2025.12.30column
大盛況に終えた12月14日キネマ画『忠臣蔵』里帰り活弁上演会

つい先日、読売新聞熊本支局の中村記者から、12月14日に熊本市民会館で開催されたキネマ画『忠臣蔵』里帰り活弁上演会の様子が載った紙面が届きました。12月4日付け紙面でも、カラー写真3枚を用いた大きな扱いの記事を書いてくださいました(下掲)。それを紹介しようと思っていたのですが、この上演会への関心の高さは目を瞠るばかりで、かえって当日の混乱を招いてはいけないと思い、控えていました。キネマ画『忠臣蔵』を保存されていた芹川英治さんの表情が良いですね。

昨年12月8日、同志社大学今出川校地の大きな教室で、坂本頼光さんの活弁と天宮遥さんのピアノ演奏で初めて、芹川文彰さん(1911-1984)の素晴らしいキネマ画を披露する催しをしました。その時の様子は、こちらで書いています。熊本県山鹿市から文彰さんの甥、英治さんご夫妻と、今回の活弁上映会実現に向けて奔走してくださった元熊本日日新聞記者松尾正一さんも駆けつけて下さいました。その上演会がとても素晴らしかったと感激してくださり、その時から地元でもご覧に入れたいとの思いを温めてくださいました。同じ出演者で先ずは熊本市内で「里帰り上演会」という企画が練り始められ、丁度赤穂浪士が仇討ちの本懐を遂げた12月14日“討ち入りの日”に里帰り公演が実現しました。
今回の熊本探訪では英治さんご夫妻にとてもお世話になりました。一緒にいる時間が長かったこともあり、英治さんから傍で見ていた文彰さんの様子をお聞きする時間もありました。お話を聞きながら、文彰さんが山鹿市から東京美術学校(現・東京藝術大学)を目指されたのは洋画であり具象への興味からではないかと思います。日本画を目指すなら山鹿からはまだ近い京都府画学校(現・京都市立芸術大学)を選択されたことでしょう。英治さんは「伯父は抽象画にはさほど興味を持っていなかった」と話しておられました。キネマ画『忠臣蔵』も漫画的にも描いていますが、あくまでも具象を目指していて、挿絵画家伊藤彦造の絵を模写したのも、写実的だから惹かれたのでしょう。
今回の山鹿行きの目的の一つに、「文彰さんが遺した他の絵や参考にした本などがあれば見てみたい」というのがあったのですが、まだ片付いていないということで、いずれ何か見つかればご連絡をいただくことになりました。勝手な想像ですが、おそらく抽象画はなく、生涯ずっとそういう姿勢だったのではないかしら。文彰さんは、東京へ行かれてから体を悪くされたのだそうです。山鹿市に戻って一生家に籠って絵や書を書いておられたようです。これも勝手な想像ですが、戦争の時代に体を悪くされ、兵役にもついておられなかったことが、負い目に感じられ、積極的に作品を公表されることもなかったのではないでしょうか。そのような事情から、『忠臣蔵』の絵は、ずっと英治さんの手元で大切に保存されていましたが、ようやく地元でその絵の巧みさに気付いていただけることになり、本当に良かったと思います。
この絵の価値に最初に気付いたのは、松尾さんでした。 “にわか”の取材をライフワークにしている松尾さんが「芹川さんの家には“にわか”のレコードがたくさんある」との情報を得て訪問したところ、「そいういえばこういうモノがある」と見せて貰ったのが、文彰さんが自分で製本した『忠臣蔵』でした。面白い縁ですが、読売新聞の中村記者さんも“にわか”への興味から英治さん宅を訪ね、「12月14日に『忠臣蔵』の活弁上映がある」と教えられたのだそうです。今回大成功に終わった『忠臣蔵』活弁上演会の一番の功労者は、 “にわか”のレコードを集めていた英治さんのお父さん、つまりは文彰さんの弟さんですね。
英治さんによれば、文彰さんは食事もなるべく素材に手を加えず、自然のままの味を楽しんでおられたそうで、英治さんも薄味を好むようになったとのこと。もしも残された絵があるなら、身近な花や野菜など静物画を丁寧に描かれたものではないかしらと、これも勝手に想像しています。
前置きが長くなりました。12月14日会場の熊本市民会館シアーズホーム夢ホール大会議室には満員のお客様がご来場くださいました。

問い合わせが相次ぎ、心苦しくもお断りした方もおられるそうです。大勢の方が関心を寄せて下さったことをとても嬉しく思っています。既に坂本さんと天宮さんも会場入りしておられて開始を待つばかり。嬉しかったのはパテ・ベビー(9.5㎜)版『忠臣蔵』を2015年に寄贈してくださった熊本の米田伊一郎さんと久しぶりに再会できたこと。当館にもお越しくださった奥様を10月に亡くされたばかりだとお聞きし、お会いできなかったのが残念でした。いずれも当館で講演してもらったことがある熊本県立大学准教授羽鳥隆英さんと熊本大学准教授伊藤弘了さんと再会でき、初めて熊本大学文学部准教授で付属国際マンガ学教育研究センター兼務教員の池川佳宏さんともご挨拶できました。人気漫画『ONE PIECE』の作者尾田栄一郎さんが熊本出身だということもあり、 “マンガ県くまもと”を推進する中核施設として、2022年10月1日に同センターが設置されたのだそうです。今ネットで検索したら伊藤さんも兼務教員でした。熊本は産官学連携して、マンガ熱が高まっていて、高校や大学で漫画を学んだ卒業生から既に優秀な漫画家が育っているとお聞きしました。

松尾さんの開会のあいさつで、今回の催し開催の背景を説明して頂き、その時、英治さんご夫妻、米田さんと一緒に、私どもも紹介して頂きました。そしていよいよ坂本頼光さん登場。キネマ画『忠臣蔵』上演前に、本来の無声映画の活弁がどのようなものかを示そうと、『喧嘩安兵衛』(阪東妻三郎主演、港岩夫監督、1928年)の断片を披露されました。天宮さんがいつもながらの巧みなピアノ演奏で場面を盛り上げます。100年前文彰さんがご覧になったのは、日本最初の映画スター尾上松之助最晩年の『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(1926<大正15>年4月1日公開、全20巻)ですが、日活は、この作品上映に間に合うように、公開直前の3月20日にパンフレットを発行しています。
ひょっとしたら、このパンフレットもご覧になっていたかもしれませんが、忠臣蔵の話は広くよく知られていましたし、DVDもない時代ですから、記憶で描き切ったのはその通りです。キネマ画『忠臣蔵』には、日本最初の映画スターだった尾上松之助が演ずる大石内蔵助が山科の遊離で放蕩三昧する様子は描かれず、不破数右衛門が準主役かと錯覚するように多く描かれていて、芹川文彰さんが再構成した『忠臣蔵』だと言えましょう。思春期の少年らしい恥じらいと潔癖さ、不破数右衛門を演ずる新妻四郎の男っぽさへのあこがれが垣間見られるように私には思えます。
疑問だったのは文彰さんが製本したキネマ画集のタイトルが『実録忠臣蔵』ではなく、『忠臣蔵』となっていたこと。1927(昭和2)年9月1日に、池田富保監督が作った『増補改訂忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』が公開されます。義兄にもあたる尾上松之助が1926年9月11日に亡くなったことを偲んで製作されたのでしょう。当館に米田さんから寄贈いただいたパテ・ベビー版池田富保監督作品のタイトルは『忠臣蔵』(日活大将軍)でした。この中には同じ池田監督が1930(昭和5)年に作った『元禄快挙 大忠臣蔵 』(日活太秦撮影所)で、討ち入りの場面でみせる大立ち回りの映像の一部が加わっていました。このことからパテ・ベビー版は1930年以降に販売されたものだとわかります。
一方、1928(昭和3)年に牧野省三は『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を作っています。牧野省三は1921(大正10)年にも『実録忠臣蔵』を作っていますが、1922年に日活から独立して牧野教育映画製作所を設立しています。彼が1928(昭和3)年に製作していた『忠魂義烈 実録忠臣蔵』は火災によりフィルムが焼失してしまいます。このような経緯もあって、一般的に『実録忠臣蔵』と言えば牧野省三監督作品を指すことから、日活は牧野作品と区別して「これこそが忠臣蔵の本命だ」と1927年版には、 “実録”の2文字を外したのではないかと推察します。文彰さんのキネマ画『忠臣蔵』最後の「終り」のカットを書いた日付けが裏面に記されていて、それは1929(昭和4)年5月10日で、17歳11か月のことでした。

想像するに文彰さんが製本されたのは、池田富保監督『増補改訂忠臣蔵』もご覧になって後のことではないでしょうか。
昨年の同志社大学でのキネマ画『忠臣蔵』上演を御覧になって、俄然この作品に興味を持たれた冨田由布子さんが、東京出張の折に国会図書館に足を伸ばして、「九州日日新聞」の1926(大正15)年9月~1928年4月までをマイクロフィルムで調査してくださいました。「九州新聞」も閲覧可能だったそうですが、「九州日日新聞」には、ほぼ毎週火曜日に映画館の広告が載っていたことから、これを検索。それによりますと、熊本市街の映画館で、『実録忠臣蔵』が上映開始されたのは1926年10月26日からと判明しました。残念ながら山鹿市近隣に存在していた映画館の広告は同紙面で見当たらなかったそうです。
今回の私どもの熊本訪問では、英治さんご夫妻に大変お世話になり、上演会打ち上げ終了後に山鹿市内の温泉宿まで車で送ってくださいました。約1時間かかるということでしたが、日曜日の夜のことで、それほどかからずに到着しました。1926年当時、山鹿の駅から熊本市の植木駅まで山鹿温泉鉄道が走っていました。1965年にバスにとって代られ廃線になりましたが、文彰少年も山鹿温泉鉄道で評判の映画を観に行ったのかもしれません。冨田さんがくださった大正15年10月26日付け「九州日日新聞」には、「尾上松之助追善大興行『実録忠臣蔵』二十巻 世界館」と広告が掲載されています。もう1枚昭和2年9月19日付けには「故尾上松之助一周年追善大興行 絢爛として三千年の青史を飾る日本武士道の精華 時代劇映画の巨匠池田富保監督 大河内傳次郎外新入社俳優加入出演 本日より封切特別大公開 世界館」として、「コーリン・ムーア主演『霧の裏街』と2本立てで公開する広告が載っています。調査期間の新聞広告に名前が載っているのは、この「世界館」のほかに「電気観」と「朝日館」があったそうですが、『実録忠臣蔵』『増補改訂忠臣蔵』の広告は「世界館」のみだったそうです。
キネマ画活弁上演の翌日15日に山鹿市内の素晴らしい芝居小屋「八千代座」を見学させていただきました。1910(明治43)年に設立された「八千代座」は、娯楽の多様化により次第に衰退していき、1972(昭和47)年に閉館。廃墟同然になっていた「八千代座」でしたが、地元の人々が立ち上がって復興させました。その中心人物の(一社)中央義士会熊本山鹿支部長の宮川政士さんが案内してくださいました。その折「山鹿市には昔、映画館が4館あった。八千代館は時代劇をやっていて、『忠臣蔵』や『鞍馬天狗』をやっていた。」と教えてくださいました。「九州日日新聞」「九州新聞」の外に「大熊本新聞」もあったようですし、もっとローカルな情報紙があったかも知れず、それは今後の課題に。現時点で思うことは、芹川文彰さんが『実録忠臣蔵』『増補改訂忠臣蔵』をご覧になったのは、「世界館」で公開された時期ではないだろうかということ。
さて、14日のキネマ画『忠臣蔵』活弁上演に話を戻します。坂本さんは無声映画の活弁上映がどのようなものかを先ず知っていただこうと、『喧嘩安兵衛』(阪東妻三郎主演、港岩夫監督、1928年)の断片を披露されました。海外では演奏だけで無声映画を楽しむのが一般的ですが、話芸が発達した日本では語り付きで上映していました。その面白さを体感して頂いた後で、いよいよメインイベントのキネマ画『忠臣蔵』上演に。坂本さんは、昨年同志社大学で上演した時よりも若干絵の枚数を増やして編集し直されたようで、それを順にスクリーンに投影しながら活弁を付けるという離れ業でストーリーを展開していきます。長いので、天の巻と地の巻の間に休憩を挟み、その間にロビーでは、文彰さんの原画を展示。今回の催しに間に合うように英治さんは特別に桐箱を誂えられました。上演から日が過ぎた今は合志マンガミュージアムで原画展が来年3月29日まで開催されています。

写真は、有名な松の廊下で堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭が吉良上野介に切りつける場面。向かって左に坂本頼光さんが、PCを駆使しながら画像を操作しつつ語っています。向かって右にピアノ奏者の天宮遥さん。

天宮遥さんは坂本さんの活弁に阿吽の呼吸で臨場感たっぷりにピアノ演奏。会場の皆さんは息を凝らしてスクリーンに見入っておられます。

吉良邸に討ち入った折りの一場面。何度見ても、上手な絵だなぁと思います。100年前に芹川少年が描いたものです。まだ「劇画」という言葉もなかった頃の描写。作品には今では普通に見られるコマ割り、吹き出し、ケリダシ(土けむり)などの表現があり、ここぞという場面では画面いっぱいに描き、こまごました一連の流れはコマ割りでとメリハリをつけて表現しています。ペンで繊細に描いた場面もあれば、筆でべた塗りしたものも。いろんな表現を試していて、さほど興味がないけど必要だという場面では、ちょっと手を抜いた表現だったりと文彰さんのその時々の気持ちが感じられるのも面白いです。
途中でPCの電源残量が少なくなったとの警告がスクリーン右上に表示され、観客は坂本さんの語りに耳を傾けつつも「大丈夫かなぁ…」と案じられていたと思います。でも流石の坂本さん。そんなトラブルも巧みな話芸で交わして笑わせ、電源がフルになった途端、皆が一斉に拍手を送るというハプニングも。「あぁ、良かった‼」と皆さん胸を撫で下ろしていました。「ひょっとしたら、最初から仕組まれていたんじゃないか」と笑顔で語る人もおられました。

キネマ画上演後に、パテ・ベビー版映画『忠臣蔵』に坂本さんが活弁を付けて上映した折の映像を一部上映。文祥さんのキネマ画と見比べてもらうことで、彼の絵の巧みさが感じられたのではないでしょうか。場面は、なおも吉良上野介に斬り付けようとする浅野内匠頭をとどまらせようとする家臣たち。大衆に絶大な人気があったとはいえ、評論家からは評価に値しないと言われていた尾上松之助映画ですが、最晩年の映画は、それ以前の作風とは一変し、リアリズムを追求する姿勢で作られたことが、このフィルムの発見で証明することができました。

この後は、羽鳥さん、坂本さん、天宮さんのトークイベント。羽鳥さんは今年が尾上松之助生誕150年であることを話されました。自ら絵を描く坂本さんは、文彰さんの絵のタッチの変化に着目して発言。天宮さんが会場の皆様に「活弁をご覧になるのが初めての人は、どれぐらいおられますか?」と問いかけたところ、約300人のお客様のほとんどが挙手されました。「そうなんだ!」と驚くとともに、この日の体験を契機に、無声映画を活弁と生演奏付きで鑑賞する“古くて新しい文化”を楽しんでもらえるようになったら嬉しいなぁと思いました。
このキネマ画を描いたあとの1930年代に日本は所謂「15年戦争」に突入します。文彰さんは、自ら製本した『忠臣蔵』を時々取り出して見ることがあったのかしら?と思います。英治さんは7月24日RKK熊本放送のニュース番組で「伯父は哲学者みたいなところがあって、周りとなかなか意見が合わなかったりして」と話しておられますが、国家総動員法により、皆が同じ方向を見るよう強いられた時代は、文彰さんにとって随分息苦しかったことでしょう。静かに絵を描くことが息苦しさを救ってくれたのだろうと思います。

終演後に挨拶される松尾さん(左端)、羽鳥さん、坂本さん、天宮さん。居合わせた皆様から万雷の拍手が送られました。口々に「良かった」「感動した」と仰っていました。素晴らしい熱演を熊本の皆様と一緒に見ることができて私どもも大変嬉しかったです。

とても素晴らしい上演会でした。向かって右から、実行委員の熊本放送OBの村上さん、私、坂本さん、宮川さん、連れ合い、米田さん、天宮さん、松尾さん、米田さんご長男、スタッフの熊本日日新聞サービス開発OBの続さん。

熊本市内の打ち上げ会場で。芹川英治さんと奥様。

一生懸命開催に向けて尽力された松尾さん。実はこの日が70歳のお誕生ででした。皆さんにお祝いをしてもらって嬉しそう。おめでとうございます🎂🎉💐🎈

お料理もお酒も美味しかったですが、皆さんとのおしゃべりが一番のごちそうでした。ここで松尾さんの熊本日日新聞時代の1年先輩で、現在は島田美術館館長の松下純一郎さんとも知り合いました。宮本武蔵と細川ガラシャ関連資料を多く所蔵されているそうです。この日は読売新聞さんのほか、3社のテレビ局が取材に来て下さり、早速ニュース番組で報道されました。テレビ熊本の池島さん(前列左端)は、今後番組展開の計画もあるとこの場で報告、一同拍手で実現への期待を膨らませました。昨年12月の同志社大学での上演が好評で、地元でも開催しようと一生懸命取り組んでくださったおかげで多くの人に芹川文彰さんの素晴らしいキネマ画の存在を知って貰えることになったことを大変嬉しく思います。ご尽力くださった皆様、会場にご来場くださった皆様に御礼を申し上げます。良い上演会でした‼


