2017.07.25column
7月8日、素晴らしい作品揃いで「沒后3年アマチュア映像作家 松村長二郎が撮った平野郷の地域映像上映会」終える
今年3月に催したHPO法人アートポリス大阪協議会交流会の場で、ひょんなことからトントン拍子に開催が決まった催し。それが上掲の地域映像上映会。交流会の会話の中で「平野郷」「杭全(くまた)神社」の単語を聞くたびに、初めて卒研に挑戦した時のゼミ仲間が、平野郷をテーマにした研究をすると言うので、この単語をいつも耳にしていて、懐かしさと好奇心がムクムクと湧きおこってきました。京都ゆかりの催しでも参加者を集めるのが難しいので、遠い大阪市の平野区となれば尚更動員は難しいと覚悟の上でした。でも、幾人もの方が松村長二郎さんのことを「日本一のアマチュア映像作家」という形容をされましたので、「観てみたい」という気持ちの方が勝りました。
素敵なチラシを作ってくださったのは、松村長二郎さんにその人柄を認められ、作品を寄贈された「映像発信てれれ」のメンバー木下人美さん。木下さんも松村さんへの敬愛から「日本一」と思っておられるのですが、今年の沖縄国際映画祭で大評判になった「デジタルで甦る8ミリの沖縄」は、1951年に8ミリカメラを手にして貴重な映像を撮り続けた93歳の遠藤さんの作品。晴れて監督として映画祭のレッドカーペットを歩かれたその話題を知っているだけに、他にも地域映像を撮り続けた優れたアマチュア映像作家がおられるかもしれないと、「日本一」の単語使用は控えてもらいました。しかしながら、見せてもらった8ミリ映像は、趣味の域を超え、本当に素晴らしいものでした。連れ合いによれば、8ミリの最後期のレベルは相当高いものが多いのだそうです。
木下さんと松村さんの出会いは3年前に遡ります。平野区区制40周年記念DVD「平野今昔アーカイブ」作成のディレクターとして最初にインタビューをされたのが松村さんでした。平野・喜連・長吉・瓜破・加美5地区の区民の方21人が語り部になり、作り上げた160分の映像を松村さんは「よう、頑張りはりましたなぁ」と労ってくださったそうです。出会いから何カ月かの間に古くからの身内のように接してくださり、木下さんの人柄を信頼されて、撮りためた貴重な映像の数々と撮影機材等一式を彼女に託されました。
前述アートポリス大阪協議会は2007年から「ホームムービーの日平野」として、同区の全興寺で上映会を開催しておられますが、2014年から平野が撮影されている作品をDVDにして大阪市立中央図書館に保存、大阪市立平野図書館視聴覚コーナーでも視聴・貸し出しができるように尽力されました。ちなみに、次回「第4回平野の映像鑑賞会」は、10月29日(日)14:00~15:30、平野図書館で開催されるそうです。
さて、8日上映会は最初に「わが町平野」を上映。平野在住の高齢女性が平野郷の歴史について語る映像です。
写真は、アートポリス大阪協議会木村家康代表が平野について説明中の様子。手前に座っておられるのが木下さん。自治都市としての平野郷は、1717年に設立され、今年300年になります。日本で最初の民間学問所「含翠堂」は、子どもたちに学問を教えるだけでなく、飢餓の時に蓄えたお金で平野郷の人口1万人に300日間炊き出しをして、餓死者を出さなかったそうです。
松村さんは、生前、趣味の8ミリカメラやビデオカメラで175本の作品を制作されました。1980年に「平野町つくりを考える会」を設立し、自宅を「平野映像資料館」として、作品を上映されていました。木下さんに託された映像類は大阪府河内長野市滝畑にある映像作家下之坊修子さんが主宰する「映像発信てれれ」で保存・公開されています。今回映写担当の黒瀬さんと木下さんは、この日の上映会のために何度も滝畑に往復をして、上映作品を選定し、準備して下さいました。
この日は8ミリのレギュラーとスーパーの映写機2台を持参。30~40年前の機械ですが、8ミリの一番良いもの。「宮参り」「折り紙おじさん」「杭全神社の早朝」「万部お練り」などを次々上映。
松村さんは作品も作られましたが、何千万円もかけて自分で編集もするなど機械にも強かったそうです。スクリーンに映し出されるどこか懐かしい味わいの映像をみんなで食い入るように見つめました。
続いて松村さんが所有しておられた9.5ミリの映像を、当館所蔵パテ・ベビー映写機2台を用いて上映しました。ここで面白いエピソードが。木下さんに託された映像を黒瀬さんが、当館で簡易テレシネし、YouTubeでUPした中に9.5ミリで撮影した赤ちゃんが映る映像もありました。たまたまその映像を観た人が「赤ちゃんの時のお父さんが映っている」と「映像発信てれれ」に連絡。この日の上映会には、その赤ちゃんだった楠 晴男さん(1932年2月生まれ、85歳)とご子息も参加して下さいました。
後日、楠 晴男さんからお便りが届きました。お帰りになる前にお願いしていたことでもあり、一部を掲載させていただきます。楠さんが最も驚かれたのは、2台もパテ・ベビー映写機が動いていたことのようです。楠さん宅でパテの映写機を購入されたのは1931(昭和6)年~1932年頃でお父様とお兄様が撮影をされていました。「晴男の生い立ち」は1932~1934年、お姉さま冨美江さんの「踊り」は1934~1935年、「外国出発当日」は1935(昭和10)年に撮影。横浜から氷川丸で米国のシアトル、カナダのバンクーバーへと旅立ち、ロサンゼルス→ナイアガラの滝→ニューヨーク→大西洋→イギリスのロンドン→フランスのパリと旅行を続け、カイロ→香港を経て、照国丸で神戸へ帰港されたのを出迎えに行かれた記憶があるそうです。
1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件以降戦闘が拡大し、パテ・ベビーの消耗品の入手が困難になり、1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発と共に欧州ではドイツ・イタリア対イギリス。フランスの戦争も起きて、パテ・ベビーの用品は全く手に入らなくなったようです。1945年にお兄さんの堅治さんがビルマで戦死、1954年にお父様の正治さんが病死され、1960(昭和35)年頃に遺されたパテ・ベビーの映像を映写機に掛けられましたが、コードのゴムの劣化が激しく、映写機を触るごとにビリビリ感電した記憶があるそうです。その経験がおありだから、上映会でパテの映写機がきちんと整備されて動くことに驚かれたのですね。
㈱楠商店のフィルムは、大正区の千島町、小林町以南が埋め立てられ木津川から運河が引き込まれた当時の映像で、会社の裏がすぐ運河となって、貯木場になっています。1945年3月13日夜明けの大阪大空襲で大正区は灰燼に帰し、会社があった跡地には今、大正区役所が建っているそうです。今は亡きお父様、お兄様、お姉様が映っていて感慨も一入だったことでしょう。
実家を継承された甥子さんが昭和40年代に家を建て替えた時に、映写機とフィルムは処分され、どういう経路だったか知る人はおられませんが、松村さんの元に届けられ、今は「映像発信てれれ」に保存され、妙縁で、おもちゃ映画ミュージアムで一緒にご覧いただきました。
お手紙で「85年前の私に久しぶりに逢うことができ、懐かしく拝見させていただきました。昭和初期の風景や風俗、また故人に逢うことができ、感謝いたします。今は亡き、松村長二郎様がフィルムを保管していただいたことに対し、厚く御礼申し上げます。ご存命でしたら種々お話ができたのに…と残念でなりません」と綴っておられます。
当日は、パテ・ベビー・フィルムが劣化して縮んでいることもあり、度々映写をストップして、ハラハラしながら観ました。お便りには「当時からフィルム送りが中央の一つ穴で不安定で、映写がよく止まったことも思い出されました」と綴ってありました。松村さんの高度なテクニックを用いた地域映像と共に、楠様が過ぎ去りし懐かしい日々を思い出す素敵な場に同席させていただいた貴重な上映会になりました。
映像の由来を教えて貰いながら辿る昭和史。改めて映像で残しておく意義を思った一日でした。ご参加いただいた皆様、そして貴重な映像を上映するために尽力して下さった皆様に、さらに貴重な映像を記録し、保存してくださった亡き松村長二郎様に心より御礼を申し上げます。7月17日の命日には少々早かったのですが、偲ぶ会を兼ねての上映会。松村さんを知る誰もが「きっと松村さんここにいて、一緒に観ているよ」と言っておられました。おかげ様で、良い供養になったと思います。
楠さまも、どうぞお体に充分気をつけられて、日々健やかにお過ごしくださいませ。お会いできて嬉しかったです。感謝しています。
【おまけ】木下さんから教えて貰ったのですが、ヤフーオークションで、この日のチラシが売っています。これこそ、びっくりポン!