おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2026.08.15column

幻の原爆映画を撮った男、三木茂

8月16日「戦後81年、遠ざかる記憶/近づく足音」と題して催しをします。ドキュメンタリー映画『がれきのにほんれっとう-ヒロシマ・ナガサキ編-』(1983年)を16ミリフィルム映写機で上映するほか、パテ・ベビー(9.5㎜)で撮影された戦前の浦上天主堂や長崎医科大学(現・長崎大学)附属病院、長崎市内を記録した今となっては貴重な映像を上映しますし、写真絵本『消えたかぞく』のブックトークもします。日々「ヒロシマヘ  ヒロシマから」通信を送って下さる関東在住の竹内良男さんが、5日付け通信で16日の催しを全国各地の方にお知らせをしてくださいました💗

小さな場所での催しで席数も少なく、チラシを印刷して各所にお送りするのも費用的に難しくなり、お知らせが充分にできないことを心苦しく思っていましたが、竹内さんのやさしさで、参加は難しくても平和を願って活動をされている皆様に私どもの取組みを知っていただける機会を得られたことをとても嬉しく思います。

そして、京都新聞「まちかど」でも紹介して頂きました。今朝は「生きるための絵本」研究者の正置友子さんとお孫さん、お友達が参加して下さるとの連絡が入り、このことも嬉しく思います。後藤由美子さんの『ヒロシマ 消えたかぞく』ブックトークの折に正置さんにもお話を聞けたら良いなぁと思います。

最初にこの催しのお知らせを書いた後で、下掲本の存在を知り、購入しました。宇野真佐男著『幻の原爆を撮った男』(1982年、共栄書房)です。副題が「三木茂―映像に賭けた生涯」。

不勉強な私はこの本で三木さんのことを知ったのですが、前回触れた峠 三吉さんの『新編 原爆詩集』(1995年、青木書店)の解説で哲学者鶴見俊輔さんが「処罰を恐れぬカメラマンの機転によって(フイルムの)コピーは日本人のあいだにものこされた」と書かれたカメラマンが三木茂さん(1905-1978)のことでした。

『幻の原爆映画を撮った男』の「第1章三木茂の原爆証言」を興味深く読みました。1973(昭和48)年に三木さんから口述筆記を依頼されて長年親交があった映画評論家の宇野さんが書かれた本ですが、ところどころ年月などの記憶違いがあるように思え、ネットで見つけた中野良平さん(当時原爆研究をしていた仁科芳雄研究室の一員として被爆地の調査にあたり、撮影隊とも一緒に活動をしていた)が「Isotope News」2000年7月号に掲載した「原爆被爆調査と原爆映画」と突き合わせながら読みました。

本の冒頭で驚いたのですが、1945年8月1日に別用で広島を訪れていた三木さんは映画公社広島支社で代表者から「8月6、7日頃、新型爆弾が広島に投下される模様だから、なるべく早く帰京されたほうがよい」と助言されたそうです。広島の人々にとって、新型爆弾がどのようなものかは想像もできなかったのでしょうが、「新型爆弾投下」は一部で知られていたのですね。

1967(昭和42)年にアメリカから返還された『The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』は、この三木茂さんが中心になって撮影されたものでした。彼は劇映画を国活、松竹、新興などで『滝の白糸』他約100本を撮影し、その後ドキュメンタリーに転換し、皆既日蝕を記録した『黒い太陽』(文部大臣賞受賞、1936年)、戦争の惨禍が滲み出た『上海』(1938年、亀井文夫監督=A Record of Shanghai(1938))、『戦う兵隊』(1939年、亀井文夫監督。戦時中は公開禁止に=Fighting Soldiers(1939) - YouTube)などを撮影していて、日本の記録映画プロデューサー、撮影監督として名を残された方です。

1945年9月初めに原爆映画を作ることが日映で話し合われ、企画担当の相原秀次さんが9月3日に理化学研究所の仁科芳雄博士(1890-1951)を訪ね、文部省や学会とも連携がはかられました。9月14日に文部省に原爆被害調査委員会が設置され、学術調査団長に仁科博士がなり、日映記録映画班は33名で編成されます。演出の伊藤寿恵男さんが9月7日に先発として単身で出発し、広島で一応調査し、長崎へ行って撮影の調査と準備にかかります。そして三木さんは、調査委員会の土木建築班に特別参加し、9月24日広島に向けてチーフ金子宝次さん、セカンド菊池周さんを伴って出発し、爆心地から撮影開始。バルボカメラでワンショット撮ると、手札判の普通写真機でも撮りました。20日間ほど広島で撮影し、助手二人は撮影したフィルムを持って東京へ戻り、新たに関口敏雄さんを伴った三木さんは長崎へ向かいます。被災した浦上天主堂や三菱造船に主力を注いで撮影を続け、10月下旬に東京へ戻ります。

11月15日に東京に現像所も備えた三木映画社を設立します(上掲写真。因みに写真で彼が使用しているのはミッチェル・カメラ)。戦時中の国策会社社団法人日本映画社は、1945年10月に解散し、1946年㈱日本映画社として再出発。三木さんは敗戦と同時に日本映画社参事を辞任していました。

中根さんの論文ではGHQによって一度は学術調査も映画撮影も禁止され、12月になって米海軍技術派遣団の監視下で調査・撮影が許可され、12月22日に長崎へ出発したとなっています。三木さんは先遣隊という位置付けだったのでしょう。三木さんは、上掲写真右下の編集室で自ら撮影してきたフィルムの処理をしていたものと想像します。

学術隊は調査を終えて1946年1月中頃に東京へ帰り、残っていた撮影隊は熱線によって建物に出来た影などを撮影して1月の終わりに帰り、2月中旬から米軍の監視下で編集に着手しました。おそらくその作業場所は、㈱日本映画社として再出発した場所でなされたのではないでしょうか。そして、1946年4月下旬に、原子物理学、医学、土木建築、工学などあらゆる分野の学者が調査し、映画製作スタッフが撮影した映像に、英文のコメントを入れ、島内敏郎さんのアナウンスを入れて完成させましたが、アメリカ占領軍の命令でフィルム全部の提出が求められ、2時間45分、全19巻にまとめられた作品はもとより、原版、未使用ネガ、ラッシュプリント、カットポジの1コマにいたるまで残らず没収されました。

日映映画社製作局長を務めた岩崎昶さん他数人の話し合いで、未整理のままラッシュプリント10巻だけを二重発注して、三木映画社現像所の天井裏に密封保管されました。また企画の相原秀次さんは、三木さんが手札判写真の幾枚かを保有していたと述べていることから、撮影最初期の三木カメラマンの動きは米軍がノーマークに近いものだったのかもしれないと思うのです。

この三木さんの機転で残ったフィルムこそが「幻の原爆記録フィルム」でした。1952年日米講和条約が発効するまで、三木映画社現像所天井裏で眠っていたフィルムは、この年8月、日本映画社の後継、日本映画新社の堀場常務が持ち帰り、「日本ニュース」から改名された「朝日ニュース」の第363号に広島被爆の一部が使用され、映画館上映がされました。日本人の手による原爆映画の最初の上映となりました。「朝日ニュース」はハワイでも上映され、その報告がアメリカ国務省から在日アメリカ大使館にあり、日映は大使館から説明を求められましたが、既に占領が終わっていたのでアメリカ大使館にプリントを1本提出しただけで済んだということです。「朝日ニュース」の映像は大変な反響を巻き起こしました。

一方の仁科財団では、米軍に没収された『The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』の完全なものを返還してもらおうと直接米国の科学者たちに呼びかけて、フィルムの所在を確かめ、数年にわたって入手する努力をしました。彼らの要望を受けて1967年日本政府も8月3日に返還要求をし、米国は空軍保管のオリジナルからコピー2組を作り、1組を米国立公文書館、もう1組を日本に返還する意向を発表し、1967年11月9日に16㎜フィルムに縮小されたフィルムが返還されました。12月2日にフィルム試写会と懇談会が行われ、返還要望に署名した科学者10名と、原爆被害調査と映画撮影に最も深く関わった木村一治東北大教授と横山すみ女子が参加し、映画撮影側として日映新社の堀場伸世常務と当時の撮影グループの岩崎昶さん(製作局長)、加納竜一さん(プロデューサー)、相原秀次さん(企画調査)、伊藤壽恵男さん(演出)、文部省から渋谷審議官らが出席されました。けれども35㎜のオリジナル版返還は未だ成し遂げられていません。

今、改めて上映する『がれきのにほんれっとう-ヒロシマ・ナガサキ編』のクレジットを見ましたが、今回のブログで触れたお名前が一人もありませんでした。この元素材は三木さんが機転を利かせて保存した「幻の原爆記録フィルム」を用いたのかなぁと思ったりもするのですが、今現在ではわかりません。ともあれ、占領下で三木茂さんがとった行動は、鶴見俊輔さんがいう通り「処罰を恐れぬカメラマンの機転」の表現がぴったりで、その気概は『上海』や『戦う兵隊』で戦地を見て感じたことが背景にあるのではないかと私は思います。

国立映画アーカイブでは返還映画コレクションとして、三木茂さんが携わった『土に生きる』(1941年、9分)=8月18日(火)14時~、8月28日(金)18時~▼『支那事変後方記録  上海』(1938年、77分)=8月23日(日)12時~、9月1日(火)14時~上映されるようです。

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