おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2016.01.14column

関西マンガ界のレジェンド 酒井七馬について

先月20日まで、大阪府東大阪市の府立中央図書館国際児童文学館で開催されていた「関西マンガ界の伝説 酒井七馬とその時代」では、当館所蔵「忍術火の玉小僧 海賊退治」(1935年5月公開、田中与志監督、日活京都撮影所漫画部)のアニメーションも公開されました。

スキャン_20151225 (2)この作品の作画スタッフの一人が、酒井七馬さん。1905(明治38)年、大阪市南区(現中央区)生まれ。昨年は生誕110年の節目でした。

正直に言えば、担当の遠藤先生から、映像の貸し出しを依頼されるまで、この作品の作者について存じませんでした。それが国際児童文学館企画展で公開されるようになった背景には、8月末に来館された日本アニメ―ション史の第一人者、渡辺泰先生の存在があります。来館時の渡辺先生は、大変楽しそうに所蔵アニメーションをご覧になっていました。企画展の相談を受けた先生は、当館に酒井七馬さんの貴重なアニメーションがあると遠藤先生に助言されたのです。

その酒井七馬(本名・弥之助)さんの名前を、自分の不勉強を棚に上げて言うのもなんですが、今のどれほどの人がご存知でしょうか? 国際児童文学館で作成された資料を読んで、「そんな凄い人がおられたのか!」と今更ながらびっくりすると同時に、興味を覚えました。大正時代後半の新聞や雑誌の風刺漫画を皮切りに、黎明期のアニメーション界、先の戦争中には軍事慰問漫画、戦後は赤本や街頭紙芝居を描いて、子どもから大人までと幅広い人々に人気があった人物です。

そして最も驚いたのは、まだ大阪大学の学生さんだった手塚治虫さんと組んで、赤本マンガ『新宝島』を1947(昭和22)年に出版(大阪の育英出版)されたこと。その前年7月8日に親交があった漫画家・大坂ときをさんに伴われて医学生だった手塚さんが酒井さんを訪問して二人は出会いました。酒井さんが原作・構成を担当し、手塚さんが作画を担当したこの作品は、大阪の赤本マンガ(もとは子供向け絵本として作られた表紙が赤い小型本)最大ヒットなっただけでなく、後のマンガ界をリードする藤子不二雄さん、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんらに大きな影響を与えました。

もう一つ驚いたのは、それに先立つ1934(昭和9)年に、戦前を代表する映画俳優の一人・大河内伝次郎さんの紹介で、日活京都撮影所漫画部に入社していたこと。同年5月23日付け「京都日出新聞」(今の京都新聞の前身)には「大阪在住の酒井七馬が俳優・大河内伝次郎の紹介で入社した」と掲載。トーキー漫画映画「島の娘」を皮切りに、ここに掲載した「忍術火の玉小僧 海賊退治」や「同 山賊退治」などを作りました。1942年12月には、原作・監督・作画と一連の行程全てを自ら手掛けた「海の小勇士」を制作。資料から引用すれば「初めて自らが関わったアニメを見て、絵が動いたことに大きな驚きを感じたといいます」。戦後も1966(昭和41)年から「オバケのQ太郎」「ロボタン」などのアニメーション制作にも関わられたそうです。

他にも挿絵やイラスト、街頭紙芝居作家として活躍した酒井さんでしたが、1960年代に劇画の時代を迎えてマンガ界は大きく変わり、1969(昭和44)年の死とともに「酒井七馬」の名前は、人々の記憶からほとんど忘れられた存在に…。

日本のマンガ、アニメーションに対し海外から熱い視線が降り注がれている今、今回の展示が契機となって、「伝説の人・酒井七馬」さんが再びクローズアップされると良いなぁと思います。12月12日国際児童文学館で開催されたイベントでは、塩崎おとぎ紙芝居博物館紙芝居師による街頭紙芝居『鞍馬天狗』他が実演され、中野晴行・京都精華大学客員教授による「レジェンド酒井七馬と昭和の大阪まんが」と題した講演が行われました。この講演で、「忍術火の玉小僧 海賊退治」が上映され、「この動画は大変貴重なものです。皆さんへのクリスマスプレゼントです」と話されたとか。遠藤先生からこの話を聞いて、私どもの活動が少しでも世の中の役に立っていると改めて実感した次第です。酒井七馬さんについて関心があるからは、中野先生の著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝』(筑摩書房。2008年度日本漫画家協会特別賞受賞)をご覧ください。

 

記事検索

最新記事

カテゴリー

月別一覧