2014.06.16column
映画撮影監督の森田富士郎先生が6月11日に逝去されました
森田富士郎先生が6月11日に逝去されました。先生のご遺志で、家族葬ということで告別式も済まされてから知ることになりまた。昨年8月ごろ脳腫瘍が見つかり闘病されていました。何度かお宅へお尋ねはししたものの、「みじめな姿を見せたくはない」という先生の考えがあり、結局は一度も病院にはお見舞いには行けませんでした。弟子やお世話になった者たちもみんな、元気な姿で復帰されることを願っていたのですが、とうとう会えず仕舞いとなりました。
高校生の夏休みに「大魔神怒る」の琵琶湖や沓掛のロケーションで、撮影部の荷物運びのアルバイトをして、森田先生とは分からずお会いしていたのです。そんなご縁もあり、可愛がっていただきました。大阪芸術大学での助手時代、「撮影の現場を知っておいた方がいい」と、当時元大映スタッフで組織された「映像京都」に所属し、撮影助手を経験することになりました。大映が倒産し、大映労組や勝プロの苦しい時代で、テレビ映画ばかりでしたが、森一生監督や安田公義監督、工藤栄一監督、藤田敏八監督、黒田義之監督、久松静児監督、山内鉄也監督、池広一夫監督、勝新太郎監督作品など、映画会社の垣根なく幅広い監督たちとの仕事を経験することになったのも、森田先生のお陰でした。勅使河原宏監督や五社英雄監督には客員教授として講義してもらえたのも先生のお声掛けでした。
同じ撮影の恩師である故宮川一夫先生からは、映画の感性や精神、姿勢と言ったものを教わりましたが、森田先生からは映画の作り方、映画の技術という事を事細かに教えていただきました。初期の代表作「大魔神」の特撮でも分かるように、理論派で実験精神の豊かな方で、ラボ(現像所)とは特撮技術で密接なつながりがありました。そんな関係でラボともつながりができ、「映画の復元と保存に関するワークショップ」を立ち上げる時には、一番に相談に乗っていただきました。
今はただ、ただ先生のご冥福をお祈りするだけです。・・・