おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2026.08.05column

京都の実業家稲畑勝太郎ゆかりの展覧会とテレビ番組

7月14日京都新聞夕刊1面トップで、京都の実業家で、後に大阪商工会議所会頭、貴族院議員にもなった稲畑勝太郎(稲畑産業㈱創業者、1862-1949))が、4歳年下で幼馴染だった日本画家で図案家としても活躍した神坂雪佳(1866-1942)の死去に際し、読んだ弔辞が京都国立近代美術館で見つかったと報じていました。神坂家や稲畑家が同美術館に資料を寄託していて、その稲畑家書類の中から、2017 年6 月、稲畑勝太郎がフランスのリュミエール兄弟に宛てた書簡4通の写しが見つかったことがありました。発掘した映画研究者の長谷憲一郎さん(現在大阪産業大学教授)が2019 年1月に記者発表し、その年6月に当館で研究発表をしてもらいました。

そして今回は、神坂家の書類の中から稲畑に関する資料が発掘されたということです。折も良く、今年は神坂雪佳生誕160年で、同美術館で開催中のコレクション展に合わせて公開されるということだったので、早速7月29日に見に行って来ました。神坂の絵画や図案作品は勿論のこと、展示ガラスケース内には、稲畑が書いた弔辞や、会葬した折の稲畑の署名を「悔帳」に見ることができました。幼いころから人生を通じて良き友だった神坂の死はさぞかし残念なことだったでしょう。そして、稲畑が喜寿を迎えた記念に神坂が描いた巻物『稲畑勝太郎絵伝』(1932年)の実物も展示されていました。「稲畑勝太郎君伝」は稲畑産業㈱のサイトで見ることができますが、実物を目にしたのは初めてなので見入りましたが、こうした書類は一切撮影禁止だったのがチト残念でした。想像していたより、弔辞の紙も『稲畑勝太郎絵伝』の巻物も大きかったです。公開されていたのは、巻物の冒頭部分で、京都府の招聘でフランス語教師として赴任していたレオン・デュリー(1822-1891)が1877年に帰国する際、槇村正直知事にフランスへの公費留学生を派遣するよう進言し、自ら選んだ8人の学生の一人に最年少で選ばれた場面など。「もっと先も広げて見せて欲しい」という物足りなさが残りましたが、期間中に展示場面も替えられるようです。

同館は10月4日までイタリア出身の画家アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)の回顧展をしていて、これも拝見するのを楽しみにしていました。

正直に言えば、私はこの展覧会で初めて知った名前でしたが、彼はレオン・デュリーより15年後の1876年に日本政府の招聘で来日し、それから2年間、東京の工部美術学校で西洋画を教え、浅井忠や小山正太郎らに影響を与えた画家でした。

フォンタネージが1879年から82年ごろに描いた田園風景を描いた四曲屏風。金箔が貼られた革のパネルに風景が描かれていて、木製のボルトによって固定されています。これまで余り知られていない作品のようです。日本に絵画の指導に来て、日本文化の屏風に関心を寄せて、こうした立派な作品を残してくれていたことを知りました。金箔を貼った革をキャンパスにし、ボルトで固定したという視点も興味深いです。彼は生涯樹木、家畜、水場、空といったものに関心を寄せたそうです。

平日だったこともあり、結構静かに、ゆっくりとフォンタネージの詩情豊かな作品の数々を鑑賞し、そのあと灼熱の中を、どうせならと粟田神社まで行って来ました。

三条通りに面した粟田神社一の鳥居の傍に建つ神社名石碑。

その裏面に「紀元二千六百年十一月十日改古 貴族院議員従五位勲三等稲畑勝太郎建之」と刻まれています。1940(昭和15)年に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事が全国で盛大に営まれました。参道の緩やかな坂道を上った二の鳥居には、稲畑が建碑したことが家族の名前と共に刻まれています。この鳥居については6月に見に来て、ブログで書いています。

2日はNHK京都放送局局長屋敷陽太郎さんが、部下の人から当館のことをお聞きになって来館いただきました。いろいろお話をしている中で5月に建碑した稲畑勝太郎のことを話しましたら、下掲の李一凡さんにつくって貰った散策マップを手に「見学して帰ります」と仰っていただけたのは嬉しかったです。
私と同郷の富山県出身とわかり、「今度富山弁でゆっくりおしゃべりしたいです」と申しましたら、富山弁で答えて下さり、そして「いやぁ、勉強になりました」と仰ってさらに喜ばせて下さいました。8月1日23時からのNHKのETV特集は長崎放送局の特集「二重被爆-知られざる163人の運命に迫る-」でした。番組冒頭部分で戦前の長崎の映像を活用していただけたことも嬉しいことだったとお伝えしました。

番組繋がりで言えば、4日15時40~18時59分まで放送のABCテレビ「newsおかえり」の中で、真相追及バラエティ「なんでやねん⁉」のコーナーで、「京都大学の向かいにバイリンガルな石碑⁉NDY挑む」が放送されると、稲畑産業㈱広報さんから連絡があったので、留守録もしながら長い番組のどこで放送されるのかとテレビに見入りました。結局、河合郁人さんと福井治人さんのNDYが登場したのは、番組終盤。

京都大学の西向いにある関西日仏学館庭園に建つ大きな石碑。その隣に建つのが稲畑勝太郎の胸像です。番組では残念ながら一言も稲畑の名前が出て来ませんでしたが、この大きな碑文を建てるのに尽力した一人が稲畑で、フランス語と漢文で記されているこの碑の当事者は、このブログ冒頭部分に書いた恩師レオン・ジュリーです。1877年彼がフランスに帰国するとき、稲畑ら8名の留学生を引率し、留学中の監督の任にもあたりました。1899(明治32)年70歳で亡くなったデュリーの功績を称えようと薫陶を受けた稲畑らによって記念碑が京都の南禅寺に建立され、1936(昭和11)年に関西日仏学館に移設されました。その時に1927(昭和2)年山科区に建設された関西日仏学館も現在地に新築移転したということです。

ここで思い出すのは、2019年6月6日付けで書いたブログで紹介した1936年12月10日付け新聞記事。

当時稲畑は、フランス文化協会副会長をしていたのですね。日仏文化協会の活動を通して、フランス語の啓発や日仏交換留学生の派遣など、フランスとの親善の道を開いた彼の功績も大きいですね。

レオン・デュリーの石碑に話を戻すと、デュリーがこうした石碑で功績を称えられたことのひとつが、西陣に産業革命をもたらせたこと。ということで、NDYの二人は私どものミュージアムの近くにある西陣織会館(堀川今出川)へ。建物の裏側に「ジャカード織機100周年記念モニュメント」が建っていました。丸い穴のあいた「紋紙」がデザインされています。その紋紙が上掲写真職工さんの左側にセットされています。穴のあいている糸だけが持ち上がり、横糸を通すことの繰り返しで西陣織の緻密な模様が織れます。かつては西陣織は2人一組で作業していましたが、この紋紙を使うことによって一人で織ることができて効率が上がり、西陣織が発展しました。

番組の「なんでやねん⁉」の解答は、レオン・デュリーはフランスのジャガード織り機導入を働きかけ、西陣織発展に貢献した」でした。最後の場面で「写真:稲畑産業株式会社 提供」とクレジットされていますが、番組で稲畑勝太郎の名前が一度も出なかったのが惜しくて、レオン・デュリーの功績を後世に伝えようと尽力した彼のことを録画した番組を見ながら書いてみました。稲畑勝太郎のことももっと知って貰えたら嬉しいです💗

 

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