おもちゃ映画ミュージアム
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2020.05.05column

2019年12月8日開催 「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」の振り返り②

12月8日に開催した映像を通して平和を考えるPart2「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」の2番目の登壇者は、安岡健一・大阪大学大学院文学研究科准教授です。演題は「国策と夢のはざまで」。

安岡先生のお話の前に、昨年3月当館が入手した16ミリフィルムをご覧頂きました。タイトルも製作についての情報もない部分映像で、約8分、満州三江省樺川県千振で記録された映像です。なお、以下の文中で「満州」「匪賊」という現在では使われない用語が出てきますが、資料をもとにしたものなので、当時の呼称をそのまま使用させていただくことをお断りしておきます。

DSC03155 (2)安岡先生は、京都大学大学院生時代に、京都と満州について調べ始めたそうです。

満州開拓移民は国の政策で繰り出されました。それ以前の1910年代にも何度か行って、失敗しています。経営のベースに上手く乗せられず、取り組まれはしたものの撤退することが続きました。それが大きく変わっていくのが1931年以降。9月18日に満州事変があって、翌年には「満州国」が建国されます。この年に満州移民は始まります。

1970年代から満州移民の研究が積み重ねられ、3つの時代区分で考えられています。1932年から試験移民期(自由移民+在郷軍人を中心とした武器を持った移民達が中心)、1937年から本格的移民期(試行錯誤しながら送り込まれていきました)、1941年から崩壊期(最近は「アジア太平洋戦争期」という名称を用いるべきだという意見が出ているそうです)。

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国策の重要な項目の一つとして、開拓移民が取り上げられるようになります。広田内閣によって七大国策が掲げられ、その第6が「対満重要重の確立」(20年間で100万戸を送出)でした。日本の農業は550万戸から600万戸あって、19世紀末ぐらいから高度成長期位までずっと変わらないのが一つの特徴。そのうちの20%ぐらいを満州に移す計画でした。農業で働く人を変わらず保ち続けながら近代化の道を歩んで行ったのも日本の特徴。満州に移すことで、その20%分の土地を日本の農家によって規模を拡大し、満州支配と2つの目的を同時に達成しようとしました。1937年以降国策として位置付けられ、15~16歳の少年達が満蒙開拓青少年義勇軍という形で送出されます。

1941年から当初の計画と違う現実が現れてきます。この時期は最も多くの移民を送り出した時期で、分村・分郷移民も進められるなど、様々な移民の形態が出てきます。満州開拓団へ農村の側から送り出す人がほとんどいなくなり、都市においては失業者が溢れるようになると、その対策としての満州開拓移民を送り出すことになります。

1945年ソ連の参戦が近くなっていることを日本は把握していて、それに対する準備を進めます。満州に駐留していた関東軍を南に移動させ、現地の開拓団の人々を根こそぎ動員しました。かなりの数の男性が軍隊に徴収されました。ソ連の参戦で大混乱が起こります。満州にはこの時155万人ぐらい居たといわれていて、そのうち開拓団は5分の1の27万人ぐらい、子どもが生まれているので、もう少し多いのですが、集団自決に至ったのが、ほとんど開拓団の人でした。集団自決と開拓農民の自決は切り離して考えられません。

どうやって亡くなっていったのか-収容所の問題をもっと位置付ける必要があります。ソ連の戦闘で攻撃されて死んだ人よりも、避難して町の中に収容所が作られ、そこで冬を越す前に死んでいった人がもの凄く多いです。食糧不足、寒さ、病死で約8万人が亡くなりました。そして、約1万人が中国に残ることになりました。

1946年春ぐらいから移動が再開されて、日本に引き上げてきます。山を見て懐かしみましたが、しかし、帰って来た後、どうなったでしょうか?

〈ここから、先にご覧頂いた満州三江省樺川県千振で記録された映像について説明していただきました〉

映像は移民を送り出すための宣伝のもの。政策的に移民を大量に送り込もうとしていた時期にあたり、あらゆるメディアが動員されています。ポスター、新聞、雑誌、幻燈、紙芝居、口コミ、様々に。

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映像冒頭に日中関係史に重要な人物、東宮鐵男(1892-1937)の写真が出てきます。1928年張作霖爆殺事件の現場指揮をとり、1932年「頓墾軍計画」を石原莞爾に打診するなど突出した移民熱をもった人として語られています。満州国軍軍政部顧問として「北満」での掃討作戦指揮もとっています。1937年12月杭州湾上陸作戦で戦死していて、その追悼をしている場面が映っていることから、この映像はその後撮影されたものだと分かります。千振はかなり北の方に位置します。ハルピンより北で、大河が凍るくらい、もの凄く寒い場所です。開拓団の中で神社が出てきます。満州へ送り出されたのは1年に1次で、試験開拓団から送り出され、千振は1933年7月出発の第二次開拓団。神戸港を出て向かいました。

DSC03158 (3) - コピー「千振」は、中国の現地の言葉を日本語に置き換える形で開拓団の名前に付けています。約500人(宗光彦団長)が入植しました。入植した1933年は、年始に小林多喜二が虐殺され、京大滝川事件があった年。この時期、開拓団はまだ少なく、圧倒的にブラジルに居る人の方が多いです。これが逆転していくのが、この後の時期。

ナレーションで「開拓団が入って、治安が良くなった」と言っていますが、これは完全な嘘で事実ではありません。1934年2月には現地の「匪賊」と呼ばれていた民間の部隊と交戦して、6名戦死者も出ているし、3月に有名な武装蜂起事件「土龍山事件」も起こっていて、戦死者が続出して「話が違う」と退団する人が続出します。入植するため、開拓団が強引に買収して現地の人の土地や家屋をとったので、「治安が良くなった」というのは事実に反する問題ある表現です。『東宮鐵男伝』(1940年、東宮大佐記念事業委員会)には「(東宮)は討伐も相当激しくやられた」という関係者の回顧も載っているそうです。この状態を「平和」と言って良いのでしょうか。そのあと千振は、9月に「匪賊」と呼ばれた現地の人々との融和を図ろうと協和会活動に取り組み、国のスローガンであった「五族協和」を最も早い段階で担う例になります。日本人が中心になって、様々な民族が融和し、千振は相対的に現地との関係は良かった場所だといわれています。

ナレーションで「千振街」と言っています。もともと千振郷と言っていたのが千振街に名称が変わったのは1939年のことで、この映像が作られたのは1939年以降のことかもしれません。チョゴリ姿の人も写っていて、19世紀末から朝鮮からの人もたくさん渡っていました。「在満朝鮮人」と呼ばれていました。この人達が、満州に於ける米作りを普及させてきたと言われています。

映像で米の作り方として、直播(日本のように苗代を作ってではない)をしています。気候が早く寒くなるし、面積も広大なので、早生の品種を彼らのやり方で。「除草の回数も1回、2回にしています」とナレーションがあります。崩壊期になると除草は開拓に行った人たちだけでは出来なくなります。面積がもの凄く広いから人手が足りないし、人を雇うのにお金がかかるので、割が合わない状況になっていきます。ならば自分で経営するより、土地を貸し付けて任せるようになり、満州開拓移民がどんどん地主になっていきました。自分で耕作をせず、地主になって小作料を貰うように。当初の計画と異なって、満州開拓移民が上手くいかない最大の理由になっていきました。

農閑期には森林伐採やホームスパン(羊毛の手紡ぎ・手織り)とかをやっているという話も出ていました。日本のように持続可能性を考慮した林業ではやらず、森林資源が激減している現象もあり、このことも批判されました。大豆は全体の生産の30%ヲ占め、トウモロコシも作っていました。千振開拓団は、モデルケースでした。拓務省や拓務大臣、皇族、これから移民をしようとする人たちが、もの凄く頻繁に視察に訪れました。この当時の満州視察フィルムを見ても、千振郷の名前が頻発します。この映像も、こうした宣伝映像として作られたと思います。

ここに映る人たちも、1945年以降混乱の中引き上げてきて、戦後栃木県の那須に再入植をしています。戦後開拓移民が日本に帰ってきた時期によって異なりますが、1950年の段階で4割くらいの人が国内で再入植をしたといわれています。千振の人たちは、那須で「千振」の名称で今も続いています。リーダーの人が彼らに「もう一度入植するなら何処へ?」と尋ねたら、「『海を再び渡らない所』『雪のない所』の二つの条件さえ満たせば良い」と答えたそうです。生き残った人たち、いろんなものを失った人たちが、もう一度というときに、「海を渡りたくない」と思っていたことは書いておいても良いと思います。

と、ここまでは、ご覧頂いた16ミリ映像についてお話ししていただきました。

続いて京都と満州開拓団についてお話ししてくださいました。余り語られることがないですが、総数3370人のうち、義勇軍が1952人と多く、一般開拓団員は1418人と少ない。最も少ないというわけではありませんが、少ない部類に属します。国策といっても、地域毎に濃淡があります。関係者が1960年代にまとめた『満州開拓史』を読むと、京都からの分村・分郷移民として、「第二天田郷開拓団」「伊林山城開拓団」「廟嶺京都開拓団」「平安郷開拓団」の名称が記録に出てきます。京都市の分村・分郷移民を考えるには、戦時体制の歴史を考える必要があります。

1937年以降、日中戦争全面化に伴い、戦時体制に入ります。1940年7月7日「奢侈品等製造販売制限規則」が定められてから大きく変わります。「日本人なら ぜいたくはできないはず」「ぜいたくは敵だ」と。最初は物品統制だったのが、やがて、「中小商工業者に対する対策」で企業自体を整理する規制を受けて、小さなところがどんどん潰れていきました。それを救うための対策も進められましたが、1942年5月に「企業整備令」が定められ、翌年にかけてより強化されました。

京都で働いていた68000人のうち34000人を別の仕事に就かせることになりました。どうやって振り代えるかということで、その策の一つとして拓務省が出した開拓団がありました。転業開拓団を作る。その事例が「廟嶺京都開拓団」でした。当時の京都新聞に案外とこの記事が多く掲載されています。

当日配布してくださった資料に1943年京都新聞の記事がいくつかあり、その中に「井手町多賀村京都訓練所」団長の村田幸太郎という作家(元京都郵便局員で、36歳の時に作品『鶏』で1940年第12回芥川賞候補になっています)を紹介した記事もありました。村田は、土の文士として起とうと家族を連れて多賀村に転居し、毎日2里半も離れた山の頂きに通ってそこを開墾します。その努力を人々は褒め称え、府の推薦を受けて、茨城県の内原訓練所に入ります。そこで学んだ彼は、狭い日本内地より広い満州の開拓こそ日本人に課せられた使命であると痛感。やがて府から依頼されて多賀村で自ら開拓した土地を提供して京都訓練所を開き、短期で訓練期間を終えた後、団長として訓練生を引き連れて満州へ渡ります。

「平安郷開拓団」については、京都新聞二松啓紀記者の『裂かれた大地-京都満州開拓民』(2005年)に詳しいです。開拓団は元々同じ村から行っていますが、知り合いばかりではなく、違う環境の初対面の人とも満州へ行くので、もめ事も多かったようです。2011年、2012年に廟嶺京都開拓団(第11次京都市送出)の人が集まろうということになりましたが、それまでなかなか集まる機会がなかったのは、再会することで諍いの辛い無念の思いを再び思い出したくなかったというのもあったでしょう。京都市の公文書に記録されていないので、何か調べようと思っても門前払いにあった人もおられたそうです。水上勉さんの『丹波周山』は、彼が京都府の職員として満州義勇軍募集係をした経験を書いています。

満州三江省樺川県千振で記録された映像を見ると、暗い面ばかりでなく、希望や明るさも感じられます。「本当に良いところで敗戦だった」という思い出を語る人もおられるそうです。安岡先生が2005年に引揚者のための「高野川寮」(元陸軍病院を再使用した施設)にいる人に聞き取り調査をされたところ、丹後生まれのその方は、山城開拓団に入り、敗戦で帰国して寺田(京都府城陽市)に居て、そこから1948年から始まった金閣寺の原谷開拓に再入植されていました。京都でも、満州開拓から、戦後開拓への動きがあったのです。「高野川寮」のほかにも、京都市内には公営住宅があり、同様に大阪や和歌山にもありました。昭和天皇が巡幸され「良く帰ってきた」と声を掛けられたら、開拓民だった人は感激して、手記に「もう一度開拓民をやろうと思った」と書かれている話が結構取り上げられています。「現地でのことが余り分からないのは、目の前の生きていくことに一生懸命だったから」と安岡先生。

2010年代になってから満州開拓民の歴史は、研究面でも、凄く進んでいます。在野の市民による掘り下げも進んでいます。戦後日本のあり方は、満州帰国者の「もう一度頑張ろう」という思いから浮かび上がることがあります。長野県下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館では、何が失われてしまったのか、失われたことの痛み、地域の中でどういうふうに続いたのかを形で残していく取り組みをしています。

「『伊林山城開拓団』など少しでも、この人達の犠牲を振り返ることが必要だと思っています。当事者だったたくさんの人々の夢で満州移民は進められました。でも、その裏には冷酷な国策の側面も確実にありました。ブラジル移民記念館の掲示に『夢、希望、経済的チャンスが欠如しているから、人間は移動するんだ』と書いてりました。2019年移民が解禁されて多くの人々を日本に迎え入れますが、『なぜ移ってくるのか?』『どうして人は移動するのか』を考えながら、『なぜ満州に行くことが自分の夢だと思えたのか?』それを振り返って再構成していくことは、今も希望や夢を作りながら生きていかなければならないわけで、反省する素材になると思います」と結ばれました。

会場から「なぜ、満州開拓民について調べようと思ったか」とそのきっかけを問われて、

社会運動の歴史に興味を持ち、農学部におられたこともあって農民の社会運動に注目されました。それで成田のことを調べたら、戦後入植者が多いことに気付いたのだそうです。農民が土地を守るために闘った場所、戦後の経済成長で大規模に開発された土地にも共通して言えることでした。では、足元の京都ではどうかと調べているうちに、衣笠の原谷開拓のことを知り、70年経ってもずっと自分の気持ちの中に持ち続けている人と出会ったのだそうです。原谷は、今は立命館大学学生の下宿になっていて、痕跡はほとんどみられないようです。

昨年10月まで井手町に近い京田辺市に住んで、南山城の地域史にも興味を持っていた私ですが、井手町多賀に満州移民送出のために訓練所があった話は初耳でした。会場には子どもの時に満州から引き上げてきた方、お身内を引揚げの途中で亡くされた方もおられました。今年の夏の企画展「『満州国』って、知っていますか?」の時に、来館いただいた方から、いろいろな話が聴けると良いなぁと思っております。

それから、当日の参加者の中に仏教関係者がおられて、発表内容に大変興味を持って下さり、1週間後の12月15日満蒙開拓平和記念会で開催された講演会「満州開拓における宗教の役割について-仏教・神道を中心として」を聴講されたそうです。講師はブライアン・アンドレ-・ヴィクトリアさん。HPを読むと「人の道を説く宗教が戦争協力機関となり、戦場へ向かう若者たちを精神的に支えた…。『禅と戦争』の著者であるアメリカの仏教学研究者が問う“国家と宗教と戦争、そして国策”。さまざまな機関が戦争遂行に協力し、宗教もその一翼を担いました。人々が心を寄せたものが時代を狂わせた歴史は、その危うさを現代にも問いかけています。」とあります。興味深いテーマですね。私どもの催しが、参加者にとって次の学びに繋がったことを、大変嬉しく思います。

 

 

 

 

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