま持永さんと知り会って、日本の映画人が中国で頑張って、日本に帰ってからも日本の映画を支えたことを知った。東北電影は日本の映画人と上海の映画人で、社会主義の映画を作った。元東映の内田吐夢監督はリアルな演出を中国の人に教え、中国の映画が進化し、東北電影から北京電影に引き継がれた。当時活躍していた中国の映画人は亡くなってしまったが、その弟子さんたちが中国でかなり有名になって頑張っている。現在の中国アニメ―ション学校の前代の校長先生らは皆、持永さんの教えを受けた満映からの人々。この作品は10年前の自分が、精一杯作った作品です。これまで一般公開される機会がなかったので、こうした場で上映でき、みなさんにご覧いただけるのを嬉しく思っています」と挨拶。

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 上映後のトークイベント。満映のあとは、映画史の中でも欠落していて、なかなか生の声で聴けることがないので、貴重な機会となりました。映画の中で持永さんは「末永さん」という名で登場していて、そこに出てくる女の子は、伯子さんがモデルです。

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伯子さんは「ここに描かれているのは、人生の原点。今も保育園、幼稚園時代の北京の友人たちと昔の思い出を語っている。東北電影製作所(1946年10月1日成立)は、新中国映画の基礎を作ったところ。氷点下30度の環境だった。映画が完成すると子どもたちは飛んで行って観た。日本が戦争で負けた後、国民党と共産党の内戦が勃発し、満映にあった機材を全て安全なところに運ぶことになった。37輌の貨車に積み込んで、人間も乗った。ハルピン、ジャムスを経て、最後に鶴岡炭鉱に落ち付きます。そこで4年間過ごしました。鶴岡炭鉱は元は日本人が経営していたとこで、ロシアとの国境に近い黒竜江省にありました。そこでは前線に行く人と、内部に残って記録映画や劇映画、ロシアの翻訳映画などを日本人と中国人が協力しあって作っていました。この姿は今も頭にこびりついていて、感動的だった。侵略者と侵略された国の人が、戦争は終わっているとはいえ、協力して映画を作りました。監督・編集は日本人の内田吐夢、木村荘十二監督がいて一緒に作っていました」。

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続いて中島先生が、この映画製作についてお話くださいました。東映京都出身の中島先生は、戦後昭和22~23(1947~48)年頃満映からの帰国者を救済するために東横(東映の前身)が多くの中国帰りの映画人たちを採用し、彼らからいろんな話を聞いた経験があり、向さんが大阪芸大大学院に入学し「どうしても本格的な映画を作りたい。当時、映画は最も大きな宣伝媒体で芸術媒体だった。日本人が作った満映が、戦後、中国の新しい映画会社になる。その変化の中で、中国の映画がどのように生まれてきたのか、日本人がどの程度、どのような形で参画してきたのか、中国の人たちによってどのように行われてきたのかを描きたい」という熱意に打たれ、中島先生は日本人の立場から、向さんは中国人の立場から作ってみようと、この作品作りを指導されました。制作した当時は、映画に登場する人たちと同じ経験をした人々がまだ生存しておられたので、向さんは徹底的に彼らに取材し、それは非常に貴重な資料となりました。満映をロケ場所として使用し、日本から持ち込むカメラ以外の機材を貸して欲しいと交渉していく過程で、中国の企画部長が「本来ならこの撮影所が作るべき映画ではないか」と言い出して、中国側もお金を集め結局数千万円が集まりました。このことで出資者に対する責任が発生し、様々な問題も浮上しましたが、どうにかそれらを克服し、企画から3年目の冬3月、氷点下の中で撮影。向さんが奔走し、キャスティングやカメラマン以外のスタッフは全て中国の人で作りました。

東映京都撮影所では、カメラに映り込む邪魔なものを除けて欲しい時に業界語で「プヨしてくれ」と言うそうですが、これは中国語であると、中島先生は、その時知ったそうです。満映帰りの人が中国で使っていた言葉を今も撮影現場で使われている例です。また、「共産党のオルグが、どういう活躍をしたか、一人の発想が非常に大きな力を持っていたということが、この映画の一つの発見だった」とも述べられました。

会場からいくつか質問も出て、それぞれの立場からお答えいただきました。その一つに日本人の描き方が少し足りないという意見もありました。これに対し、向さんは先に書いた制作意図を述べ「日本人は非常に大きな影響力があったではあろうが、この映画の主人公は中国の人たち。母国の映画が中国の人たちによってどのように作られていったかなので、視点を絞りました。意図を理解して欲しい」と述べ、中島先生も「3~4時間の作品なら別だが、中国では政治的に扱いが難しいので描くことができず避けたため、満州国ということが映画でほとんど表現されていない」としつつも「モノを作るときは視点が揺れず、貫くことが大切だ」とも述べられました。

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伯子さんが、この日特別に当時の記録映像『新中国電影的揺籠』をご持参され、会場の皆さまのご要望にお応えして、披露してくださいました。中国のカメラ部長で日本に留学経験があるバシュウセイさんが「ぜひ撮っておくように」と日本人のカメラマンに要請して撮影されたもので、伯子さんから説明していただきながら観ました。日本では、これまで1、2回しか上映されたことがなく、滅多に観られない貴重な映像でした。中国全土から映画人が鶴岡に結集して4年間生活し、1949年に中華人民共和国ができて、皆がまた中国全土に散らばっていきました。ここでは1~4期にわたり、たくさんの映画人が養成されました。戦場へ行って親が撮影したりして働いているので、伯子さんも同じように保育園で集団生活をしておられ、子どもたちとは今も仲良し。皆さん、新中国後の素晴らしい映画人の子どもたちです。持永さんが中国で最初に作られた人形アニメーション『皇帝夢(こうていのゆめ)』(1947年)と党の書記陳波児さんから依頼され演出された『甕中捉鼈(かめのなかで捉えたスッポン)』(1948年、セルアニメーション)は、物が十分に手に入らない中で苦心しながら作られたそうです。

今回の展示は満映以後を中心に企画しましたので、持永さんが帰国後の活躍にまで触れませんでした。10月から引き続き会場に展示している第1回広島国際アニメーションフェスティバル(当時の名称は国際アニメーションフェスティバルin広島)の著名アニメーション作家たちの驚き盤展の中から、伯子さんは中国の王樹枕さんの作品を指し示して、「広島アニメフェスの準備段階から関わっていた父が、文革の嵐が過ぎ去ったあとの中国から、滞っていたアニメーションの復興・指導の為に1985年に招聘された。木下蓮三さん、小夜子さんから『中国から国際審査員を推薦して欲しい』と依頼されたので、王さんを推薦し、そのあと父は中国へ旅だった」と教えて貰いました。

第4回広島国際アニメーションフェスティバルでは、持永さんが国際審査委員を務められ、その時に出品されたのが今回展示した『少年と子だぬき』(1991年)でした。第一線から引退されていた時期でもあり、本来作りたかったテーマ「相手を思いやるこころの大切さ」を込めた作品だったのはないかと思います。正直に言えば、いくら私が人形大好きといっても、アニメーション史上重要な作家である持永さんの貴重な人形をお借りすることは、慎重の上にも慎重を期して、不測の事態が起こらないようにしなければならなりません。そのため『ちびくろサンボ』など他にも有名で可愛い人形がたくさんありましたが、安全性を考えて、一番新しい作品を選びました。でも、後でいろいろ調べているうちに、この作品が一番今回のテーマにも合っていたように思うようになりました。帰国後も、満映以後共に苦難の中映画作りに協力した中国の仲間を思いやり、終生にわたって特偉さんらとの友情を育みました。いつもこの東北電影製作所時代が心いっぱいに占めていたのではないかと思うのです。少年と子だぬきは、実は、持永さんと、特偉さんかもしれません。

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伯子さん寄贈の中国電影出版社から出たばかりの本の表紙に大親友の特偉さん(右)と持永只仁さんが写っています。特偉さんは、中国独特の「水墨画アニメーション」で知られ、中国アニメ―ションの黄金期を支えた上海美術電影を代表する監督さんでした。第2回広島アニメーションフェスティバルの国際審査員も務められました。この本は、もうすぐ日本語版でも出版される予定だそうです。

末筆になりましたが、23日は関西各地はもとより、遠く関東からもお越しくださいました。ご来場誠にありがとうございました。そして、トークイベントにご登壇いただきました中島貞夫監督、向陽監督、持永伯子さんに厚く御礼申し上げます。皆さまのおかげで盛会裏に終えましたことを心より御礼申し上げます。

早くに振り返りレポートを書かねばと思いつつ、雑務に追われ年末のこの日になってしまいました。12月29日9~10時半、偶然、よみうりテレビ「記憶の澱(おり)~戦争の澱」(山口放送制作。日本放送文化大賞テレビ番組グランプリ)再放送を見ました。農村の土地不足から27万人もの人々が満州へ移住しましたが、敗戦後の帰国が大幅に遅れて、多くの人々が筆舌に尽くしがたい苛酷な状況の中、亡くなりました。なだれ込むロシア兵、復讐に燃える満州人、性暴力、日中戦争時に捕虜を殺害した経験も語られました。加害者、被害者として心の奥底に「澱」のようにこびりついたまま秘して語られなかった当事者たちの証言を、静かに深く綴ったドキュメンタリーでした。持永伯子さんが、鶴岡での日中双方の映画人が協力しながら作品作りをする様子を「感動的だった」と述べられたことを思い浮かべながら見ました。

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新聞掲載もありがとうございました。送ればせながら御礼申し上げます。

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