おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.02.14column

生前の尾上松之助さんをご存知の女性にインタビュー(1)

昨年2月2日、壬生寺の節分狂言を見た後、厄除けの豆を手に自転車に乗って100歳の佐々木初栄さんを訪ねました。その少し前に京都新聞にミュージアムで作った『日本映画最初のスター 目玉の松ちゃん』のことが載り、その小冊子を読みたいと電話をいただいていました。電話口で「子どもの頃、撮影所で遊んでいる時に松之助さんに頭を撫でてもらったことがある」などと話されたので、是非直接お目にかかってお話を伺いたいと思ったのです。

自分で勝手に想像していた100歳の女性のイメージを覆すほど御達者で、頭脳明晰な方でした。「いつか録音したものを文字起こしして」と思いながら日々を慌ただしく過ごしているうちに1年が経ち、今年の節分の日に再訪しました。今度のお土産は大将軍八神社の福豆。

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DSC09846 (2)鳥居を境内から見た写真。この両側の玉垣に、

DSC09851向かって右に寄進者、「馬喰町 牧野省三」 (1878~1929)の名前が刻まれた玉垣があります。彼は、映画監督、映画製作者、脚本家、実業家で、「日本映画の父」と呼ばれています。尾上松之助は牧野省三によって見出されました。

DSC09849 (2)そして向かって左側の端から尾上松之助(1875~1926。本名は中村鶴三)、横田豊秋(1903~1936。映画監督、脚本家、俳優)、池永三治(1877~1954。日活大将軍撮影所所長を務めた池永浩久の本名)の名前が刻まれた玉垣が並んでいます。

佐々木初栄さんのお父さん(本名伊田さん)が大将軍撮影所で働いておられたこともあって、尋常小学校時代の初栄さんは、よく撮影所で遊んでいたそうです。せっかく訪問するなら松之助さんの玉垣がある大将軍八神社の福豆をお土産にしようと決めていました。が、急に思いたって訪問しましたので、当日はデイサービスに行っておられて不在。再度訪問をお約束して辞しました。

そして、約束した昨日2月13日13時。今度は尾上松之助さんに人並み以上の情熱を捧げて、「尾上松之助遺品保存会」を立ち上げて熱心に活動をされている松野吉孝さんにもお声掛けをして、同道していただきました。松野さんにこそ一緒に聞いてもらいたいと願ったからです。

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松野さんが用意された尾上松之助さんのアルバムをご覧になる佐々木さん。1926(大正15)年9月16日の葬儀の日の記憶も鮮明でした。お話の内容は昨年お聞きしたものと同じで、全くブレていませんでした。

で、今から、昨年メモしたノートを見ながら書き出すことにします。

佐々木初枝さんは、大正5年1月3日生まれ。おじいさんは鳥取県の霞(日野郡日南町霞)で一番の名家で苗字帯刀が許された家の三男坊。おばあさんも大庄屋の娘さんでしたが、初栄さんのお父さんが8歳の時におじいさんは亡くなります。お父さんはとても野菜を作ることが上手でしたが、お百姓さんだけでは食べていけないことから、京都に出てきて小間物屋を始めようとします。けれども鳥取を出た時に持ってきた財産は友達に盗られてしまいます。

仕方なく、七本松丸太町にあった花田組の仕事で、現在の京都市北区大将軍坂田町から右京区花園鷹司町にかけて校地があった養蚕学校へ荷物を運ぶ仕事に従事。26歳のころには二条駅に行って人足の仕事をしていました。映画とのかかわりはこの頃からかもしれません。40歳の時に初栄さんのお母さんと結婚して、長女初栄さんが誕生します。子どもの頃、友達がいなくてさみしいから、よく撮影所で遊んでいたそうです。

あるとき、松之助さんが10人ほどの人に囲まれて試写室から出てきました。「邪魔したらあかん」と注意したお父さんに向かって松之助さんは「おっさん、この子はあんたの娘か?ええ娘があるやないか、働き甲斐があるやないか」とお父さんに話しかけ、初栄さんに「賢うせぇや、楽しみやな」と話しかけて、頭を撫でてくれたそうです。「大将、もう行かんと遅うなりますな」と周りの人から急かされて松之助さんは行かれましたが、後で風呂敷包を持ってきて「おっさんとこの子どもにやってくれ」とお父さんに手渡してくださったそうです。お父さんから風呂敷包を受け取った時「失えんように持って帰りや」と注意されたにもかかわらず、試写室の隅に置いた風呂敷のことを忘れて遊びに夢中。暗くなって気が付いたときには、その風呂敷包は無くなっていたそうです。

風呂敷包は、松之助さんの一声で、澤村春子、酒井米子、市川春江ら時代劇の女優さんらが、女の子が喜びそうなものをたくさん箱に入れてくれたもののようで、中も見ないうちに失われてしまったことを、随分年月が経った今でも「思い出すと残念でならない」と悔やんでおられます。

お父さんは畑が上手で、優しく、面倒見が良かったこともあり、松之助さんから随分重宝されたようです。松之助さんの宿替え(引越し)の時も3日間ほど手伝いに行っていたほか、7月に京都中で行われた衛生清掃に池永所長の家にも手伝いに行っていたそうです。お父さんが如何に信頼されていたかを示すエピソードです。そういった子どもの頃の思い出もあり、佐々木さんの心には、いつまでも「いいおっちゃん」の松之助さんが住まいしているのでしょう。

1926(大正15)年9月16日の松之助さんの葬儀の日は平日にもかかわらず、20万にも及ぶ人々が一目見ようと集まりました。その朝お父さんは「初栄、おじさん亡くなってしまった。お父さんは葬列の先頭に立って大八車いっぱいに積んだパンを配る。初栄の分も取っといてやるからな」と言って出掛けられました。まだ10歳の初栄さんは、そのパンを貰おうと、一条通りから大将軍撮影所に向かってくる葬送行列を待っていましたが、楽しみにしていたパンは我先にと群がる人々によって既に無くなっていました。このパンを貰い損ねた思い出も残念な出来事として記憶を彩っているようです。ですが、松野さんから東京近代美術館フィルムセンターに寄贈された葬儀の記録映像には、残念ながら大八車でパンを配る映像はありません。撮影されなかったのか、編集でカットされたのかわかりませんが、仮にお父様の様子が映っていたとしたら、どんなにか初栄さんが喜ばれたことだろうかと思います。

「葬儀の時、自分もおっちゃんの葬儀に行ってお別れしたかった…」と初栄さんは言います。その初栄さんが目にした様子に、撮影を終えて駆けつける阪東妻三郎さんの姿もありました。これも記録映像には映っていませんが、「一条通りから、阪妻さんが乗った人力車が来て、急いで着替えたらしく草履を履かせてもらうなど周りの人々に構ってもらって(世話をしてもらって)、『撮影が遅うなって申し訳ない』と言いながら、葬儀会場へ向かわれた。人気俳優は違うもんだなぁと子ども心に思った」と初栄さん。件の記録映像には、若き日の阪東妻三郎さんが遺影に向かってお焼香する姿が映っています。

「その大将軍撮影所があった場所を今度案内して上げる」という約束は、昨年5月に足を痛められたことから実現していませんが、お話では「一条通と馬代の交差点の一つ東にうどん屋『千成餠食堂』があり、その向かいに日活大将軍撮影所の門があった」そうです。

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ノートを振り返りながら書いていて気付きましたので、千成餠食堂の前で写真を撮り損ねました。でも、写っている市バスの後方にある道路を右折した辺りに撮影所の門があったのでしょう。そうした思い出も手伝ってか、「一緒に温かいうどんを食べたい」と希望され、千成餠食堂へ「たぬきうどん」の出前を頼むことに。大好物なのだそうです。この日は、以前大好物だと聞いていた「ジュンサイ」の瓶詰も手土産にして大層喜んで貰いました。好きなものを食べ、楽しい思い出をいつも語っていると幸せ感が増し、賢く健康で長生きできるのでしょう。

一緒にお話を聞いた松野さんにとっては初めて聞く話もあり、身を乗り出して熱心に聞いておられました。とりわけ驚かれたのは、「伊勢二見ケ浦の輿玉神社に、尾上松之助が映画千本撮影記念にカエル像を寄進した」話で、松野さんのおばあさま以外から聞いたことは、これまで皆無だそうです。初栄さんによれば「それは立派な像で、海に向かってカエルが『無事に帰って来いよ』と呼びかけているような姿だった」そうです。残念ながら松野さんが調査に行かれたときは、大正14年10月に奉納したことを示すプレートのみが保存されていました。戦争中に金属を供出せねばならず、このカエルも例外ではなかったようです。

松野さんの松之助さんへの思いは、初栄さんの松之助さんへの思いと同様に熱く、熱心に様々に活動を展開しておられます。このような人々に支えられて、90年前に亡くなった人の偉業が忘れ去られることもなく次世代に継承されるのだと胸を熱くしています。貴いことだと思います。佐々木初栄さんとは、次回3月4日にお会いする約束をしています。そして、その次の機会には、ぜひミュージアムにお連れして、昔の映像で「動く松ちゃん」をご覧いただこうと思います。どんなに喜ばれるだろうかと、勝手に想像して心がポカポカしています。いつまでも健康で長生きしていただきたいです。

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