おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2024.04.06column

シナリオライター依田義賢先生の資料展

「シナリオライター依田義賢生誕115年記念展」は、あと3週間となりました。先日はご長男義右先生(大阪芸術大学名誉教授)ご夫妻が見に来てくださって、『残菊物語』(島 耕二監督、1956年)の展示をご覧になりながら、「そういえば羽子板があるなぁ」と仰って。主人公を演じた長谷川一夫が描かれているようで、「今度持ってくる」とのこと。連れ合いも見たことがあるようで、なかなか立派なもののようです。そして、今日もおいで下さったのですが、思った以上に大きくて持ってくるのが大変だし、安定具合も心配なのでそれは見送りに。代わりに、1977年紫綬褒章を受けられた折に受け取られたお祝いへのお礼状を新たに加えました。その文章が良いので一部を紹介。

 …褒章の記によりますれば 私がよいシナリオの仕事をして映画界に寄与しましたので賜った由 記してございましたが 私はよいシナリオを書こうと ひたすらそればかり一心に思い 勉強し力いっぱいに努力してきたばかりでございまして いまもって余裕のある仕事ぶりが出来ずにおります 褒章を賜りましたのは さらに一段と充実した仕事をするようにとのお励ましであると思っております

近松門左衛門は七十歳の後に いよいよ確信にみちた様子で傑作を作っております 私もさらに精進して よいシナリオを作っゆき また あわせて 芸術大学の教官として後進の才能ある人材の育成につとめたいと思っております。……

読みながら先生の声を思い出していました。懐かしいです。

他に11月御園座公演『帰る雁』三幕のシナリオ、依田先生の書き込みがたくさんある『好色五人女』番組出演の台本、『浪花女』のシナリオで取材した文楽『壷坂観音霊験記』について書かれた国立劇場第96回パンフレットなどを持参していただきました。義右先生ご夫妻は、今回の展示を機に、だんだんと探し物に力が入ってきている様子で、もっと他にも珍しいものが見つかるのではないかと期待値は上がります。

先に「貴重なものが出てきた」と持参して下さったのは、依田先生が出版された詩集『ろーま』(1956年、骨発行所)を親交がある方々に寄贈され、届いた礼状を丁寧に糊付けして保存されていたスクラップブック(下掲写真)。展示期間中は開く頁を度々替えているのですが、この写真で上段右から2枚目は、昨年展覧会をした木下惠介監督からの葉書です。

題字の「ろーま」の文字はお母様つるさんの筆です。1953年ヴェニスの映画祭に『雨月物語』が出品され、7月10日午前10時に溝口健二監督と二人で羽田空港を飛び立ちました。ジョット旅客機コメットに搭乗されましたが、帰国後この旅客機は翌年1月10日ローマ沖の地中海で空中分解し、4月にも続きましたので、とにもかくにもご無事で何よりでした。お母様は体が弱い依田先生の渡欧を「身を細らすほどに心配して」おられたので、お母様の祈りも届いたのでしょう。そのお母様への敬愛のしるしとして、題字を書いてもらったのだと詩集の「後記」にあります。

ちなみに、『雨月物語』は1953年度ヴェニス映画祭で最優秀外国映画賞、1955年度エジンバラ国際映画祭で最高作品作品賞受賞、1972年度英国世界映画研究所主催「世界映画史上ベストテン」入選と、掲示している当館所蔵ポスターに誇らしげに書き連ねてあります。今も世界が認める名作中の名作です。

詩集『ろーま』に掲げてある最初の詩のタイトルが「ジェット旅客機について」。コメットを「天馳ける女神」と比喩して書いておられます。『骨』№12(1957年7月号、編集者は山前實治さん、発行者は依田義賢先生、発行所は骨発行所)の6~13頁にわたって〈ろーま〉感想が載っていて、その冒頭が溝口健二監督の文章です。実は、上掲スクラップブックの最後の頁に溝口健二監督の絶筆として、この文章が貼ってあります。

『骨』№12には「三週間前」(事実は四、五日前であるが、錯覚を起こされていたのである)と添え書きがしてあります。そして文末に(絶筆)とも付されています。連れ合いは、この筆跡が溝口監督の内弟子となり『赤線地帯』などの脚本を手掛け、後に監督になった成澤昌成さんか、溝口監督の助監督を務めた宮嶋八蔵さんが、口述筆記したものだろうと申しています。「就中(なかんずく)インドのデリーで かの詩が大好きだ」と書いてあるので、それをご紹介。

…………インド人の足

ニューデリーの飛行場の、レストランのボーイの足は、はだしだった。頭に巻いたターバンにも、白い長い上服の帯にも、あでやかな、赤と黄色の筋が入り、ズボンの折れ目は正しいが、顔より黒い足は生まれたままのはだしだ。天井に三列、二十あまりの扇風機のプロペラがまわっている。それでも、そよとも動かぬ、雨季の夜の蒸暑い空気と同様に、この足は頑冥極まる未開さだが、思えば、この平たい大きな黒い足は、焼けつく大地を踏み堪えて、二百有余年の屈辱を、父祖よりうけついだ足だ。この足がインドを独立させたのだ。どんなに鞭打たれようと、靴などはいて、母なるインドの大地より、隔てられることを、必死と拒否したのだ。みろ、この足は、壁にいる大やもりの吸盤のように、コンクリートの地べたに吸いついている。

…………

『骨』№12には、届いた礼状や感想の中から抜粋して其々の方が書かれた文面を掲載しています。全部を紹介するわけにもいきませんので、その中でよく知られている方のお名前を書き連ねてみますと、吉井勇さん(作家・歌人・脚本家)、舟橋和郎さん(脚本家、兄は聖一)、清水千代太さん(映画評論家)、岩崎昶さん(映画評論家・映画製作者・ドイツ文学者)、八木保太郎さん(脚本家)、竹中郁さん(詩人)、高橋新吉さん(詩人)、西脇順三郎さん(詩人・英文学者)、安西冬衛さん(詩人)、壷井繁治さん(詩人、妻は栄)、田中冬二さん(詩人)、野上素一さん(伊文学者・伊語学者)、天野隆一さん(詩人)、小野十三郎さん(詩人)、中江俊夫さん(詩人)、永瀬清子さん(詩人)ほか。

22歳だった依田先生が脚本家としてデビューされた最初の作品『海のない港』(村田實監督)や、『白い姉』、『競馬と女房』のことが載っている1931年の雑誌『日活』から。現物のフィルムがないので、古い雑誌もコレクションされている三品さんのご協力を得て、どの様な作品だったかがわかるページを紹介しています。

そして、今日は義右先生ご夫妻と、そのお子さん夫妻、つまりは依田先生のお孫さんご夫妻が来館され、先生のしてこられた仕事についてゆっくりとご覧頂きました。

丁度良い機会でしたので2007年11月19日に放送されたNHK「スタジオパークからこんにちは」の録画をみんなで見ました。

番組の副題は「松尾貴史の原点はヨーダだよーだ」。多方面で活躍されているゲストの松尾貴史さんですが、この道に進むきっかけになったのが大阪芸術大学時代の依田先生とのやり取りだったことも話されていました。依田先生だけでなく、大阪芸大時代は他の先生方の声帯模写をして既に大評判。

学んでおられたデザイン学科時代に得意の折り紙で造形したヨーダを披露しながら、「『スター・ウォーズ』のヨーダのモデルは依田先生だ」と賑やかに聞き手の武内陶子さんに話しておられるのを皆さん楽しそうにご覧下さいました。この録画テープは最近私の家を片付けていて見つけたのですが、依田先生のご家族に喜んで見て貰えたので本当に良かったです。

子どもの頃から折り紙には興味があったそうですが、このヨーダの“折顔”は松尾さんの第一作。その貴重な作品を是非にお借りしたいと活弁士の坂本頼光さんを通じてお願いし、ありがたいことに快諾を得て、今は館内に飾っています。前掲写真に写り込んでいます。先日松尾さんご自身から「貴重な機会をありがとうございます」と返信メールが届いて、ミーハーの私は大変嬉しかったです💗

今日は雑誌『popaye』1997年6月10日号に掲載された「SW(スターウォーズ)旋風の徹底解剖 キミはスター・ウォーズの全てを知っているか!」特集の中の「あのキャラクターのモデルは誰だ?」のコピーも頂戴しましたので、それも掲示しました。ここにも依田先生の名前が載っています。

掲示したその額には、義右先生が書かれた文章「詩人としての父依田義賢」も入れました。依田先生のご長女がバークレー大学に留学中、世界的に有名な依田先生の娘であることを知った教授が日本映画週間を開いて、依田先生をゲストで招かれました。1956年5月4日~13日に溝口監督と依田先生の作品上映会を6回開催し、初日の講演の冒頭「病弱で青白い顔の若き詩人が映画界に入ってきました。それがわたしです」と自己紹介をされたのだそうです。義右先生は「父は自分が詩人であることを誇りとしていた」と書いておられます。これを読んでハッとしました。この展示をするに際し協力して下さった日本映画史家の本地陽彦先生は「依田氏のシナリオを語るには、氏の詩作のお仕事抜きには理解が及ばない筈ですが、そのことに言及する研究者が余りいないようです」と書いて下さいました。展示の最初の頃に来館いただいた方は「詩集のファンやコレクターは大勢おられる」と教えて下さいました。そうした人たちに、展示をぜひ見に来てもらい、依田先生の詩について教えて貰いたいです。

なお、義右先生文章の末尾は「フランシス・コッポラと映画制作を依田義賢とタッグを組む話が出てオムニバスを書き上げたが制作までには至りませんでした」で結ばれています。依田義賢先生は書き上げておられましたが、製作費がかかりすぎるためお蔵入りしたのだそうです。実現すればどんなだったかとつい想像してしまいますね。

詩集繋がりでもう1冊紹介すると、先述の『ろーま』の隣に並べている『冬晴』(1941年)。題字は溝口健二監督の筆です。溝口監督は篆書に詳しいだけでなく、上手ですね。

1941年5月、「新生」の同人だった臼井喜之介のウスヰ書房から発行。装幀は映画美術監督の水谷浩さん。その「後記」が興味深かったです。意外にも、映画畑の人たちに詩を書くことは一度も言ったことがなかったのだそうです。「後記」の書き出しは、

……私が詩集を出すと云ったところ、映画の方の友人が、お前が詩を書くのかと大笑ひをして、てんでまともに聞いてくれないのです。私が詩を書いてゐることは映画の畑の人達には、ごく最近まで口にしたことがなかったのです。恐らく未だに知っていない友人もありませう。私は何故か云いたくなかったのです。……

詩を書くことは秘密の部屋で、そこで弱音を吐いたり、自分を慰めたりして、出て行ったのだそうです。でも何かのきっかけがあって思い切ってこの部屋を開放する決心をされて出版に。どんなきっかけだったのかしら?

私は1980年に依田先生と初めてお会いし、その印象はチラシの笑顔のままでしたから、まだ知らないでいた依田先生の側面を今頃知ったような気がしています。

それにしても今回は展示日が進むにつれて、掲示点数が増えて面白いです。あと3週間、ひょっとしたらまだまだアッと驚く資料が出てくるかもしれません。私が期待している資料も出てくると良いのですが。。。

京都も桜が満開🌸 花見の足を延ばして、ぜひ展示を見にいらしてくださいね。お待ちしております‼

【4月10日追記】

上記ブログの中で「成澤昌成さんか、溝口監督の助監督を務めた宮嶋八蔵さんが、口述筆記したものだろう」と書いている部分について、今日来館された京樂真帆子・滋賀県立大学教授に実物を見て貰ったところ「宮嶋八蔵さんの筆ではない」とのことでした。京樂先生は、既にこのブログをお読み下さっていて、直ぐに手元にある多くの宮嶋さんの筆跡と見比べて下さったのだそうです。

【4月19日追記】

ネットのサイト「宮嶋八蔵日本映画四方山話-団子串刺し式私の履歴書」を紹介されている竹田美壽恵さんから電話が掛かってきました。竹田さんは生前の宮嶋さんの口述筆記をされていて、これまでに大変な量の文章を残しておられます。その労作のPart4「映画製作の現場風景」に溝口監督について次の文言があることを教えて下さいました。

「(溝口健二監督の)最後の弟子は小林政雄君です。彼は会社の助監督籍はなかったのですが、三本は確実に先生の作品についていますし、病室で先生最後の口述遺書の筆記をしているのです。」

とあります。上掲の筆跡が「小林政雄さん」だと直ぐに断定はできませんが、その可能性もあることを追記しておきます。

 

 

 

 

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