おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.02.04column

「日本映画」はどこから始まった?

1月28日森 恭彦さんの講演会「反論!…日本『映画』事始め」については、「新着情報」のコーナーで森さんから届いたレポートを掲載しました。再び登壇して発表もしてくださった武部好伸さんからは講演翌日に早々とレポートが届きましたが、少々温めておいて、発表順として翌日に掲載しました。当日参加して下さった方は勿論、そうでない方も日本の映画最初期の様子がわかりますので、ご覧いただければ幸いです。

「新着情報」では触れませんでしたが、当日は初めておいでいただいた方も多かったです。

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そのうちのお一人が、玄哩(ひょんり)さん。とてもきれいな方なので「女優さんですか?」とお尋ねしたところ、図星でした。松竹の映画に出ておられて、この日はオフ。たまたま歩いていて看板が目に留まったから来てみたとのこと。120年前の映画黎明期の話に華を添えてくださいました。ようこそ‼

 

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さて、節分の日の3日、上掲催しに出かけてきました。開館して20年のPLANET+1では、毎年12月28日に、「リュミエール・シネマトグラフ作品集」(1970年代初頭にアメリカで修復し解説も付されたシネマトグラフのベスト集)を16㎜映写機で上映しているそうです。この日は代表の富岡邦彦さんがPLANET+1から映写機を持ち込み自ら映写、活動写真弁士の大森くみこさんが解説、鳥飼りょうさんがキーボードを演奏する形で上映されました。

大勢のお客さまが元・立誠小学校3階和室にお集まりでしたが、一体何人くらいの方が、映写機でのフィルム上映をこれまでご覧になった体験があるのでしょうか?カタカタなる映写機の音をぜひ覚えて帰って欲しいと思いながら映写される光の先を見つめました。リュミエールの作品に続いて、富岡さんと、京都文化博物館映像情報室長の森脇清隆さんによるトーク。

立誠小学校が建つ前は京都電燈があり、稲畑勝太郎がシネマトグラフの試写実験をしたことはフライヤーにかかれている通りですが、それがいつだったかが、12月4日、1月28日に開催した講演会「日本『映画』事始め」の重要なポイント。森恭彦さんは先の講演で「その試写実験には野村芳亭も立ち会っていた」と話されましたが、森脇さんから「溝口健二監督の脚本を書いた依田義賢さんが『野村芳亭監督から四条河原で試写会をした時に立ち会ったと話していたのを聞いた』と話しておられた」ことをお聞きして、長く依田先生と一緒にいた連れ合いは、先生からそのような話を聞いたことがなかったこともあり、「へぇ」と思いました。

DSC09858 (3)森脇さん(写真の向かって右)は「京都は特徴あるものを続けてきた。京都のその後の実績があり、豊かになったから『じゃ、原点はどこか?』と言えるわけで」と話しながら、武部好伸さんの本を手に取り紹介しながら、「エジソンのヴァイタスコープでの商売は負けたのに、恥の話を何で今さらするの?」と話されました。それには、さすがの私もびっくりポン‼ 映画の渡来に尽力した稲畑勝太郎と荒木和一。でも様々な文献・資料を調査して荒木和一の功績を明らかにした武部さんにとっては、「映画史の文献、資料には、荒木和一のヴァイタスコープについても言及されています。しかしほとんど添え物的にしか扱われていません」(武部好伸『大阪「映画」事始め』2016年、彩流社、203頁))ということが、とても残念に思われたのでしょう。どちらも立派な仕事をされたのだから、もっと荒木のことも広く知ってもらいたいと努力されたことを、「恥の話」の一言で片付けられたら…悲しいです。

120年以上の歴史がある35㎜のフィルムはイーストマン・コダックとエジソン研究所のディクソンが開発したものですし、パーフォレーションもディクソンが発明しました。エジソンたちの技術と特許は世界中に拡散し、1900社にのぼる多数の映画関係会社がアメリカやヨーロッパ諸国に設立されました(D・J・ウェンデン著『映画の誕生』1980年、公論社、10頁参照)。エジソンは映画特許会社(ザ・トラスト)を設立し、撮影機や映写機の特許権をもとに世界映画の独占を試み、1915年企業の独占を禁止するシャーマン法違反でザ・トラストが解散を命ぜられるまで、20年ほど君臨しました。ザ・トラストに加盟した会社にしか販売していなかったイーストマン・コダックの35㎜フィルムは世界中に広がりました。

一方のリュミエール兄弟は「20世紀に入る前に、リュミエール兄弟の装置を(筆者注:エジソンの特許に抵触するため)別の製造方式で作る必要が生じ、畑違いの分野に進まざるをえなくなった彼らは、純粋な発明家のままでいるか、多額の資金を要する製造業に転換するかの岐路に立った。そのとき彼らは、一度だけその方向に進みかけたが進路を過たず、すぐに研究室へ戻ってきた」(C・W・ツェーラム著『映画の考古学』1977年、㈱フィルムアート社、197頁参照)。リュミエール兄弟はシネマトグラフの改良をすることなく映画から撤退し、本業の写真に戻りました。この点、稲畑も荒木もほどなく本業に戻り、映画と離れるのは同じです。エジソンがヴィタスコープ、プロジェクティング・キネトスコープとして次々に改良版を作り、映画産業に君臨するのとは対象的です。そういった流れを見ると、簡単に「今さら」と片付けるのではなく、ヴァイタスコープに着眼した荒木をもう少し評価しても良いのではないでしょうか。

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元・立誠小前に建つ駒札です。2010年6月に京都市によって設置されたと前掲フライヤーに書いてあります。森脇さんは「(この文章の)監修の責任者として、駒札の今の文章は正しい」と断言されました。悩ましい駒札です。武部さんの本を読んだときから「いったい誰がこの文章を書かれたのかしら?」と思っていましたが、1月28日の講演会で判明しました。当日参加された水口薫さんが、質疑応答の時間に「碑の文言を書いたのは私だ。京都市から、発祥の地だと書けと言われたが、文字数があってぼかした表現にした」と発言されたからです。水口さんは、森脇さんの元上司でした。「そうだったのか」と思うと同時に、「連れ合いが絡んでいなくて良かった」と胸をなでおろしたのも事実です。

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1月28日の武部さんの講演で、特に興味深かったのはこのスライド。在野の映画史家に水野一二三という元兵庫県警保安課巡査がおられ、現役時代から映画史を調査。その姿勢は仕事柄徹底した聞き取りと裏取りだったこともあり、信憑性が非常に高く、荒木和一とも20数年間の交流があったそうです。その彼が書いた文章から推測すれば、大阪難波でのヴァイタスコープの試写で活躍した長谷川技師と、京都電燈でのシネマトグラフ試写で活躍した長谷川技師は同一人物である可能性が高い。12月4日の講演会後、つい最近わかった資料なのだそうです。

そんなことを思えば、「京都が先や」「大阪が先や」と目くじら立てずとも、ともに「長谷川技師のおかげや」ということでシャンシャンと手を打ちましょう。

それにしても、元・京都電燈の敷地で試写実験がされたことを特定したのは、中島監督の『ちゃんばら美学考』撮影の折に、当館でインタビューを受けられた筒井清忠先生だと、1月28日の講演会の時に聞きました。この経緯について次に筒井先生に来館いただく機会があれば、ぜひお聞きしたいと思います。

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森脇さんと富岡さんのトークに続いて上映された『祇園小唄 絵日傘・第1話 舞の袖』(1930年)は、月亭太遊さんが昨年京都国際映画祭で初体験した活弁に挑戦。さすが噺家、なかなか堂々とされていました。劇中で「月はおぼろに、東山♪」で知られる名曲「祇園小唄」を先斗町芸妓のミヨ作さんが艶っぽく、三味線を弾きながら唄われたのが、とても良かったです。鳥飼りょうさんによるキーボード演奏もあって、和洋楽器による伴奏は、上映された往時を追体験でき、とても贅沢で充実した時間でした。

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お客さまの中に、伊藤大輔監督夫人の姪御さん(写真中央)もおられました。ご挨拶すると「おもちゃ映画ミュージアムへ一度伺いたいと思っていました」と言っていただき嬉しかったです。大河内伝次郎が出演した『新版大岡政談』『素浪人忠彌』など伊藤監督の作品の断片が7、8本はありますので、ぜひ見に来ていただけたらと思っています。向かって右は活動写真弁士の大森くみこさん。どうもお疲れさまでした。大いに楽しませていただきました。

 

 

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