おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2020.11.08column

風化させてはいけない戦争の歴史

おもちゃ映画として販売され、家庭で手回し映写機でみていた映画には、時代劇もあれば、アニメーション、それにニュース映像もあります。今、その記録映像をまとめていて、1本のごく短い映像に映る人物に興味を持っています。

左下に映る人物が、山中貞雄監督にそっくりに思えて仕方がないのです。居ても経ってもおれず、お身内の方に一度観て貰いたいと思い、連絡先を教えて貰おうと「山中忌」世話人の景山理さんにお尋ねしたのですが、『沙堂やん 山中貞雄物語』で、山中監督の想い出を語っておられた姪の原田道子さんは、5年も前に亡くなっていました。関係者でご存命なのは、お兄さんの息子さんだけだそうです。

山中貞雄監督が「従軍記」に遺書「陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事ナシ。日本映画監督協会の一員として一言。『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず。」と書いのは、1938(昭和13)年4月18日。彼は徐州戦に参戦しています。

この映像には一切文字情報がないのですが、小船で広い黄河の支流を渡っていく日本兵の様子などが映っています。別の東日大毎の国際ニュースフィルムには「徐州への大進軍」のタイトルがあり、徐州が含まれる地図も映っています。日本は5月19日に徐州を占領しました。映像がはっきり徐州だと断定は出来ず、万歳をしている兵士が京都の第16師団だとも言えませんが、この中に京都出身者が映っていやしないかと思うのです。どなたか見覚えのある方はおられませんか?

徐州を占領はしたものの、中国軍はもぬけの殻でした。蒋介石率いる中国国民党軍は6月7日、9日、11日に日本軍の進撃を食い止めるために黄河の堤防を破壊し、氾濫させる軍事作戦を実行しました。下流に住む大多数の人々へ事前告知をしなかったため、中国の農民100万人(諸説有り)以上が溺死する大惨事になりました。黄河決壊事件(中国では花園口決壊事件)と呼ばれています。河南省、江蘇省、安徽省にまたがる5万4000平方㎞が水没したそうです。日本軍はこの作戦に往生し、山中監督も転戦して開封へ向かいますが、生水などによって急性腸炎に倒れます。

7月23日付け井上金太郎監督宛の手紙に「徐州攻撃続いて追撃戦、更に洪水の為各地を転々としてやっと落ちついたのが七月の半ば。そこで、やッと六ヶ月振りに郵便物到着。同時に僕野戦病院入り、いつかニュース映画で兵隊が褌一ツで川を渡るのがありましたね。婦人席なんか大喜びで、あれは受けとッたよと当日のはなし。失礼な!罰が当たります。僕の病気の原因は洪水で、あの恰好を一月ばかり続けたからです。病名は急性腸炎、夕方から少し熱が出ます。六ヶ月分の郵便物がぼつぼつ到着しますが慰問の小包なぞこの腹では到底コナセマセン。それに近頃余り呑みたくもなし、食いたくもなし(略)」と綴っています。

8月10日に開封野戦病院に移され、さらに、9月2日患者療養所に移ります。食欲、栄養なくやせ衰え、重体となります。そして、9月17日「午前6時30分突如悪化シ、脈拍結滞シ顔面蒼白トナリ虚脱状態二陥リ応急処置モ奏功セス、昭和13年9月17日午前7時遂二死亡ス」。徐州から開封までは相当な距離があります。洪水にやられた中を褌1つの姿で1ヶ月も行軍するのは相当に厳しいことで、こうした病に倒れた人は他にもたくさんおられたことでしょう。満28歳、才能に溢れた若い映画監督の惜しまれる死でした。今日は山中貞雄監督の111回目の誕生日‼

今朝の京都新聞に載った尊い戦争体験談です。文末に「戦時下は嫌ともつらいとも言えず、泣くこともできなかった。激しい言葉で心をコントロールし、最後は国民を目隠し同然にする。あの歴史だけは風化させてはあかんと思うんです」の言葉が響きます。

折しも、朝刊一面と社会面は首相が日本学術会議の会員候補6人の任命を拒否した問題についてでした。首相はその理由について「ゼロ回答」を続けていますが、政府関係者が「学術会議内で『反政権』の影響力を行使することを一番危惧した」と、拒否した理由を明らかにしています。安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念していたのです。拒否されたうちの一人、松宮孝明立命館大学教授が「どんなに不合理でも他人の意見を聞かず、やりたいことをやると言っているに等しく、まさに独裁だ」と非難しておられますが、先の悲惨な戦争から、為政者が全く学んでいないのではないかと寒気を覚えます。

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