おもちゃ映画ミュージアム
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2018.12.26column

オペラ「森は生きている」鑑賞

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先週末の土曜日、長岡京市の記念文化会館へ行き、オペラ「森は生きている」を鑑賞しました。今さらのように赤面していますが、この作品大変有名なものだったのですね。17時開場前の会館にはクネクネト連なる長蛇の列。大人だけでなく子どもを連れたご家族も多く見受けられました。自分の乏しい経験から、「京都の人は動かない」が定説になっていましたが、面白いもの、良いものには出費を惜しまない一面もあるのだと学びました。こうした素晴らしい作品を観せて貰える子どもたちは幸せだなぁと思います。

13時半開演の昼の部は早々に売り切れて、17時半からの夜の部の券を、この催しを教えて下さった田中泰子さんから譲ってもらいました。田中さんは12月14日に右足の膝の手術をされることになり、せっかくのその券を、私に譲ってくださったのでした。今改めてそのメールを読んでいると、会場に設けた「カスチョールの会」のコーナーに、モスクワ芸術座の初演(1948年)の写真が掲示されていたようですが、お嬢さんの友子さんとの再会を喜んで、その写真に目が止まらず仕舞いだったようです…。初演の時の4月の精ダヴイ―ドフさんにソ連崩壊後に貰ったものだそうです。惜しいことをしました。

満員の会場には子どもたちも多かったのですが、2時間20分の長い作品にもかかわらず、退屈して駄々をこねる子がいなかったのが、この作品の魅力を伝えているでしょう。衣装の面白さ、なにより色彩が綺麗でした。林光さんの音楽の素晴らしさも大きな要因でしょう。小人数編成なので早変わりをして別の役をこなす必要もあって役者さんは大変だったろうと思います。でも、もう少し端折れるところがあったのかもしれませんね、我慢して見ると面白さが強制になって半減してしまうかもしれませんから。

欲に目がくらんだ継母とその娘が、気立てが良くて働き者の継娘を森にやって季節外れのマツユキ草を採ってくるようにいう場面は、シンデレラの継母とその二人の娘の存在を連想させますが、どういった世の中にもこのような話はあるわけで、朝ドラ『まんぷく』の福ちゃんも「生きてさえいれば希望はある。どんな時も笑顔、笑顔」と言うように、前向きな姿勢は時を司どる12月の精たちを見方に付けて。

田中さんたちの『カスチョールの会』がこの作品に由来することも良くわかりました。舞台の上で、どのように焚き火を表現されるのかしら?と思ってみていましたが、赤々と燃える焚き火が本当に暖かく感じられ、わがままな女王様が「焚き火にあたらせておくれ」、そしてその結果に「ありがとう」と言う、こんな簡単な言葉だけで深刻な局面を打開できることを学びます。カスチョールはロシア語で焚き火。日本の子どもたちの健康な精神生活について考える人たちがより多く集まり、膝をつき合わせて考えることができるといいな、という思いでこの名前を付けられたのだそうです。

原作者のサムイル・マルシャーク(1887-1964)のこのお話の原題は「12の月」「12の月のものがたり」ですが、1953年に湯浅芳子さんが訳して出版された時に『森は生きている』となったそうです。1964年モスクワ留学中の田中泰子さんはマルシャーク本人にお会いされていて、その僅か1か月後にお亡くなりになったのだそうです。ウォルト・ディズニーから「森は生きている」のアニメ化をしたいという申し出があり、マルシャーク自身は喜んでおられたそうですが、実現しないままで終わっています。ディズニーのアニメになったなら、生の舞台で観ることが出来ない子どもたちにも、ひろく観てもらうことが出来、マルシャークが伝えたかったメッセージがより伝わるのに…と思います。

ネットで「森は生きている」を検索したところ。木村莊十二が監督した映画が国立映画アーカイブにあることがわかりました。1956年10月8日公開された俳優座と近代映画協会企画の作品で、62分の長さのもの。わがままな女王様を宮崎恭子さんが演じているほか、千田是也、小沢栄、東野栄治郎、岸輝子など錚々たるメンバーです。16㎜モノクロ版と35㎜カラー版でこちらは不完全版のようですが、いつか機会があれば見てみたいものです。神戸映画資料館にも問い合わせをしたところ、同じタイトルのソ連映画(YouTubeに上がっていたこの作品かもしれません。東映動画、桜井映画社のフィルムがあるとのことでした。1956年は、日ソ国交回復した年でもありました。

 木村莊十二は1941年満州映画協会に移り、敗戦後も中国に残り、持永只仁らとともに中華人民共和国の文化工作に協力しました。1953年に日本に戻って第1作がこの「森は生きている」でした。中国からの引揚者は映画の現場で随分と苦労をされたそうです。マルシャークは1943年、独ソ戦の最中にこの作品を書き上げました。レニングラードがドイツ軍によって900日間も包囲されていた中にあってのことです。マルシャークの希望を託したこのお話は、きっと心労が多い木村莊十二にも心に響くものがあったのでしょう。ウィキペディアによれば、晩年は地域の子ども向けに、定期的に映画上映会を開催したそうです。10月に上映した『石井桃子のドキュメンタリー映画』監督の森英男さんは、1988年8月に営まれた木村莊十二の葬儀告別式に参列されました。彼によると「映画関係者の姿はほとんど見受けられなかった」そうです。

こういったいきさつのある作品のことを知り、一年後の12月に田中泰子さんのお話を聞きながら、「森は生きている」を鑑賞する催しができないかと思っています。

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