おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.06.06column

5月22日開催トークイベント「日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~」の振り返り~Part5

5月22日トークイベントの振り返り~Part5は、国立映画アーカイブ主任研究員の入江良郎さんです。入江さんには、2015年9月12日に開催した「第3回無声映画の夕べ」で、当館で見つかった尾上松之助最晩年『忠臣蔵』の中から、「天の巻」を片岡一郎さんの活弁で初披露した際に初めてご登壇頂きました。

当時は文化庁文化部文化芸術課調査官として活躍されていました。“目玉の松ちゃん”の生誕140年の節目の年に、最晩年のフィルムが見つかったことを記念して発行した冊子『日本最初の大スター 目玉の松っちゃん』に「最古の映画スター 尾上松之助再発見の道のり」という題で寄稿もしていただきました。

そうして支えてくださった入江さんから、昨年10月8日に「12月12日に富山県の高志の国文学館講座で、河浦謙一についての講演会を依頼されている」との連絡を受けました。メールに「地元でも河浦のことはほとんど忘れ去られているようなので、なるべく一般の人に興味をもってもらえるようにしたいと思う」と綴られていましたが、全くその通りで、富山県砺波市出身の私も初めて聞く名前“河浦謙一”でした。

入江さんは、私が当然のように“河浦謙一”のことを知っていると思われていたのかもしれませんが、不勉強の極みで、ネットで拝見できる入江さんの論考を早速読んでみたところ、“河浦謙一”というのは明治期の映画会社・吉澤商店の経営者で、映画会社は東京ですが、河浦は私の実家の隣に位置する西砺波郡津沢町(現在は小矢部市)の生まれ(が有力)だということを知りました。吉澤商店が横浜で映画の渡来に関わったり、日本最初の撮影所を建てたりしたことは存じていましたが、出身地のすぐ近くから日本映画の最初期に活躍した人を輩出していたのかと俄然興味が湧き、もっと多くの方に河浦のことを知って貰いたいという思いが一挙に膨らみました。

丁度、昨年末に武部好伸さんが初めての小説『フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一』を出版されたことでもあり、何かそれをお祝いするイベントができないかと思っていたこともあり、どうせやるなら荒木和一だけに焦点を当てるのではなく、同じ時代に活躍していた稲畑勝太郎と横田永之助、そして河浦謙一についてトークイベントをしたらどうだろうか―と思いました。

その思い付きを、大阪で荒木和一が映る動画を国立映画アーカイブに寄贈することが決まった後に来館された入江さんに早速持ち掛けました。12月17日のことです。「面白いじゃないか!」ということで、その後は、入江さん、武部さん、そして稲畑と横田について研究しておられる長谷憲一郎さんを巻き込んで、メールでの連絡が続きました。そして、いよいよ本番の5月22日を迎えたわけです。

では、入江さんによる当日の振り返り記事をご紹介します。

………………

映画の渡来に関わった稲畑勝太郎、荒木和一、新居商会、河浦謙一(吉澤商店)のうち3人を一度に取り上げるという前例のないイベントを企画してくださったおもちゃ映画ミュージアムの太田米男先生と太田文代さんに感謝申し上げます。私たちが取り組んでいるのは映画の考古学であると同時に、日本映画史の創世神話と神々の研究(!)でもありますから、機会をいただいた登壇者の興奮も頂点に達したことはもちろん、その思いをたくさんのお客さんに聴いていただき、さらには稲畑産業のご関係者、荒木のご親族、河浦のご親族にもご来訪いただき、締めくくりには尊敬する映画史家の本地陽彦さんからお言葉をいただくという、なんとも夢のような時間を味わうことができました。

(荒木和一の曾孫にあたる井上聡一様Facebook投稿写真から)

いかなる歴史上の人物でも、時代の移り変わりとともに人々の記憶から薄れていくことは避けられませんが、その記憶にかわるのが研究や記録であるとの思いから、河浦謙一についてできるだけ正確で多くの情報を残しておこうと、少しずつ調査をしてきました。そんななか、京都では長谷憲一郎さんが稲畑の研究をしていることを知り、大阪では武部好伸さんが荒木の研究をしていることを知り…というのは、ちょうど「日本に映画を持ち込んだ男たち」が互いの存在に気付いたときのようなめぐり合わせでもあり愉快になります。

長谷さんといえば、稲畑がリュミエールに宛てた書簡の発掘に度肝を抜かれました。明治30(1897)年の活動写真事業のさなかに書かれたもので、稲畑系シネマトグラフの知られざる活動の実態を伝える重要な資料ですが、公開を前提としない内部文書でもあり、それが120年目にこうして姿を表すことを誰が想像できたでしょうか。その影響は稲畑の研究はもちろんより広い範囲に及ぶもので、その中には吉澤系シネマトグラフの正体をめぐる長年の議論も含まれます。イベントの中では本件について長谷さんの研究に私なりの応答をさせていただきました。

武部さんは荒木の活動写真事業の再評価はもちろん、その生涯や実業家としての全体像の解明を試みている点に限りないシンパシーを覚えます。間違いなく、これまでにないレベルに踏み込んだ研究と言えます。すでに映画化やドラマ化を想定した小説も完成しているというエネルギー(!)にはとてもかないませんが、私もパイオニアの再評価や顕彰の方法はどうあるべきか、考えることが多くなりました。積極的なアクションが新たな関係者との出会いや資料の発掘につながり、次々と情報を更新していくという循環が生れているのは見事で、今回の発表も驚きの連続でした。

 

しかし、このお二人と同じイベントでご一緒できたのも、おもちゃ映画ミュージアムの図抜けたネットワークと機動力があってこそ。開館からはや7年、その恩恵にあずかり、私たちのように発表の機会を得た研究者はどれだけの数に上るでしょう。これはちょうど、佐藤忠男先生と佐藤久子さんが、あの『映画史研究』を二人三脚で発刊し、多くの研究者に執筆の場を提供しながら、広く深く裾野を広げられた、その現代版なのではないか!とも考えています。

さらに、このおもちゃ映画ミュージアムの周囲には、シネマトグラフの試写実験に関わる「日本映画発祥の地」(旧立誠小学校)、横田商会の「二条城撮影所跡」(中京中学校)をはじめ映画関係の記念碑があちこちに設置されていることが、毎回の訪問の楽しみでもあります。街中を散策しながら、映画の歴史や先人たちの面影を身近に感じられるのはやはり京都ならでは。今回も、南禅寺にある稲畑ゆかりの何有荘(かいうそう)に立ち寄り(非公開なので塀の外から長年の工事の様子をうかがうだけですが)、最後まで楽しい余韻に浸りながら帰途につくことができました。本当にありがとうございました!

…と、書いているうちに、喋った当人ばかりが喜んでいるようにも思えてきましたので、私もイベントのおまけとして(大河ドラマの最後に出てくる紀行ではありませんが)河浦謙一ゆかりのスポットを3つほど紹介したいと思います。機会がありましたら是非お訪ねください(いつか、聖地になりますように)。

 

1)銀座8丁目10番ビル

田中純一郎が昭和15(1940)年に発見した吉澤商店の跡地。敷地の一角に芝口御門跡の碑が設置されているのが目印になります。建物の正面は高速道路の高架線で視界が遮られていますが、かつてはここに汐留川が流れ、向いに新橋停車場を一望できる位置にありました(今年は映画の渡来125年であると同時に我が国の鉄道開業150年にもあたります)。あわせて、旧新橋停車場の駅舎を再現した鉄道歴史展示室にも足を延ばすと、東京の玄関口であった当時の景色を想像することができます。

・ビバ!江戸

https://www.viva-edo.com/kinenhi/ginza/sibagutigomon.html

・旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

https://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/

 

2)目黒撮影所跡

明治41(1908)年に日本初の映画撮影所が作られた河浦邸の跡地ですが、目印などが無いので、いずれ記録をまとめたいと思っています。敷地面積は1万2千坪だったと言われています。大正期には目黒植物園が造られ、これも東京の名所となりました。大正13(1924)年の分譲広告には「旧南部侯下屋敷跡」とも記されています。

・目黒区公式ホームページ

https://www.city.meguro.tokyo.jp/kurashi/gakko/bunkazai/keihatsu/bunkazaimegurimeguroekisyuhen.html

 

3)山あいの宿 うえだ

田中純一郎が昭和15(1940)年に河浦謙一の行方を突き止め、伊豆の船原温泉で面会を果たしたことが日本映画史の編纂に拍車をかけることになりました(当時河浦は72歳、田中は37歳)。河浦の邸宅跡地には「山あいの宿 うえだ」があります。7つの客室と6つの風呂から成り、山あいの勝景と豊かな温泉、天然アユの味覚を楽しむことができます。なかでも「鶺鴒」の間は、かつての客間が当時のままの姿を今に留めています。

・山あいの宿 うえだ

https://www.yamaai-ueda.com/

なお、本稿の執筆後、上記サイトの閲覧ができない状態となっています。再開を祈りつ つ、参考に下記のリンクをご紹介します。

日本秘湯を守る会
https://www.hitou.or.jp/provider/detail?providerId=718

 

【追記】今年3月に出版された吾妻重二監修、横山俊一郎著『泊園書院の人びと その七百二人』(清文堂出版)に、門人の一人として河浦 謙一が紹介されていましたので、ご紹介します。“泊園書院“は、幕末から昭和に かけて政治経済をはじめとする多くの分野で活躍する人材を輩出し、関西大学の 源流の一つともなった大阪最大の私塾です。富山に生まれ、東京の吉澤商店主となる河浦と関西との接点を明示した画期的かつタイムリーな書物と言えます。

https://www.kansai-u.ac.jp/hakuen/about/people.html

 

………………

Part1でも書きましたが、22日の参加者には河浦謙一の弟・立島清のお孫さん姉妹も参加して下さいました。そのことが嬉しくて入江さんは、当日朝は午前3時に目が覚めたそうです。

催し終了後に、早速お話をされていました。

お二人との出会いが、研究の進展に繋がることを期待しています。立島様姉妹様には、遠方にもかかわらず、ようこそおいで下さいました。心から御礼を申し上げます。

当日は、吉澤商店が製作した映画で現存する少ない例として、早稲田大学演劇博物館様のご協力で『櫻田血染ノ雪』3分(1909年)を見せて頂きましたし、映画フィルムとしては3件目の重要文化財指定となった『小林富次郎葬儀』(明治43年)の一部も見せていただきました。

今回の催しは、ひとえに入江さんの細かいご配慮のおかげで恙なく進行し、盛会のうちに終えることができました。心より御礼を申し上げます。感謝しています‼

 

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