2025.09.24column
オートクロームなど貴重な資料を寄贈して頂きました‼
6月7日に8㎜フィルムを持参して、そのデジタル化を依頼された市内の方は、8㎜フィルムだけでなく、1枚の「オートクローム」のカラー写真(ガラス板)を持参されました。帰り際、人形好きの私に「ひな人形を飾っているから家に見に来て」と声をかけてもらって、9月9日に訪問させていただきました。その折、部屋の壁に貼ってあった朝日新聞1985年4月5日付け「朝日新聞京都支局開設百年」の全面記事に目が留まりました。せっかくのカラー全面記事でしたが、掲載から40年経ち、セピア色に変色していました。

上掲は記事の下半分ですが、女の子二人が緋毛氈に腰かけている愛らしい写真に目が釘付けに。ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプ、横浜写真などの写真を展示し、シネマトグラフを発明したリュミエール兄弟のことをいつも話しているくせに、同じリュミエール兄弟が発明し、1903年に特許を取得、1907年に市販化を始めた世界初のカラー写真「オートクローム」について、正直に言えば、この新聞記事を読んで初めて知りました。これらの写真が、同じく別の壁に貼ってあった感謝状の内容から、市内の施設に寄贈されていることを知り、早速見学と撮影を申し込んで、18日に調査に行って来ました。木製で綺麗に拵えられた箱に納まった30枚を写真撮影させてもらってきて、早速館内にパネル掲示しています。
もうこれで撮影者・長野仙之助さんの「オートクローム」カラー写真は全てかと思っていましたが、今日撮影者の末裔の方と一緒に、別件で訪問した先で、もっと多く保管されていたことが分かってびっくりしました。紙製の特別仕様の保存箱にきちんと並べられ、その数は英国判八切り11枚、同キャビネ判7枚、同手札判23枚の合計41枚もありました。結果的に、これらは私どもに寄贈して頂いたのですが、寄贈者の方は、2011年にこの施設の先生に預けておられたことが、先生のお話で分かりました。当時はとても多忙だったこともあり、この施設に「オートクローム」を預けたことはすっかり忘れておられました。先の30枚についても同様で、年月が経てば、すっかり記憶から抜け落ちてしまうことは、自分の身に置き換えて考えてもよくあることです。
2011年は東日本大震災があった時で、預かった先生ご自身が古文書など文化財保存修復の専門家で、被災した資料のレスキューで超多忙を極めておられたそうです。その後、指導をされていた京都造形芸術大学歴史遺産学科文化財保存修復コースの学生だった田中孝尚さんが、2013年に卒業論文「オートクロームに見られる色斑点に関する研究」と「オートクローム調査票」をまとめられ、今日はそのコピーを頂戴しました。寄贈者の方と「来年は、オートクロームの展示をしましょう」と話しています。この研究をまとめられた田中孝尚さんにも連絡が取れたら、ぜひ発表して頂きたいと思い、先生に仲介依頼のメールを差し上げました。
2011年から14年も経過していて、どのような経過で元の所有者の方がこの先生と知り合い、託されたのか、その経緯がいまひとつはっきりしません。2010年にガラス乾板をテーマにした展覧会があったそうですから、その時に出会われたのかもしれません。ともあれ、預かってくださった先生が文化財修復の専門家だったことが大変に幸運でした。

上掲はこの施設から持ち帰り、寄贈いただいたモノたちです。9.5㎜フィルム400巻が19巻(受け取ったリストでは20巻)、200巻が12巻、それらを映写してご覧になっていた日本製アルマ映写機2台、右手手前にあるのがオートクロームカラー写真で、前述の通り41枚ありました(リストでは大が概ね215×165㎜、12枚▼中が164×119㎜、7枚▼小が107×82㎜、23枚で、大1枚が不足しています)。どういう状態で保存されているのか事前に何も情報がなかったので、ひょっとしたら9.5㎜のフィルムは劣化が進行していて見られないのではないかと大変心配しましたが、ご覧のように缶から取り出し、専用の箱で保存されていましたので本当に安心しました。これから追々にデジタル化して保存し、資料として活用して頂けるように取り組みます。
田中さんの論文をもとにオートクロームについてわかる範囲で紹介しますと、1895年フランスのリュミエール兄弟(兄のAuguste 1862‐1954、弟のLouis 1864‐1948)によって発明されたシネマトグラフにより、二人は「映画の父」として知られていますが、他に100件以上もの特許を登録していて、そのうちの一つが「オートクローム」でした。世界で最も初期に登場したカラー写真の一つですが、写真としてイメージする紙焼きのカラー写真ではありません。ガラス板を基底材にしたガラス乾板ですが、1839年フランスのダゲールによって発明された「ダゲレオタイプ」と同様、複製もできなければ紙焼きもできません。「透明陽画=トランスパレンシー」と言われる唯一無二のカラー写真です。18日の調査でも、下にライトボックスを置いて撮影しました。上掲の朝日新聞掲載写真もそのようにして撮影したものでしょう。直接ガラス乾板に自然光を透過させたり、専用の映写装置に設置し、白い平面上に投影したりして楽しんだのでしょう。
カラー写真の発明には1810年ごろから世界中の人々が関心を示し、試行錯誤して挑戦してきましたが、弟のルイ・リュミエールもその一人でした。1892年にカラー写真の開発に着手し、11年の歳月を費やして1903年に「オートクローム」の名称で特許を取得しました。彼は「オートクロームこそが生涯で一番の発明品である」と語っているそうです(久野轍輔『寫眞實鑑』、1909年)。1907年リュミエール社から発売され、やがて1908(明治41)年に、日本でも写真材料商の小西本店(後の小西六写真工業、現在のコニカミノルタ)によって独占的に輸入販売が行われました。当時の小西本店の商品カタログによると、手札判が3円20銭、キャビネ判が7円50銭、八切判が13円50銭だそうです。9月26日に最終回を迎える朝ドラ「あんぱん」に木村屋のあんぱんをモデルにした話が出てきますが、1906(明治39)年の木村屋のあんぱんがひとつ一銭だったそうです。今の価値に換算するとびっくりするぐらい高価で、享受できたのはごく一部の富裕層限定ですね。京都市内で江戸時代から続く商いをされていた家柄だったからこそ可能だったのでしょう。被写体には、じっとしていて撮影しやすい花などが多いですが、田植えの風景や金閣寺、近代化する岡崎の様子なども記録され、その当時をカラーで知ることができる貴重な資料です。
オートクロームは1930年代半ばにアメリカのコダック社から「コダクローム」が発売されるまで、一般に流通する唯一のカラー写真として市場を独占しました。構造については、こうしたことに私は疎いので省かせてもらいます。寄贈者にオートクロームを撮影したカメラは残っていないか尋ねましたが、幾度か住まいを変えられたので、その途中で失われたのかも知れず、今現在は見つかっていません。ネットで検索した拾い物の写真ですが、格好良いのでSNSでも貼りました。

けれども、論文を読んでいたら、「基本的にオートクロームはガラス乾板と同じ構造であるため、撮影においても特別なカメラを用意する必要はなく、従来のガラス乾板の撮影で用いるカメラと取り枠があれば撮影できた」そうです。

これは2023年4月2日東寺のガラクタ市で購入したブローニー・カメラです。田中さんによれば、「(上掲写真のような)ガラス乾板の場合は感光乳剤が塗布された面をレンズ側に向けて撮影を行うが、オートクロームの場合は感光乳剤面をそれとは逆にして撮影する必要があった。これは光を染色でんぷんのカラーフィルターを透過させて撮影するためである。そのため、レンズから感光膜までの距離がガラスの厚さの分だけ離れることになり、ピントの調整を行う必要があった。また、レンズの前には遮光用の黄色いフィルターを設置する必要があった」とも。もっと他にも専門的なことがたくさん書いてありますが、このカメラでは手札判で撮影できなかったのかしら?
さて、私ども当初の関心は9.5㎜フィルムでした。長野仙之助さんは100年以上前のオートクロームから、自分で好きに撮影できる動画「九ミリ半」の面白さにシフトしていったのでしょう。「オートクローム」も「九ミリ半」も金持ちの趣味の世界でしたが、中には「関東大震災と京都水禍の実況」とタイトルがある映像や、京城、平城、奉天、撫順、新京を1933年5月に訪ねた記録もあり、当時を知る手掛かりになりましょう。他の作品も併せ、これからデジタル化して拝見するのが楽しみです。映像はリスト化して、多くの方に利用してもらえる状態にしていきたいと思っています。そのための手立ても考えなくてはなりません。やるべきことはたくさんあります。
ともあれ、こうして貴重な資料を寄贈いただいたことに心より御礼を申し上げます。


