おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.05.05column

2019年12月8日開催「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」の振り返り③-1

12月8日に映像を通して平和を考えるPart2として「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」と題して研究発表を催そうと思い付いたときには、自分が発表する予定がなかったのですが、長野県の公益財団法人南信州地域資源センター(MSC)の方から、昨春、池田都樂の幻燈機について問い合わせがあり、それをきっかけに、幻燈だけでなく後に映画も用いながら、長野県を中心に広範囲にわたってブラジル移民や満州移民促進の「社会教育活動」をしていた幻燈師・岸本與(あたえ)の存在を知りました。

彼が使っていた幻燈機と種板が地元の長野県上伊那郡宮田村教育委員会に寄贈されて保存されているとわかり、実際にどのようなものか見てみたい衝動が抑えられず、11月21日、22日往復高速バスを利用して長野県へフィールドワークに行ってきました。目的地が点在していて、そこへのアクセスがなかなか困難だったこともあり、各施設で僅かな時間しか費やせなかったのが残念でした。ともあれ、プログラム予定外ではありましたが、その報告を直前までモタモタ、パニックになりながらパワーポイントでさせて貰いました。

「長野県フィールドワーク報告~多くの移民送出に関わった人物の足跡を尋ねて~」

(なお、文中に今では使われない「満州」や「匪賊」の用語がでてきますが、歴史的資料に基づくものですのでご了承願います)。

図1

高速バスを駒場で降りて、タクシーで「満蒙開拓平和記念館」(長野県下伊那郡阿智村駒場711-10)へ。満蒙開拓の史実を風化させることなく後世に伝える拠点として、2013年4月に開館した民間施設です。訪問直前にFacebookで繋がった飯田市歴史研究所調査研究員の本島和人さんが機転を利かせて事前連絡をしてくださっていたおかげで、事務局長の三沢亜紀さんが対応してくださいました。展示についてはリンクを張っていますので、ぜひそちらでご覧下さい。今回の目的の一つは、昨春入手した16ミリフィルム「三江省樺川県千振」を誰が撮ったのか、その手がかりを求めることであり、もう一つは長野県下で社会活動家として有名だった幻燈師・岸本與について知ることでした。

同記念館図録(2018年8月25改訂版)の扉を開けて直ぐに目に飛び込んできた写真が「千振開拓団 満州時代井戸の巻上式釣瓶」と「千振開拓団 野花の中で花見」でした。正直に言えば、NHKBSプレミアム『開拓者たち』のDVDを今年3月に見るまでは、第二次試験移民団「千振開拓団」は、一番多くの移民を送出した長野県の人々で結成されているのだとばかり思い込んでいました。2012年に放送されたこの番組は、日中国交正常化40周年を記念したドキュメンタリードラマでした。それによると満州で2番目の開拓地「千振」へ向かった人々は、千振中心街に「湖南営」を置き、山形区、宮城区分屯、宮城区、青森区、富山区、秋田区、神奈川区、福島区、新潟区、石川区、山梨区、福井区、栃木区、群馬区の出身県別に固まって居住していたようです。ドラマの主人公ハツの夫、速男は宮城区出身で一番多かったことから、分屯までありました。

千振開拓団については、安岡先生の振り返りを書いていて、栃木県那須町に再入植され今も「千振」の名称を引き継いでおられると知り、千振開拓農協組合長薬袋(みない)さんと電話で話しました。COVID-19で先が見通せませんが、夏に「三江省樺川県千振」の記録映像を持参して、那須の方にお話を伺えたらと思っています。『開拓者たち』で多くの証言を知ることが出来ましたので、それを踏まえてフィールドワーク出来たらと考えています。

話を戻して、1936(昭和11)年8月、関東軍が立案した「満州農業移民百万戸移住計画」が国策になります。国や軍部の思惑による国策として進められ、そのことを国民も支持した面もあります。「20町歩の地主になれる」と盛んに宣伝されました。約27万人の人々が、開拓移民として満州に送り込まれましたが、中でも長野県南部の飯田や「満蒙開拓平和記念館」がある下伊那地方が最も多くの開拓団を送出しました。

図1

三沢さんに16ミリ映像に出てくる画像を何枚か見て貰いました。写真はその1枚です。キーパーソンだなぁとは思っていましたが、不勉強で全く誰か分からなかったのですが、一目見て陸軍軍人の東宮鐵男(とうみやかねお、1892-1937)だと教えて貰いました。安岡先生の回でも書きましたが、1928年6月4日の張作霖爆破事件の実行者であり、満州への移民を推進した中心人物です。日中戦争下の1937年11月14日、浙江省平湖県で被弾して死亡します。1933年第2次試験移民(武装移民)として、満州に移住した人々が、三江省河樺川県千振原種圃(現在の黒竜江省北東部)を築き、東宮の遺影に焼香している場面から、この映像が始まります。移住から数年の間に豊かな農業、酪農が営まれていることをアピールしています。

この振り返りを書いている間に色々調べていて、2006年8月11日にNHKスペシャル『満蒙開拓団はこうして送られた-眠っていた関東軍将校の資料』が放送されたことを知りました。それはYouTubeで見ることができました。タイトル副題にある関東軍将校とあるのが、「満蒙開拓の父」と呼ばれた上掲写真の東宮鐵男です。群馬県前橋市にある生家の土蔵から、満蒙開拓計画に関わる詳細な資料100点以上が発見され、その貴重な資料を用いたドキュメンタリーでした。彼は筆まめな人物のようで毎日の行動を「満州日誌」に綴っていて、その内容から、東宮が「満蒙開拓団」をどのように発案し、実行していったのかが、戦後61年を過ぎて明らかになりました。

満州は日本の3倍の面積を持ち、鉱物資源に恵まれていたことから、東宮は満州の占領が自分の使命だと考えていたようです。昭和2年11月5日の日誌には「世の多年の理想たる満州集団移民を実施する計画あり」と記しています。昭和6年9月18日満州事変が勃発し、関東軍暴走が始まります。「在郷軍人及朝鮮人満蒙移民方策」を軍上層部に提出し、その年12月ソ連と国境を隔てる吉林省に派遣され、中国服を着て省内をくまなく調査します。その結果が開拓団送出に活かされます。

1932(昭和7)年3月に満州国建国が宣言され、五・一五事件により政党内閣が幕を閉じると軍部が政治に深く関することになり、満州移民を推し進めていく拓務省は、一気に移民を推し進めます。推進役に農業教育の第一人者加藤完爾を迎え、東宮は二人三脚で取り組みます。6月に東宮は「吉林屯墾編成の組織案具申書」を関東軍司令部に提出。彼はシベリアのコサックのような武装農民を考えていました。8月30日帝国議会で20万円(今の8億円)が可決され、第一次試験移民団を送出することに。独身の在郷軍人から選ばれ、茨城県水戸市にあった加藤の農業訓練所で3週間訓練を受け、射撃の訓練も受けた後、10月に493人が出発。東宮は大連で彼らを出迎えて、吉林省まで引率します。10月14日夕刻に佳木斯(ジャムス)に到着しますが、その夜中の1時に、現地の「匪賊」と呼ばれていた人々の襲撃を受けます。寒さと粗食、匪賊に対する警備は移民団の人々にとって想定外なことでした。

1933(昭和8)年2月に先遣隊が入植予定地の永豊鎭に行きます。東宮は「官有未耕地」と書いていますが、実態は2千ヘクタールの民有地の半分が既に耕作地で、開拓地の確保にあたった満鉄の子会社、東亜勧業(株)が一人5円(今の2万円未満)で立ち退き料を払って確保したものです。一括買収で酷いやり方ですが、東宮は民有地からの中国人追い立てはやむを得ないと考えていました。

4月第一次試験移民団は、永豊鎭に本格的に入植を開始し、弥栄村と名付けられました。重労働と襲撃に備える極度の緊張感から300人以上が病気に罹り、精神的にも追い詰められ、7月移民団は「幹部の職能なし、総辞職勧告を決議す」という決議文を拓務相に出します。このように第一次移民はかなり問題を抱えていましたが、軍や政府はひた隠しにして、移民団を讃える情報だけが流布されました。

今回の振り返りを書いていて興味を持った人物に永田稠(1881-1971)もいます。振り返り①で田中先生が日本力行会所蔵の幻燈種板のことをご紹介くださいましたが、その種板を作ったのが、長野県諏訪郡生まれの永田でした。第二代会長として、1920(大正9)年に文部省より在外子弟教育調査の嘱託を受け中南米を一巡し、翌年『南米日本人写真帖』を出版。その写真をもとにブラジルへの移民を促す多くの幻燈種板を作り、それを見せながら講演して歩きました。その永田が関東軍移民部の嘱託として招かれ、1933年11月に弥栄村移民団を視察しています。番組では、その時撮影されたフィルムの映像も見ることができました。

DSC_1735

それを見ながら、ふと、うちが入手した「『三江省樺川県千振』の映像も関東軍移民部が撮ったものではないか」と思いました。番組で放送されたフィルム缶にはEXと書かれていて、コダックの16㎜フィルムだと分かります。うちが入手したフィルムは、剥き出しのままの16㎜フィルムの断片でしたが、缶に入っていなかったからこそ見ることができた映像とも言えます(缶に入っていたら劣化が酷くて、見られなかった可能性があります)。

永田がまとめた18項目80頁に亘る報告書で「土地の測量、土地の所有、移住者の宿泊所、衛生施設などを準備せずに、一気に五百名の全移住者を入植させる暴挙は世界各国の移住計画にその例を見ない。満州人約九十戸を強制的に退去させた。彼らは家を失い、耕地を離れ、直ちに生活の脅威を受けることは当然。移住者が常に匪賊より脅威を受けた遠因の一つになっている」と即刻改善するよう進言します。歴史に「たら」「れば」は禁物だと言われますが、東宮が移民支援経験豊富な永田の意見にもう少し耳を傾けていてくれたら、敗戦後混乱期の様子はもう少し変わっていたのかもしれないと思うのです。

移民計画立案者の一人である東宮は、この意見に強く反論します。「満州人は人道王道をもたらす大和民族の大陸進出を妨害する国賊だ。帝国百年の移民国策の立案に当たり、新日本建設前衛の移民地に文句をつける輩は国賊と言うべきだ」とまで言われて、永田は関東軍移民部から去って行きます。その後、試験移民は第二次、第三次と推進され、その第二次が千振開拓団でした。

東宮は1937(昭和12)年11月14日、中国浙江省の戦線で死去し、翌年3月生家で盛大に営まれた葬儀の写真とその折りの「花輪寄贈者芳名帳」も紹介していました。その花輪や弔辞の名簿の中には、傀儡国家満州国の経営に深く関わる人物の名前が連なっていました。関東軍参謀長東条英機、関東軍副参謀長石原莞爾、満州国産業部次長岸 信介、満州炭鉱(株)理事長河本大作、七三一部隊石井四郎など。

東宮の死後、満州移民は国の大事業に発展し、百万戸計画により全国各地から300を超える開拓団が入植し、村を挙げて移住した開拓団もありました。その数27万人と言われていますが、1945(昭和20)年8月9日150万を超えるソ連軍が満州国境から侵攻してきて、悲劇を迎えます。4月関東軍は、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄すると宣言すると、満州国の首都としていた新京以南を重要地域に指定して、南部に立て籠る作戦を立てます。満州北部にいた開拓民たちは見捨てられる結果に。矢面に立たされた多くの開拓民が逃げ惑い、集団自決したり、飢えと寒さによる死が続き、8万人もの人々が日本に帰ることが出来ませんでした。その千振開拓団での体験取材も交えて製作されたのが2012年に放送されたドキュメンタリードラマ『開拓者たち』でした。

図2

さて、12月8日のフィールドワーク報告に戻ります。この段階では、『三江省樺川県千振』の撮影者が誰か全く手がかりがなかったです。満蒙開拓平和記念館事務局長の三沢さんと話していて、満州へ渡った川路村分村の映像が残っていて、『下伊那の中の満州 聞き書き報告集10』(2012年、飯田市歴史研究所)に、同開拓団副団長のご子息今村秀平さんの記事が載っていることを教えて貰いました。それによると、1943年頃、移民勧誘のために川路村で写真館を経営していた佐藤さんを満州に連れて行って撮影し、その映画を川路村周辺に「満州はこんなところだぞ」と見せて歩いたそうです。報告集には現存するその映画の解説が載っていて、それを参考にすると、『三江省樺川県千振』に記録された暮らしについてもよく分かります。

図3

次に訪問したのは、熊谷元一(くまがいもといち)写真童画館(下伊那郡阿智村智里昼神温泉郷)です。下伊那郡会地(おうち)村で1909年に生まれた熊谷は、1939(昭和14)年6月、拓務省東亜第二課嘱託に採用されました。1939年、41年、43年満州へ出張し、満蒙開拓青少年義勇隊(14~19歳で編成、1938年から送出開始)と千振などの生活を撮影しました。その写真を持って、山梨県とか東北の方へ出かけ、学校で満州や義勇隊の様子を話して歩きました。惜しくも1945年4月の空襲で被災し、それらのネガフィルムも焼失してしまいました。『下伊那の中の満州 聞き書き報告集9』(2011年、飯田市歴史研究所)に熊谷さんが取り上げられていて、義勇隊の子ども達を300人ぐらい連れて開拓地へ送り届け、千振ほか開拓地を撮影して回った思い出を話しておられます。今回手がかりを期待した『三江省樺川県千振』については、熊谷さんは撮影しておられない模様。戦後熊谷は、小学校に勤めながら、阿智村の写真を撮り続けました。

図4

開拓団を撮影した写真を活用した「拓務省満州農業移民募集」のポスター。制作年は不明です。1935(昭和10)年4月、満州国皇帝溥儀が天皇と会見するため訪日します。お膳立てをした関東軍は日満一体不可分を内外にアピールし、満州支配を推し進めます。東宮は、それまでの単身者ではなく家族を送出するという計画を立案します。二・二六事件後に発足した広田内閣は1936年8月、七大国策を決定し、その6番目に20年間で満州開拓団100万戸、500万人を入植させる計画を打立てました。拓務省嘱託の熊谷さんは、飯田出身の加藤さんと一緒に、義勇隊宣伝の募集要項やポスターを作り、各県の学校や教育会へ発送したそうです。満州へ出張して撮った写真も用いられたのではないかと思います。高等小学校卒業者対象に集められた青少年義勇隊は、前掲茨城県の内原訓練所で農事と軍事訓練を受けた後、満州へ送出されました。名目は「満州で農業の担い手になる」でしたが、国境警備の意味もありました。

フィールドワーク2日目は、午前中飯田市川本喜八郎人形美術館へ行ってから、その北の方に位置する上伊那郡宮田村へ向かいました。JRの小さな駅に飯田市歴史研究所調査研究員の本島和人さんが迎えに来てくださっていて、一緒に宮田村教育委員会の小池学芸員さんを訪ねました。事前に資料を拝見したいと申請していたので、スクリーンのある部屋に幻燈機と種板、幻燈師岸本與が大切に保存していた芳名帳、岸本について書かれた本などを用意して待っていてくださいました。

 

 

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